不完全な歩法で

応募作品

長崎 朝

小説

3,944文字

2019年3月合評会「高タンパク低カロリー」応募作。お題の入れ混ぜ方自体が低タンパク高カロリーな感じな作品になってしまった気がしますが、そこが味噌です。

それまで小さな気配でしかなかった地響きが、にわかに荒々しい轟きに変奏して立ち昇り、骨盤まで共鳴させはじめたと思ったら、黒茶色のまだらに滲む筋肉質な雷雲がひしめき合いながら躍動し、赤や青の閃光を引き連れて矩形の視野に飛び込んできた。思わず左半身から力が抜けて、フェンスの端で支点をつくっている左肘に体重がかかる。そのとたんに手がブレて、視界が虹色に揺らいだ。あわてて手首を引き締めたが、オートフォーカスが抜けて被写体を見失ったままのファインダーのなかを、馬群はぼやけた霹靂となって右から左へと横切っていった。

その音だけが、耳の奥を、聾するというのではなく、雨が地面を染めるようにただ濡らしつづけている。いつしか私は無音の雷鳴のさなかにいた。人生のうちのほとんどの期間がそうであったように。そして、いつまでも鳴りやむことのないその響きと、自身の心臓の鼓動が区別もなく、溶けあいながら私をどこかへ運び去ろうとしている。この場にとどまりつづけることはできないし、また、そうするべきでもないのだと言い聞かせるみたいに。

こんど娘が大井でデビューすることになりましてね、その、撮ってもらいたいんですよ、お礼はきっと、しますから。盛岡の競馬場で長尾さんと話したのは、もう何年前のことだろう。紹介されたときに私のぶら下げていたカメラを一目見て、彼は紺色のキャップを脱ぐと、滑らかな浅黒い肌のなかで、不自然なほど目じりだけに皺の刻まれた顔をほころばせてみせた。仙台で彼の経営する乗馬クラブには、競馬ファンなら知らない者はいない往年の名馬も数頭、引退後に引きとられて、レース生活の重圧とは無縁の、悠々とした日々を送っているのだった。まもなく五十代にさしかかろうとしているであろう、彼自身もともと競走馬の調教師として――とくに飼い葉など飼料の開発分野において――その世界では名の知られた、無口なくせにどこか剽軽さも漂わせる人物だった。

その彼の娘が騎手免許試験に受かり、いよいよプロとして競走馬に跨がる。面倒みてやってください、気の立った馬を、なだめるのではなく負けじと気を立ててねじ伏せようとするような気性の荒い子ですけれども。

地方競馬専門で馬の写真を撮っている私のいわゆる《定位置》は、南関東の四つの競馬場の本馬場、ゴール前の外埒真下に設けられた報道陣専用のスペースで、第四コーナーをまわって砂埃を引きちぎり、最終直線を突進してくる人馬たちをとらえるのが仕事だった。観戦席での見物とは違い、猛スピードで馬の駆け抜ける地面に直接這いつくばってカメラを覗いていると、まるで自分の内部を馬群が通過していくような錯覚にとらわれる。その足音が通り過ぎるたび、その場に釘付けにされ、どこへも移動することはできないのだ、自分は彼らの通過線にすぎず、コースの距離を表す標識と同じように永遠にその位置に突き刺さったままなのだった、1ハロン、2ハロン……、とどまりつづけるべきではないと私を突き動かす音が――彼女不在のあのレースの轟きが雷鳴と化し、私の内に宿ることになったあの日――、この心臓に聞こえてきたときまでは。

競走馬としてデビューするための、馬たちの能力試験が行われたとき、私ははじめて長尾蘭騎手の騎乗を見る機会を得た。父親から娘の「気性の荒さ」を吹き込まれていた私は、彼女がさぞかし攻めた馬の使い方をするのだろうと身構えていたのだが、予想に反して蘭騎手は、二歳の牡馬を最後まで「馬なり」で走らせた。馬の能力をあらかじめ見極めての、過不足ないプロの仕事だった。間違いなく、彼女はいい騎手になるだろう。まもなく桜の開花が告げられるはずの、瑞々しさと埃っぽさの入り混じった季節だった。空気が少しずつ粘度を増していく。

長尾蘭騎手の初騎乗の日を待ち受けていた矢先、この国を尋常ならぬもうひとつの霹靂が襲い、東日本は壊滅的な被害を被った。幾月のあいだか、世の中は競馬どころではなく、この地方ではまともに電気さえ通っていなかった。

