集中豪星

長崎 朝

小説

13,649文字

やまない雨はないけれど、降りやまない星ならここにあります。

誰かに「ねえ見て」と耳打ちされたような気がして、津葉作つばさが読んでいた文庫本から顔を上げると窓の外は星の土砂降りだった。

「降ってきたね」

上下の唇がかすかに離れ、気管支が声の主の肺と世界を接続し、音の通り道ができる。かすれた音が口蓋垂に引っかかってから唇の動きに遅れて放たれる。誰かの声が聞こえる。

「土砂降りだね」

津葉作の手の中で、文庫本のページがはじめは一枚ずつぱらぱらと、次いでざっくり五十ページはめくれた。

まるで星の大群が地球を侵略しに来たかのようだ。窓から目を離すことができない。暗い窓枠の中に反射するのは、鏡像になった車内の光景だけど、そこに重ねて露光したフィルムみたいに、もう一つの世界を右から左へ流れていく無数の斜線と斑点。

そんなはずはないと惑星の軌道を思ってみた。星の形を思い出そうとした。ところが頭に浮かぶのはどうしても、時代遅れのでっぷりと太ったブラウン管テレビの箱型で、そこに甲羅と鋏が二つくっついた奇怪な形状になってしまう。エスカレートした空想癖が暴走して、ものごとのありようを正しくない方向に取り違えていくとでもいうのか。いま、目の前に星があり余るほど降りしきっているのだから、あれが星なのだと思おうとすればいいのだが、どうしたことか見れば見るほど、思おうとすればするほど星とはかけ離れた降下物に感じられるのだ。

地に降りそそぐ星、季節外れの星。星々、といったほうがいいのだろうか? だけど数が多すぎてただの星。数えられない名詞。自分はいま何かのエラーの内側にいるのだという気がする。

さっきからのろのろ運転の電車は思い通りに進んでくれない。きっと家に着くのはずいぶん遅くなるはずだ。こんなときは妻に一報を打っておくのが礼儀というものだからと思って、津葉作がLINEで火奈かなに連絡をとろうとしたとき、桜の花弁や雪の結晶が舞い散って季節ごとのLINE画面を飾り立てるのと同様に、ディスプレイの中にまで星が降っているのに気づいて彼は目を疑った。いったいなんの真似だろう。

――電車が遅れてる★ 帰りが遅くなりそうです★

――なんだか星がすごいらしいの☆ 気をつけてちょうだい☆☆

そんなつもりはないのに、句読点が★に変換されてしまう。今日は七夕だったっけ?

家でニュースを見ている火奈は、星の土砂降りの影響について、津葉作よりも詳しい。

夕暮れ時、折からの集中豪星しゅうちゅうごうせいの影響で、南関東地方の主要公共交通機関はほぼ全面的にストップしつつあり、もちろん自家用車での移動も困難をきわめていた。街はどこもかしこも大量のヒトデに埋もれはじめて、人々は立ち往生を余儀なくされている。先月から続く相模湾一帯におけるヒトデの大量発生によって、港湾付近ではこのところ毎日のように星が降っていると聞くが、河口から随分遡ったこの水域において、窓をすっかり覆い尽くすほど、何千何万匹もの星たちが吸着する現象は珍しい……。

津葉作も家に帰れない。家に帰れるときなら、すぐに家に帰れない嘘の口実をいくらでも思いつくのに、家に帰ることが難しい状況にあると、途端に道草を食うのが億劫になってくる。早く帰りたい。帰って温かい風呂に浸かって晩酌がしたい。

津葉作は首を傾げていた。なるほど、あれはヒトデが降っているということなのか。そんなはずがないではないか。第一、相模湾がどうのこうのだとか、ヒトデが大量発生しているだなんて聞いたことがない。だけど自分の思いの照準が、どの「そんなはずはない」の的に狙いを定めようとしているのかがわからない。星が降ることなのか、ヒトデが降ることなのか。でも内心は、星が降ることを知っていたような気もしてくる。温暖化だとか異常気象だとかの話をよく耳にするけれど、その話の中に星の話ももしかしたらちょこっと含まれていて、うんうんと頷きながら聞いているうちにわかったような気になって、それっきり忘れていただけなのではないか。そういえば、天文学や宇宙に対する子どもの頃からの憧れにはじまって、星というものの持つ神秘に惹かれる気持ちも、自分の内に以前からまるっきりなかったというわけでもなさそうなのだ。だから異常とも思わずに、頷くまま飲み込んでしまったかもしれない。

