泥で建てた家

泥で建てた家(第1話)

長崎 朝

小説

5,436文字

「第二回 阿波しらさぎ文学賞」最終候補作

 

グラスの中で溶けはじめたクラッシュアイスが、コーヒー色の泥水をつくっているのを眺めながら、「そろそろ帰らないかんわ」と妻が言うので、そろそろ帰ろうかと頷くと、「いや、そやなくて」と口ごもって目の色を翳らせた。背もたれから浮かせた肩甲骨を、ストレッチでもするようにぐるぐる回してから、「『翔び立つ準備はできてるかい?』って、ついに通達が来たんよ……準備なんかなんもできとらんけど」と困惑顔をしている。なんの話かと問い詰めると、彼女は自分がしぎという渡り鳥であり、鴫の親分からじきじきに、いい加減、〈大湿原〉に帰って泥の生態の浄化運動に加わってほしいと要望があったというのだ。

突然の打ち明け話に脳味噌が液状化してしまい、ぼくは「〈大湿原〉てどこなの?」なんて馬鹿な質問をした。

「カムチャツカ」

頬杖をついてチューインガムでも噛みながら発音するみたいな、高揚を内に隠して気のなさそうなふりをしているというような言い方だった。まさか妻の口からカムチャツカなんて言葉が出てくるとは予期していなかったぼくは、その意外性に心臓が高鳴って、またはじめから恋に落ちなおしたように頭がくらくらした。どちらかといえば、その地名よりも鴫のことについてまず尋ねるべきだったと、あとになってから思った。

カムチャツカ。

昔地理で習ったその北方の半島の形を思い浮かべたら、なんだか口蓋垂がむず痒くなってきて、あわてて自分のグラスから氷のかけらたちを飲み込んだ。歯が砕く氷の音がこめかみに上ってきて、それが少し暴力的な響きを添えた「噛む・着火」に聞こえた。喉の奥で炎を上げる口蓋垂と、ユーラシアから垂れ下がる半島が大火事に見舞われるところが空想の中で重なって、必死でストローの消火活動をしてみるけど火も動揺も消えない。下品な音をさせて泥味のコーヒーを啜るぼくを、喫茶店の店員が咎めるように睨みつけている気がして腹が立った。心を落ち着けて、いままで考えたことのあるどんな平原よりも広大な土地のことを想像しようとしてみた。そして、そこにあるはずの生き生きとした泥のことや、砂の上を這いまわるはぜのことを思った。

知秋と出会ったのが八年前で、その一年後にぼくたちは結婚したのだけど、これまで一度も、彼女は自分が渡り鳥だなんてそぶりを見せたことがない。背中に赤褐色の翼が生えているのは二人だけの秘密で、それが実用的なものなのかどうは確かめたことがないからあやふやなままだった。ただ容姿として、外形として妻は鳥に近いのだということだけ理解していた。直截にきみは飛べるのかと尋ねたことがないとしたら、ぼくは八年間の怠慢を反省すべきなのかもしれない。彼女はことさら隠そうとしていたわけではないだろうし、夫婦というのは極力どんなことでも打ち明けて話し合う義務があるのだ。だがぼくは、まるで触れてはいけない外見的特徴を見出した者のように、翼については口を閉ざし、見て見ぬふりを決め込み、それがあってもなくてもたいした違いはないのだと自分に言い聞かせていた。知秋にしてみても、たとえば男性には分からない女性特有の器官の問題かなにかのように考えて、いちいち翼のことを話題にのぼせたりするようなことはなかったのだろう。実際、翼はいつもきちんと折りたたまれて、ぺったり背中に張りついておとなしくしていたから、日常生活においてなんの問題ももたらさなかった。ただ一度だけ、性交中に彼女の背中を翼もろとも泥まみれにして悪ふざけをしたときは、洗い流してから、ぐしゃぐしゃになった羽をもとのとおり、一枚いちまい整列させるのに苦労した。

2019年8月29日公開

作品集『泥で建てた家』第1話 (全6話)

泥で建てた家

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© 2019 長崎 朝

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