空っぽの部屋を覆い隠す明るい色のカーテンのように、上辺だけの「日常」が時間の空欄に引かれはじめたとき、いくら目を通しても出走表にあるはずの名前をどうしても見つけられない私は、自分の内奥に、澱のように薄く膜を張りつつある苛立ちに似た感情を、無視することが難しくなっていた。錯綜する情報が次第に整理されようとしていくなかで、ひとつの記事を、信じなくてもいいという理由が、何が起こってもおかしくないこの世界において、もはやどこにも存在しなくなっているという事実に慄然とならざるをえなかった。

 

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亀裂が入り、ひずんでしまった《定位置》は、狂った水準器を持て余しているだけの私に、いまなお、何か確たるものを定めようとしているとでもいうのだろうか。――襲歩ギャロップで行き過ぎる時間の陰影をとどめておくための、たとえば印画紙のように小さくまっさらなスペースを。

 

「ずいぶん田舎でしょう。だだっ広くてね、流されたっていっても、もともと大きなものはないから」

駅まで車で迎えに来てくれた長尾さんは、助手席の私に向かって、顔を見なくても微笑を浮かべているとわかるような口調で話した。

大きなものとはなんだろう。人家や、厩舎や、生活だとか命だとか、それらをことさら大きなものだと強調するつもりはないが、小さなものというわけでもないのではないか。流されてたまるかという痛々しい思いさえ打ち消すほどの、もっと巨大なものの到来は、人間に宿命を受け入れるだけの分別を与えうるものなのだろうか。

生き残った二頭と、夫婦を加えた二人三脚ならぬ四輪駆動で、再建ではなくただ生きるために前へ進もうとしてきた彼らの時間は、私の知っているあの競走馬たちの疾駆に比べ、あまりに重々しく、いまにもくずおれそうでありながら、降りやまない長雨のように着実に地を固めていったのだ。

こいつは十五歳でね、すごく頭がいいんですよ、ローツェって名前で牝馬です。あのとき見つけたときは脚の骨が見えるようなくらいの怪我をしてましたが、元気でした。水が引いたあと、瓦礫のあいだに残った草を食べていたようです。そこでは、何頭かうちの馬たちの死骸がまとまって見つかりました。それから、ほかに何人もの人間たちの……。草があればわりあい、まとまったタンパク質を馬たちは合成できます。ただ、カロリーがないですからね、競馬するわけじゃないけど、数日間、じつによく生き延びました。

お礼のつもりが、かえって遠くまでご足労かけてしまって、という長尾さんに、いや私はまだ撮っていないんですよ、一枚も、お嬢さんの騎乗姿を、と返そうとして口ごもった。彼女の遺体はまだみつからないままだった。「馬たちが逃げられるように、厩舎の扉を開けるために戻ったみたいです」

その彼女の姿が目に浮かぶようで言葉を失っているあいだに、むしろ私のほうが彼に励まされるように腰を支えられ、左のあぶみにかけた足を支点として力強く押し上げられると、次の瞬間、その勢いのまま体をひねって跨った栗毛の馬の背は思いのほか高かった。私は生き物の上にいる……。

「そうですか、はじめてですか、馬に乗るのは」

あの目尻だけに皺の寄る独特の笑みを浮かべた長尾さんの声が、足もとから届く。地面に這いつくばって馬を撮ってばかりいた私には、彼らのひづめから背中までのこの高低差が信じられなかった。だが、怖がっている場合ではなかった。

踵を馬の脇腹に打ちつけると「歩け」の合図です。手綱を引いた方向に馬は曲がります。止まるときは両足で馬の脇腹を締めつけて、手綱をお臍のほうへ引いてください。背筋を伸ばして重心を垂直に保たないとだめです!