出かける前に気象情報を確認するという習慣がどうしても確立できないのは、「星降る夜」にずぶ濡れになって架空のあなたと抱き合ってみたいというロマンティシズムが、いつしか急な悪天候をも歓迎する動機になってしまっているからで、とどのつまりは成り行きまかせ、朝に晴れていれば折りたたみ蝙蝠を鞄に入れていくなんてことはしたことがなかった。

「今降っていないのに、わざわざ荷物を増やすなんて馬鹿みたいじゃないか」というようなことを津葉作が出がけに思わず口走ると、「脳味噌も睾丸もヒトデにぼりぼり食べられて人でなしになっても知らないわよ」と、後ろから気象予報士のふりをした火奈の声が追いかけてきたこともあった気がする。それとも火奈のふりをした気象予報士の声だったか。

実際に、言葉には尾鰭胸鰭がついていて、それをしならせたり打ち震わせたりしながら推進力を得る。そうしてときには一直線に彼の背後にまで急接近し、けはいに慄いて振り返った途端、そいつはふいっと脇をすり抜けてもうどこかへ消え去ってしまう。ぶつかるならいっそのこと強烈にぶつかってきてほしいと思ってみても、こちらの思いなどただの岩陰の澱みにすぎないとでもいうように、音もなく言葉は身を翻し、抜け殻のような淡い半透明の残像だけをその場に残していくのだ。それが特別逃げ足のはやい異国の言語なんかであってみればなおさら、言葉尻を捕まえるのは容易ではなく、逃した魚は大きいのも小さいのも中くらいのも数が知れない。どうせ捕まえられないのなら、はじめから無視してしまえばいいのだけれど、言葉は勝手に逃げていくくせに、逃したこっちはそいつを捕まえなければならない義務を感じる。

ぼくが繰り出す言葉を、架空のあなたがキャッチして、架空のあなたが放った言葉を、このぼくがしっかり捕まえられたらどんなにいいだろう。だけど、どんな網からだって逃げ去っていかないような言葉――工夫に応じてなんとかこの手に捕まえていられるような言葉――があるとして、それは本物の言葉だといえるだろうか?

架空のあなたと抱き合うという幻想が有効なのは、降るのか降らぬのかはっきりしないような「降る直前」までの話で、いざ降りはじめてそれが豪星ともなると、彼は自分がつくづく星男だなあと思って嫌になる。なんで折りたたみ蝙蝠のひとつも持って家を出なかったのか。隣で津葉作にもたれて居眠りしている少女は、細長くたたまれた透明な蝙蝠を持っているけれど、あれは母親に言われて持って家を出たのだろうか。それとも自分で気象情報を確かめたのか、あるいは途中で買ったり盗んだりしたのかもしれない。

それまで肩にのしかかっていた、不規則に夢の外へ落ちる優しさが心地よかった人の頭の重みが、不意に窮屈な重圧に変わった。火奈とは似ても似つかない見知らぬ彼女は、少年みたいに硬く弾みのない短い黒髪で、一定の間隔で首が頭の重さを支え損なって、風の空白に沈み込む凧のように、ときおり眠りの関節が抜けかける。そのたびに剥き出しの首筋から、新品のバスケットボールみたいな匂いがした。津葉作はフリースローを外されたゴールリングのように虚ろだった。

わたし、魚になってしまったんだわ、と火奈が唐突に口走ったとき、津葉作はもうその手には乗らないよと心の中で思った。彼女はそれまでも、ときどき牛になったし、カメレオンになったし、チンアナゴになった。ボクサーになり、歯科医になり、大統領になった。いや、ときどきどころではなく、歳を重ねるにつれて彼女の変身ごっこは頻繁になっていき、一日中恐竜の卵になっていることさえあった。そんなときはほとんど一言も口をきかないし、こちらの言うことに耳も貸さない。頑なに殻を閉ざし、自分で編んだ毛糸の帽子で白銀の頭に蓋をして、窓辺の肘掛け椅子の上に小さくなってじっと座り込んでいる。眠っているようにも見えるのに、不意に「あら、パルミジャーノ・レッジャーノがお通りだよ」なんて声を上げるからきっと起きてはいるのだろうけれど、薄く目を開けているのか、それとも心の眼差しで見透かしているとでもいうのか、近所の野良猫が窓の外を通過するけはいにだけは人一倍敏感だった。火奈から与えられた仰々しいチーズの名前がはたして相応しいかどうかは置いておいて、その猫は確かに全身の毛が真っ白で、鼻先だけが桜の花弁のように薄いピンクだった。白をチーズに結びつけるなら、モッツァレラでもマスカルポーネでも、ブリア・サヴァランでもいいはずなのに、どうしてわざわざ舌を噛みそうなほど長ったらしい、それも猫特有の柔らかさとは無縁のハードタイプのチーズの名前なんてつけたのか。いっそのこと、ただのチーズでもよかったはずなのにと、津葉作は首を傾げるべきか笑って見守るべきか迷ったあげく、チーズというのはそういえば『アンパンマン』に出てくる名犬の名であったのだと思い出して、「ああそうか」と口に出して笑った。種類の多様性はともかくとして、ワインやスパゲッティとも相性のいいあの伝統的な白い発酵食品は、犬や猫の愛称とも親和性があるのだ。

「何が、ああそうかなの?」と火奈がこちらを振り返ると、「なんだ、卵であることはやめたのか」と津葉作が返す。

「パルミジャーノ・レッジャーノの帰宅時間まで卵でいられたら上出来よ。もう、殻を破って、そろそろ孵化しなくちゃ」

「どうして、いつもフルネームで呼ぶんだい? 言いづらくないのか? 略すとか、してみてもいいような気がしてね、パルミなんてふうに」

「あら。あの猫の名前は、あの足音と関係があるの。ほら、表の砂利をまるで行進していくみたいに歩いていくでしょ。あの砂利道をあんなふうに歩くのはパルミジャーノ・レッジャーノしかいないの。他の猫、たとえば塀太は脇の土の部分をひょいひょいと小走りに抜けて、あそこの塀の上にジャンプして音も立てずに行ってしまう。だからこの名前はジャーノの部分の響きが大事なのよ、特に韻を踏んで繰り返すところが」

「なるほどなあ」と、一応は感心した風な生返事をしながらも、彼は別のことを考えていた。自分で口にしてから気づいたが、パルミだったらそれはフランス語のparmi、英語のamongに相当する「〜の中で、あいだで」という意味の前置詞ではないか。形容詞ならともかく、具体的に何を表しているのかいまいち掴みどころのない前置詞では猫の名前にはなりえない。その単語の前後に存在するはずの何かが補われなければ、意味を成すことさえかなわない不完全な記号。だが考えてみれば言語など、どんな品詞にしてみても、もともと不完全な記号どうしが組み合わされてできた、間に合わせの見掛け倒し品にすぎないんじゃなかろうか。

近所の猫たちのうちで、韻を踏んで歩く詩人の猫は、あの猫だけだ。猫の形をした余白――優雅に、まだ書かれない言葉たちを全身に纏いながら。

水の中から声を聞いているみたい。あなたの声も、世間の音も、パルミジャーノ・レッジャーノの行進も、地上で起こっていることのすべての音が、水の分厚い層を通して鼓膜に届いてくる。わたしだけは水中にいて、くぐもった世界、壁に閉ざされた大海原から抜け出せなくなってしまったらしいわ。霧で視界が塞がれて世界が感知できなくなるように、わたしには周りの世界が聞こえない。正確には、聞こえにくくなった、そんな感じがするみたい。だから、これって、魚になったのと同じじゃないかしら。

そこには、火奈がこれまで牛だの卵だのになりきっていたのとは明らかに違う響きがあった。津葉作は「おい」と声をかけてみた。「何よそんな大きな声出して」と言われたので、声のトーンを低く落として「聞こえるのか」と言った。火奈は眉を少し持ち上げ、同じくらい低い声で、「聞こえないわ」と答えた。「魚語で喋ってくれないと」

先ほどまで隣に座っていた少年のような少女は目を覚ますと、バスケットボールのように弾みながら、どこか途中の駅で降りてしまったようだった。この電車は今、徐行したり停止したりを繰り返していてなかなかどこへも到着しない。津葉作が降りる駅まではあと一駅のはずだけど、急行に乗ったのだからその一駅が遠い。各駅停車に換算したら、あと三駅はあった。

補聴器をつければ問題ないだろうと、横浜でやった音楽会に火奈も誘ってみたのだが、わたしは家でおとなしく編み物をしていたいのだと言って聞かなかった。あなた一人で行ってきてください。音を拾い集めるのに、あちこち歩き回ったり、屈んで手を伸ばしたり、人の座席をゴトゴト揺さぶったりしなくてはならないからわたしは邪魔よ。そんなことしてたらコンサートホールからつまみ出されて中庭の噴水が出る池に捨てられちゃうんだわ。あそこ、鯉がいたでしょう? 赤や黒や金色の鯉が。さあ、鯉はいたかどうだか、それより池の真ん中に得体の知れないモニュメントが展示してあって、たしか帆船みたいな形をしていたようだけど、記憶が定かでない。今日も確かめてくるつもりがすっかりそんなことは忘れてしまっていた。