馬は勝手に歩いたり止まったりするものだと思いこんでいた私は、ぶっつけ本番で長尾さんの指示するまま、一瞬の余裕を味わう間もなく必死に鞍上でもがいていた。言われるとおりにしているつもりが、体の動きがちぐはぐになり、思うとおりに馬を動かせなかった。「曖昧なのはだめです、明確な合図を伝えてやらないと、馬もどうしたらいいかわからなくなってしまう」何かを伝えるというこんなに簡単なことが、どうしてできないのだろう。ローツェはいま、会ったばかりの不慣れな騎乗者の声をどうにか聞き分けようという従順さを、そのけなげな首筋いっぱいにあらわしているというのに。

普通に馬を歩かせることがようやく安定してくると、牧場流の「お礼」とはこんなものでは済まないのだとばかり、長尾さんはあろうことか次なるステップとして、「軽速歩けいはやあし」という鞍上で立ったり座ったりを繰り返しながら馬を操る歩法を私に特訓しはじめた。「もっと強く!」「腕を押し出して! あなたがローツェをリードするんですよ。ほら蹴って!」次第に熱を帯びる彼の指示に耳を傾けながら、私はもう、自分がどうしてここにいるのか、なんのために馬の背に跨がっているのかすらわからなくなり、あらゆる《定位置》の幻想を振り捨てて、父親から教えを受けているかつてのひとりの少女と化してしまったような気がした。

内腿で締めつけるローツェの胴体から伝わる熱が、私を新しい生き物に変えていくのだという錯覚にとらえられ、自分自身の首筋をもたげて見渡した遥か先に、灰色の輝きを湛えた海の薄片が、体の上下するたび滲んで遠ざかっていった。私は乳白の光のなかを移動しつづけていた。定点などはじめから存在しないのだと、いまや決意を固めたかのように、背に乗せた私を逞しく運んでいく明眸の草食動物と、遠い夢想に上気しはじめた息づかいを分かちあいながら。

2019年3月18日公開

© 2019 長崎 朝

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散文 私小説 純文学

"不完全な歩法で"へのコメント 13

  • 投稿者 | 2019-03-21 14:47

    極めて物質的なタンパク質の描写にあのあまりにも痛々しい生と死の記録をぶつけるのは正直、反則ですよ。それくらいキキました。藤田菜七子ジョッキーを見るたびにあったかもしれない、人のかげを見てしまいそうになるじゃないですか。長崎さんのフィクション、なんですよね?

  • 編集者 | 2019-03-21 22:13

    生々しい。馬と人々の風景が目に浮かび、そして消えていく。競馬にはそもそも詳しくないが、事実として読んだ。写真、すなわち時間と記憶の記録に関わる人間としての真摯な物語だと思えた。

  • 投稿者 | 2019-03-21 23:14

    不埒にも「高タンパク低カロリー」の馬肉の話かと思いこみ、繊細な文に覆されました。東京競馬場の芝生に寝ころんで競馬を楽しんだことがあります。あの大地を揺るがす疾風怒涛の描写はさすがです。「霹靂」という単語に引っかかりました。馬群の後姿に「霹靂」を使うのに違和感を覚えたのです。もっと大きく致命的な「霹靂」の露払いだったのだと後でわかりました。
    大震災後、定位置を見失った不安定さをどんどん訴えかけてくる素晴らしい筆力だとは思うものの、私には蘭騎手と馬たちの痛ましい話と主人公が初めて乗馬を経験して再生を感じる気持ちとに、大きなつながりを見出すことができませんでした。蘭騎手の鮮烈な騎乗ぶりやひととなりを描写するには10枚では足りないのだろうと思いました。

  • 投稿者 | 2019-03-21 23:37

    純粋に文章が上手だなと思いました。私は堀江敏文氏の小説が好きなんですが、この作品を読んでいて同じような心地よさを文章に感じました。(競馬も好きなので、サムネイルの時点で競馬の話とわかってテンションが上がりました)

    ただ短編小説という性質上、その短さと構成の中でどうしても震災をひとつのモチーフとして消化せざるを得ない部分があり、ひとつのモチーフとしてこの長さの中で消化するには、未だ読み手である私の方の準備ができていないのだと思い知りました。

    • 投稿者 | 2020-03-28 10:49

      合評会がくるたびにこの誤字を思い出しては恥ずかしくて恥ずかしくて、いたたまれない気持ちになっていたので、ものすごく今更なのですが(そしてとっくにお気づきではあるかと思うのですが)訂正させてください。「堀江敏幸」氏の間違いです。
      今更すみません。どうしようかと思ったのですがこれからも毎回思い出しては死ぬほど恥ずかしい気持ちになることを考えて、今更コメントさせていただきました……。