子どものいない二人には、若いときから二人だけで過ごす時間が腐るほどあったはずだけど、時間はほんとうに腐るものなのだと彼が知ったのはつい最近のことだ。二人でいる時間と一人でいる時間の、どちらがより長かったのか分からない。余った時間になんの処置も施さず、瑞々しさを失って悪臭を放つままにほったらかしてきた。ある種の果実にとって、その甘美さを最も発揮する瞬間は腐る直前だと言われるように、時間も腐敗の寸前にこそ永遠の光を予感させるものだ。使われなかった無為の時間。時間として経験されなかった置き去りの現在。腐ってしまった以上はいつまでも大事に持っているわけにいかない。それが歳をとるということだ。可能性で充満していたはずの日々が朽ち果てていくときの、あの危うい芳香を最後に嗅いだのはいったいいつのことだったろう。

早く帰りたい。帰ってまだ腐りきっていない現在をもう一度火奈と分かち合いたい。こんな季節にフルーツが売っているか知らないが、駅に着いたらスーパーマーケットかコンビニで何か買っていこう。

「次の停車駅は☆*★☆……」とアナウンスが喋った。

津葉作がはっとして文庫本の文字列に目を戻したら、文字たちはみんなメダカの稚魚みたいにひとつの方向に頭を向けて、電車が停止した瞬間、慣性の法則が働いたのだろうか、それまでの進行方向にいっせいに押し寄せられてしまった。勢いのあまり、少なくない数の文字たちが本の外にこぼれた。さっきまで読んでいた文章がどんなものだったかと、頭の中で組み立て直そうとしてみたものの、浮かんでくるのは黒いオタマジャクシたちが連なったりひっくり返ったりしている無秩序な五線譜……断ち切られ、時間軸さえレゴブロックのように解体された、奏でるためではなく音を引き取るための沈黙の抽象画……。

彼はリュックサックのポケットからタオルハンカチを取り出して、膝にこぼれて広がっている言葉染みの不快感をおさえた。ズボンの表面で言葉が新しく連結し、そこに何らかの意味が形成されているというようなことがなくてよかったと思った。たとえば、「おまえさんの陰茎を食いちぎってやるよ」というような。それはけっこうなことだ。意味がないことも、アレを食いちぎるという発想も。もしかしたらアナウンスは、次の停車駅は存在しませんと告げているのかもしれなかった。車掌はいつでもめいめいの好き勝手な言語で話すから、どこかの駅で違う鉄道会社の路線に接続したときに、異国の単語も織り交ぜたラップ調の言葉を使う車掌と交代し、それでちょっと耳慣れないんだろう。ここは自分の家のある駅ではない。きっと存在しないはずの駅に到着したのだ。

電車が停止し、黒いスーツを着たひとりの男が乗車してきてあたりを見回した。濃い色の眼鏡をかけているが、その奥に細い目が透けている。蝙蝠を折りたたむ彼の身体に、ずいぶんな数のヒトデが吸いついていた。アカヒトデ、アオヒトデ、イトマキヒトデ……どさくさに紛れてアメフラシが一匹、上腕の内側で、銀色の斑模様に蛍光灯を反射させて、ひときわキラキラと輝いている。プラットフォームのちょうどここから見える位置で、屋根のある箇所が終わっているためだろう、その場から移動する人たちが次々と蝙蝠の花々を開いてくるくる回転させ、駅全体がクラゲを展示した水槽みたいに淫らな粗雑さの中に沈んでいた。男は津葉作の真向かいの席に座った。そして腕時計を確かめると溜め息をつき、もういちど顔を上げてあたりを見回した。夜の七時半。結婚式か通夜の帰り。おそらく通夜だろう。こんな湿っぽい日に、人は結婚式なんか挙げない。それに、死体の匂いがする。

男の視線と津葉作の視線が空中で危ういアクロバット飛行を繰り広げ、宙返りの途中に、上下逆さまの体勢になったまま、天井からぶら下がった中吊り広告を突き破った。突き抜けた裏側には果てしない砂漠が広がっていて、丸い月が昇り、冷たい風が吹きつけて砂をときどき巻き上げていた。旅行会社なのか旅雑誌なのかわからないその広告をしばらく眺めていると、急に大きな口が現れて、砂漠を丸ごと飲み込んだと思ったら、そのままくちゃくちゃ音を立てて奥歯で全部すり潰してしまった。