  • 投稿者 | 2019-03-22 16:53

    写真というのは一瞬を切り取るもので、それは止まらない時間を止めてみせる、一種の
    別世界というか、フィクションなのだろうなと思います。定点、定位置、という考えこそきっと写真的な時間の捉え方で、震災の経験を経て、流れゆく時の行方に身をまかせ、定点というフィクションをフィクションとして受け入れる話だ、とそんなことを思いました。震災の話を入れることによって、この物語の時間性、歴史性のようなものが浮かび上がり、それが主人公個人の時間と記憶に結びついており、「私」と「世界」の繋がりを感じました。
    流れゆく時間に身をまかせるのは、きっと初めて乗る馬のようなものかもしれません。尻が痛くなりそうですが、きっと風が気持ちいいのだろうなと想像しました。

  • 投稿者 | 2019-03-23 03:52

    この先の失礼をどうかお許し下さい。
    文章が上手いせいか、何を描くかよりも「使いたい言葉、あるいは言い回し」が先行してしまっている印象があります。
    長尾蘭騎手の騎乗を見る機会があったのに、なぜ撮らなかったのか、あるいは撮れなかったのか。それ以外にも、東日本大震災のことが含まれているために、主人公のちょっとした無自覚さが最後まで気になりました。具体的なことをこういうパブリックな場所に記すことはバカげていると思いますので、もしお会いできる機会があればその時にでも直接お伝えしようと思います(ご迷惑でなければ)。

  • 投稿者 | 2019-03-24 13:17

    まず語彙の豊かさ洗練された文章に感心しました。装飾具合も適切で競馬について知らない私でも近くで見ているかのような、いや、実際に騎乗しているのではないかと錯覚させられました。そしてこの情景と例の災厄が交わったとき、意識の外からガツンと殴られたような衝撃を感じました。他の方も書いていますがこの作品は規定枚数に落とし込めるものではないと感じました。

  • 投稿者 | 2019-03-24 18:26

    冒頭の文章にとても引き込む力強さとしなやかさを感じました。地震と馬の走る地響きが絶妙に絡まって上手いなと思いました。この短い分量で震災を持って来るのは、先に指摘のある通り無謀な感じがしますが、僕はよくまとめたなと感心しました。

  • 投稿者 | 2019-03-24 20:48

    ぱっとページを開いて目にした言葉の羅列、句読点の使い方、漢字の混ざり具合、それを見ただけで「優れた書き手さんだ」と思うことはなかなかない、けども、あらためて「とても優れた書き手さんだ」と思いました。
    この作品のキモは個人的に《定位置》にあると思っていて、それがどうずれていくか、動いていくか、というのを読者は追体験できる。それはもちろん緻密なストーリーと微細な、隅々まで行き渡ったこまかな表現があるからこそです。
    他の方がたのコメントを読んでいて、「東関東大震災」をひとつのモチーフとして扱うことの難しさを感じました。私はこの作品に関しては違和感を感じなかったけれども、やはり読み手によっては消化しづらいものなのかもしれないな、と思いました。
    とにかく私はラストのローツェに跨る「私」にひたすら感情移入して、とにかく運ばれながら、運びながら、前に進んでいくしかないな、と感じました。

  • 投稿者 | 2019-03-25 15:47

    とにかく安定の文章、描写の巧さに飲まれて一気に最後まで読み通してしまいました。だけどお題へのアンサーとして、解説が欲しい…と思ってしまったのは事実です。震災と馬の組み合わせはとてもよく、これは長編で読みたいな、と思いました。

  • 投稿者 | 2019-03-26 00:52

    最初のバナー画像のせいなのか、すべてがモノクロで再生されるような感覚が、そしてゆっくりしたナレーションが流れ続ける、ドキュメンタリー映画のような作品として読みました。もう少し美しくないものが混ざっていると、美しいものが一層際立ったのかもしれないなと思いました。

  • 投稿者 | 2019-03-26 02:24

    文章の冴えと流麗さは他のコメントのとおり。私は今回なぜか宮本輝を連想したが、それはたぶん『優駿』のせい。お題への言及に少し取ってつけ感があるものの、五つ星以外はあり得ない!!! もしこれを中編なり長編なりに発展させるとすれば、語り手に対してもう少し迫るかたちにしてほしい。私は、語り手が死んだ蘭に同化して「父親から教えを受けているかつてのひとりの少女」になってはじめて、語り手の本来の性別すら知らないことに愕然とした。写真家として単なる観察者、記録者であるだけでなく、語り手自身の背景や震災体験についてもっとドラマが欲しい。

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