「あーうまかった」と大きな口をした顔は日本語で言った。「でも全然足りない。ねえ、あんた、何か持ってない? おいしそうな遺跡とか」

砂漠を食べるからには駱駝に違いないと決めてかかったが、よく見るとそいつはパルミジャーノ・レッジャーノだった。ただ、つんと澄まして通り過ぎるあの姿とはまったく別の、鬼のような怒りに燃え上がった煌々とした目をしていた。その猫は津葉作の鞄に目をやって、支柱のようなよだれを垂らしながらたずねた。チョコレートならあるよ、と返そうかと思ったが、その瞬間、絶対にパルミジャーノ・レッジャーノはチョコレートならあるよなんて答えを求めていないのだということが啓示のように彼をとらえた。それは口に出してもいいし、誰一人その言葉によって被害を被ることもないけれど、口に出すよりは出さないほうがマシなのだ、言ってみたところでどうにもならないのだから、今は口を噤んでいようじゃないかという咄嗟の思いから、彼は言葉を飲み込み、顔全体で、役に立てなくてすまないという意味の表情をできるかぎりつくってみせたつもりだった。猫は今度はなんとなく悲しそうな顔をしていた。だが仕方がなかった。

再び電車が動き出すと、津葉作の向かいの男は新聞を広げた。朝刊なのか夕刊なのか知らないけれど、こんな時間に電車の中で新聞を読むような人間には、なかなかお目にかかったことがない。かといって、それが著しく奇妙な行為であるかというと、それは断言しきれない。朝読むはずだった新聞を、忙しくて読む暇のないまましまい込んでいて、今になってようやく目を通す時間ができたのかもしれないし、単に気分の問題かもしれない。もしかしたら、それは今日の新聞ではなくて、一週間前の新聞だってこともありえるわけだ。

「同様に、明日の新聞である可能性もありますね」津葉作の膝の前に脚をたたんで座り込んでいるパルミジャーノ・レッジャーノが少し嗄れた声で言った。

「明日の新聞に、あんなに文字が書いてあるはずないじゃないか」

「明日だって、今日や、これまでみたいに言葉に埋め尽くされているんだわ。ほら、あの見出しを読んでごらん」

〈羞恥のロープを綱渡り★落ちれば破廉恥☆微塵粉のサーカス。覗き穴の向こう側★異星の裸婦が蛸踊り〉

いったいどういうことだろう、丸っきり理解ができない。サーカスの広告だろうか……。というより、見出しにしては長すぎるこの文言を構成するそれぞれの一文字が、どこかで見たことのあるような形をしている気がする……そう、さっき彼の文庫本からこぼれてしまったオタマジャクシたちが、新しい紙面を見つけてそこに住みつき、再び何かを語りはじめたのだ。でも、これの何が明日の見出しなのだろう。そう思っていると、男が新聞のたたみ方を変化させ、それにともなって言葉たちはまた新たにとるべき形態へとそのつど変貌し、事件も、出来事の意味も、政治経済事情も、宣伝すべき何かも、一つの決まった形を保っているということはなく気まぐれに転換した。もっとも、そこで生成する言葉の並びのほとんどは、ジャーナリスティックな観点からいえば理解不能であり、どちらかといえば詩のようなものに思えたのだが。

〈踊り明かせば猜疑心☆星降る夜は妊娠日和★ヒトデの吸着面が笑ってる☆幽閉列車のスプリンクラーに擬態して〉

「わたしち、閉じ込められるわ」とパルミジャーノ・レッジャーノが言った。「こんな嵐のような星降りじゃ、じきに電車が動かなくなってしまう」火奈が耳打ちしたようにも思えた。

いまの自分が、到底正しい位置にいるとは思えない。さっきよりも一層激しさを増したような星降りに不安を覚えていると、向かいの男がいきなり新聞を畳みだし、「わかったぞ」と声を上げた。何がわかったのだろうかと注目していると、男の視線がまたもやあやふやにあたりをさまよいだし、一度宙返りを決めてから津葉作の額に突き刺さった。

「いや、旦那さん、電車が止まりますよ。明日の新聞に書いてあります」男は日本語で言った。「ヒトデがパンタグラフに絡まってスパークしちゃうっていうんでね。火災や停電は免れない。それにこんな降りようじゃ、いずれ脱線だって避けられないでしょう」

タイミング的にはパルミジャーノ・レッジャーノの言ったこととダブっていたので、なにやらインチキがはじまったのではないかと津葉作は警戒して口を噤んだままじっとしていた。それに、ほんとうにそうなったところで手の打ちようなどどこにもない。日本語のように聞こえてそれは、自分のいまいる世界の秩序や言葉の生態系を掻き乱していく外来魚的言語なのではないか。無反応の冷たさで凍ってしまったみたいな津葉作をとろけさせようとするように男が喋った。

「ひとつ、あなた、占ってさしあげましょうか? われわれの運勢ってやつを。今夜の星の動きには、何か、人を穏やかにさせないものがありますからなあ」
「いったい、なんでしょうか、あなたは」

津葉作は思わず返答してしまった。考えようによっては、男の執拗さに無理やりこじ開けられる前に、みずから鍵を緩めてやるのもひとつの戦略にはなりうるはずだ。相手が隙間に汚れた手を差し入れた途端、思いきり扉を閉めてしまえばいい。

男は「申し遅れました」と言ったきりそれ以上は口にせず、胸ポケットから名刺入れを取り出してその中の一枚を津葉作のほうへ差し出した。

占星術師 阿熊靖春

Yasuharu Aguma

星降る夜に、星占い師と同じ車両に乗り合わせるなんて、そんなことちっとも望んではいないし迷惑が一つ増えただけだ。ほかの乗客は車内でまばらに分散し、影のようにひっそりと冷たくなっている。

「そうじゃない。そうじゃないんですよ、あなたが影なんだ。いまや星の影に入りこんでいるんです。彼らは生身の人間で、車外には生身のヒトデたち。影なのはあなたのほうなんですよ、旦那さん」

「ちょっと待ってくれ、占い師さん。星には詳しいのだろうからおたずねしますけれども、あれはいったい星が降っているのでしょうか、それともヒトデが降っているのでしょうか」

「何が降っていようと問題ではない。ある意味では窓の外は、斜線スラッシュ斑点ドットのパターンによって隙間なく構成されたパノラマ画とも言えますね。そして、この世界にはいろんなものが降る。毒薬も放射能も紫外線も、現にこの瞬間だって降り注いでいるんだ。それに比べたら、ヒトデだの星だのが降ったところでたいした意味はないです」

「でも電車が止まった」

「時間にとって、止まるとか動くとかも意味はない」

「こっちにとっては意味のあることなんだ。止まっていたら家に帰れない」

「あなたが動けばいいんです。どのみちあなたは影法師なんだ。どこへだって帰れます。ただ、私からすれば家に帰るなんてことのほうが意味がない。そうじゃないとおっしゃるなら、私がいま事実はそうだとお教えしますよ。奥様は聴力を失ったわけじゃない。あなたが声をなくしたんだ。もう随分昔にですけどね。そうだな、六十年は経ったでしょう。あなたはいまでもあのときの電車に乗って、家に帰ろうとしつづけている。自分はまだ四十何歳だと思っているかもしれないが、影にならずに生きていたら百六歳だ」

そんな出鱈目を受け入れるわけにはいかないし、悠長に聞いている暇もなかった。そんな色眼鏡越しに見たら誰だって影法師に映るに決まっている。パルミジャーノ・レッジャーノは小さくおとなしくなって、津葉作の隣の座席に伏せ、顎を彼の膝の上に載せていた。その首筋を撫でてやりながら、彼は占い師のほうを黙って見ていた。

「ええ、これはもちろん、降っているのはこのとおり、正真正銘のヒトデの大群ですよ。だが、星と言ったってこの場合、同義じゃないですか。雪にだってたしか、別の名前があったはずだ」

津葉作には、自分がかつていまと同じように土砂降りの星の中を電車で移動したことがあったような気がしはじめていた。それとも何かの小説でそんな場面を読んだことがあるのだろうか。いや、あれは現実に起こった話だった。火奈と一緒に横浜へジャズフェスティバルにでかけた帰り、二人とも疲れて電車に揺られるあいだにいつのまにか眠ってしまっていた。左肩にもたれた火奈の頭が、音階を転げ落ちかけては持ちなおすトランペットの間延びしたソロのように、時折眠りの梯子を踏み外す。また一段いちだん登りはじめてようやくもとの位置まで戻ってきたとき、寝言のように彼女がつぶやくのが聞こえた。

「ねえ見て」

なんのことだろうとはっとして顔を上げると、窓の外がオレンジ色に燃えているようだった。空が発光しているのだろうか。目を細めると、ずっと遠くのほうで、夕闇を爪で幾重にも引き裂くように、流星が無数に地上に降り注いでいる。

「なんだい、あれは?」

「さあ。まるで星の雨のようね。普通、流れ星はあんな降り方しないのに」

だけどそれはたしかに本物の星々に見えた。そう見えてはいるけど個々の形は見えていない。見えるのは光の動きだ。白くて冷たそうな火の球が何百も、天でシリカゲルの袋を千切ったみたいにこぼれて空中を跳ね回っている。あっという間に自分たちの居場所まで光のシャワーに飲み込まれてしまった。星たちが明るくて、明るすぎて車内も火奈の顔も真っ暗だ。

いつの間にか停車して、前にも後ろにも動く気配のないこの電車はいまどこにいるんだろう。

「火奈」と津葉作は呼びかけた。

火奈が答える代わりに、猫の気のなさそうな鳴き声がした。

「阿熊さん?」

「なんでしょう?」

闇の中から占星術師の声が返ってきた。

「あの、それで、運勢はどうなんでしょうか」

思わず呼びかけてしまった帳尻を合わすために、たいして興味のないことを質問した自分が愚かだと思った。

「星火燎原、打つ手なし。といったところですかね」

何の因果でこんなところに閉じ込められる羽目になったのか。そうすんなり信じるわけにはいかないけれど、占い師が言うように、自分は何度もこの電車に乗り合わせ、何度も集中豪星の影響で家に帰れなくなった気がする。言いたくはないけれど、そうやって時間を存分に腐らせてきたのだと言えばなぜだか腑に落ちる。掌で額を打って「そうだそうだ」と得心が行くような思いだ。何十年も生きるうち、星が降るたび道草を食ってきた。今日は真っ直ぐ帰ろうというときに限っていつも、肝心なところで電車は止まってしまうものなのだ。

「俺は家に帰りたいんだ」

津葉作は立ち上がると、携帯電話のわずかな明かりを頼りに車両の連結部のほうまで移動して、非常用ドアコックを探した。壁に設置されたいくつかのパネルには、それがどんな機能を持ったものなのかを示す言葉が書かれていないから、彼はヤケになって片端からボタンというボタンは押してみて、扉になっている箇所は引き開けた。何がどうなろうと知ったことではない。ひねれそうなレバーはすべてひねり、回せそうなダイヤルはすべて回した。どこかでヒトデが配電線を焼く音がする。新聞や中吊り広告や文庫本から逃げ出した言葉たちがそこらじゅうを、魚になって泳いでいるような気がした。

外来種も固有種も区別のつかない言葉の魚たちを掻き分けながらドアにたどり着き、手を突っ込んで真っ二つにこじ開けると彼は車内をもう一度振り向いた。「阿熊さん?」と声をかけてもなんの反応もない。それなら「パルミ!」パルミはどこだ! ザクッと音がした車外を見下ろすと、真っ白だったはずの猫が黒焦げになって線路のバラストを踏み鳴らして歩いていく。だがすぐに足音は消えた。

地面からの高さは想像していたより倍はあった。津葉作は意を決して、できるだけヒトデの堆積の分厚そうな場所をめがけて跳び降りた。着地の瞬間、夜が昼に切り換わったような衝撃があった。不自然な形に左の足首が捻れたらしく、転げながら彼は思わず「痛い」と口走った。だけど自分はちゃんと影じゃないじゃないか。痛みを感じるのだから、俺は生身の人間だ。彼は起き上がり、首に吸着したヒトデを引き剥がして、ひとけのない線路の上をゆっくり歩き出した。振り返ると、電車の側面はどこを見てもヒトデに覆われていた。くそったれのヒトデだと思った。あの電車は、行き場を失くした言葉の亡霊たちの、くそったれの魚礁だ。相模湾に沈めてやりたい。

歩いても歩いても、足の裏に伝わる★の気色悪い感触に慣れなくて、癇癪を起こしそうになる。津葉作はむやみに腕を振り回して☆を振り払った。払っても払っても風が吹きつけてくるから効果が上がらない。一挙に何枚もの☆☆☆が横面を叩いてよろめいた。「枚」なんて数え方をするだろうか? 自分がどこへ向かっているのかもわからないまま、彼は降り狂う豪星の中を走り出した。思いつくかぎりの罵声を星々に浴びせながら、顔をくしゃくしゃにしてほとんど歩くよりも遅い速さで走った。なんのために走っているのかもわからなかった。

誰かが俺を見たら馬鹿だと思うに違いない。俺を見たら、そいつは自分のことを俺よりまだマシだと思うに違いない。だけど何がマシなんだ?

津葉作の頭に、幸福とは何かという考えが不意によぎった。そんなものわからなくてあたりまえかもしれないけれど、自分の心から望むものがわからなかった。なぜいまになって突然そんなことを考えなければならないのだろう。走りながら、こうして☆々にぶちのめされるよりも、ちょっとでもマシだと思えることは何なのか知りたくなった。たくさんの笑顔の花にむせ返るようになりながら暮らすことなのか、お金の心配をしないで生活することなのか、たくさんの架空のあなたたちと色とりどりのロマンチックを重ねつづけることなのか、そのどれでもないと思うし、そのどれでもあると思う。でもそんな大袈裟なものじゃない。あるいは嫉妬や憎悪や羨望や殺意や後悔や恐怖にとらわれずに生きていくことなのか。そうじゃないと思うし、そうだとも思う。わからないということが幸せなんじゃないか★ 違う。健康で、おいしいお酒とご飯に舌鼓を打って、心を揺さぶる音楽を浴びるように聴いたらそれが少しはマシなんじゃないのか。違う☆違う☆違う。何かが繰り返していくこと。存在しているということ。何かがもう終わってしまったということ。何かがまだはじまっていないということ。いや★★★どれでもない。架空ではないあなたがいるということ。毎日ちょっとずつ絶望できるということ。この危うい綱渡りからいつか転げ落ちてしまわないように、毎日毎日さりげなくバランスをとりなおすように生きていくこと☆★☆★☆ そんなんじゃない。いつも火奈に言われるように、朝天気予報を調べてくることじゃないか? 正しいようだけど、しっくりこない。降りやまない★で世界が埋もれていく。思いのほかざらざらと硬くて、砂糖をまぶしたゼリー状の和菓子みたいな肌触り。俺はいま「☆々のあいだに」存在しているんだ。パルミよ、どこへ消えちまったんだろう。あんたが砂利道で行進する足音なんて本当は聞こえやしなかった★☆★ 猫はどんなところでだって音を立てないものだ☆ それはともかくとして、ちょっとでもマシなことはなんなのか? おそらくそれは……いくら考えたって答えが出るもんじゃないのだろう。

だけど、馬鹿みたいになってこうやって走っていくことは、なんだかあの言葉の魚に似ている。そのことに気づけたことはよかった。尾鰭胸鰭を震わせて、自分はいま銀色の鱗の一瞬の電光。

☆★★★☆★☆☆★☆★★★★★★

☆★★☆☆★★★★☆★☆☆☆☆

☆☆★☆☆☆☆☆☆☆☆★★☆☆★★☆☆

☆★☆☆★☆★☆ ☆☆★★★★

言葉が消えた。と記述する言葉はなおも存在している。いつの間にか、星が身体を通り抜けていた。片脚をひきずるようにして走りながら、津葉作は手を見た。そこには何もなかった。降りしきる星が撥ね返す乱反射が、乱暴に彼の影を引き千切っていく。影と化し、その影の身体すら背後に失いながら走っていくうちに彼は真っ黒な速度になって、真っ直ぐな不在になって、痕跡も残さぬままいつまでも走りつづけた。

2019年6月19日公開

© 2019 長崎 朝

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"集中豪星"へのコメント 4

  • 投稿者 | 2019-06-19 21:45

    面白く読みました。
    星降る街、★☆★☆
    文庫本から零れ落ちる言葉たち
    視線の空中戦
    果てない妄想の旅
    夕焼け(朝焼け)と電車

    私も時折朝焼けに猛スピードで宙を突っ走る電車に乗るのですが、
    ★に襲われるのではなくて自分から観覧車に突っ込みます。
    顔のない人が先導して、シューベルトとかが流れています。
    いつかこういう妄想について語り合えたら楽しそうです。

  • 投稿者 | 2019-06-20 19:45

    ありがとうございます。
    おぉー、観覧車に突っ込んでいくのも素敵ですね。
    乗り物はいろんな妄想に誘われますよね。とくに電車は思わぬ方向へ連れて行ってくれる気がします。
    毎朝の満員電車だけは勘弁なんですが(笑)

    著者
  • 投稿者 | 2019-07-27 17:31

    この作品、面白いなぁと思って実は何回か読んでいます。
    最後の☆と★の部分は、何か意味があるのかな?もしかしてモールス信号?と思ってモールス信号の表と突き合わせてみたりもしました。(わかりませんでした)

    「言葉が消えた。と記述する言葉はなおも存在している。」痺れました。

  • 投稿者 | 2019-07-27 23:21

    駿瀬さん、コメントありがとうございます。
    こちらこそ、いつも作品楽しませてもらっています。

    ★と☆には、実は意味はありません。言われてみたら、たしかにモールス信号とか暗号っぽいですね。
    自分としては、なんかもう言葉も星に埋め尽くされてしまい、語るための言語に対して投げやりになってきた気持ちと、それでも言葉で書かなければならないという気持ちが、最後のほうでぶつかりあっているような感じでした。

    著者
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