ゆーるい幸せ

中野Q子

小説

6,476文字

人というのは言葉でも生命でも不自由が身にしみて感じられることだから。
糸井さんと女子高生の対話はうまく行かない。

そのひとは死のうとしていた。彼の名前がロック画面に浮かび上がったとき、私はほっとした。もう死んでしまったんじゃないかと思っていた。彼というのは二週間前に失踪した糸井さんのことだ。糸井さんというのは本当に何があってもケータイを手放さない男だから、彼と何日も連絡がつかないというのは異常な事態だった。
「生きてるよ」

と、ほとんど絶望的に思える「大丈夫?」に返ってきたのがそれである。彼は駅直通のビジホに一泊して、窓の外に大雪を眺めながら私の迎えを待っていた。

 

 

糸井さんと知り合った頃、彼はまだ仕事をしていた。恋人もあった。鬱もクラミジアも患っていなかった。ろくでもない栄養摂取はその頃から健在だったけれど、それでもまだ平和的といえた。俯瞰的に言及すれば問題は私という高校生をたぶらかしたことくらいである。

夏、私は地方からすっ飛んで来て大宮に降り立ち、糸井さんの部屋まで行った。連れられて降りた彼の部屋の最寄り駅は、東京に位置するのか埼玉に位置するのか、今でもよくわからない。私の制服というのはホ別二万の値札で、新幹線代の捻出など訳はない。電車賃とつまみのスナック菓子を買ってもまだおつりが出た。その日私は制服を脱いで、久々の私服で糸井さんのところへ飛んでいった。決して高身長ではない糸井さんと並ぶのに、私が選んだグラディエーターサンダルはいささかヒールが高いようだった。ドラッグストアでアルミ缶の酒、煙草屋でセブンスターを買って自宅へ向かった。着いたアパートはまだ新しく、そこら中に新築特有の光沢を撒き散らしていた。二人掛けのソファで、テレビをつけ放したまま乾杯した。他愛もないことをぼろぼろと語って、酔いがまわらないなぁと思い始めた頃、キスをした。パスタを一人前茹でて、カルボナーラのソースを温めながら煙草を二人で交互に吸った。その日糸井さんと分けて食べたカルボナーラの美味しさは、私の舌が覚えている。それから私が翌朝帰るまでに彼は三度射精を経た。一度目は風呂場で、二度目はベッドで、三度目は私の口の中でのことだった。私は、その味をもう思い出すことができない。見もしない彼の恋人のことはどうでも良かった。糸井さん自身が私とどこまでも他人でいようとしたからだ。糸井さんの問題は糸井さんがどうにかするもので、私には関係のないことだったのだ。

その二週間後、彼は恋人と別れた。その更に一週間後デリヘルでクラミジアを頂き、加えて鬱病と診断されることになる。大失敗して首を切られたのもこの頃だ。

秋口、無職になった糸井さんは夜行バスに乗ってふらりと私のところへ来て、夏同様に私の胸で眠り、ラーメンを食べて帰って行った。

 

 

平日の朝に開いている店の顔ぶれなどたかが知れている。連れられるままにかつて糸井さんと訪れたモーテルに着くと、彼はつめたい四肢を私に押し付けて、抱いた。そして裸の懐に潜り込み、口を開いた。「なんていうか、」
「死なねばと思ってしまって。」

でも、あなたは死んでいない。黙ってしまいたいのを噛み殺して言葉を組み立てる。今度はどうしたの、と私は微笑んで見せる。
「いつものことじゃないですか。」

私よりここのつも年上の彼は、弱々しく頷いた。

大概、怒れるのは名誉が壊される時で、消えたいのは恥を呑み込んだ時であるはずだ。感情は他者と絡まって初めて揺さぶられる。もう巷には「死にたい」などそこら中に溢れかえっていて、彼も私もそのうちの一人のはずだった。すべての物事の無価値さを実感していて、上も下もわからない。きっかけは多様でも、私達が行き着く結論はいつも同じ。簡潔にまとめれば誤解を生むやっかいな一言に、結果的に呑まれてしまっている。「ここへ来る前はどこに?」尋ねるが、糸井さんは躊躇いを残しているようだった。
「金沢、かな。その前は福井。高速バスで。」

東京から直接福井へ?と尋ねると、腹を括ったようにその旅路を話し始めた。
「東京出て、コインロッカーにケータイ預けて、まず博多まで行った。新幹線で。鹿児島、次に沖縄。博多まで戻って新しい端末買って、そのへんで周りの状況っていうか、を把握した。んで大阪まで戻って、福井行って、君に連絡して、という感じ、かな。」
「ひたすら南下したんですね」

彼には表情がない。
「沖縄、安いと思ってフェリーで最初行ったけど、帰り面倒で飛行機にしたらそっちのほうが安いし。四人部屋って言われて、結局一人で快適だったけど、二十五時間かかったし。しかも福岡まで戻れるっていうし。一時間だし。えっ、てなったよ。ずっと偽名してて、ATMも使いたくなかったんだけど、沖縄で突然名前が挙がる分にはいいかと思って、お金おろして、」

なんで死なねばと思っちゃったの。
「親に」

と、糸井さんは言葉に詰まる。親か、と私は思う。私も、親の元を飛び出したことがある。
「知ってると思うけど、貯金食い潰して生活してて、なくなって、部屋の家賃も滞ってて、そんで、いざという時に使えるように、家族それぞれのために蓄えがちょっとあったのね。その通帳を、こそっと持ち出して、母親にバレて、一体どうしたのって連絡が来て、わーって、なってしまって、」
「それで飛び出して来ちゃったのか」

うん、彼はまるでこどもみたいに頷いた。彼は気にするなと言ったけれど、やっぱりホテル代くらいおろしてくるべきだったかもしれない。私は今小銭しか持ち合わせていない。
「でも」
「うん」
「今になって考えてみたら、その後二週間失踪する方がよっぽどヤバいよね。」
「そりゃあ。何より心配してると思いますよ。」

私もあなたは死んだんじゃないかと思ったし。と付け足す。本当に希望はほとんど無いと言ってよかった。彼がケータイを持っていて連絡がつかないなんてことはないはずで、ケータイが手元にないならきっと彼の意思ではないはずだった。闇金に手を出して東京湾に沈められてしまったんじゃないか、と、真剣に考えたくらいだ。自殺の企図と実行よりも現実味があるように思えた。
「私も一晩だけど、男のために家出しましたよ。言ったっけ。帰ったあと一発どころじゃなく殴られたし、泣かれたし。私はこどもだったからなんていうか、頭が悪いで済むけど、しっかり大人なのに、大人が失踪したら、相当深刻な何かがあったって、悪い想像しかできないですよ。」

自分の日本語力の無さにうんざりする。自分は自分を過大評価しすぎている。見える像と実像が食い違って、日本語にそのまま映り出る。そうか、そうだよな、やっぱり帰んないとだよな、と糸井さんは頷く。
「どうやって死ぬつもりだったの。」
「手首切って湯舟つけて、とか考えたけど、あの部屋で死ぬのは大家に迷惑だと思って、そしたらどこのホテルも同じことだし、ベーシックに首吊ろうかなって、だけど死に場所はわかんなくて。ホームセンターで脚立とかロープも見てみたんだけど」
「そんな自殺セットみたいなの買ったら絶対怪しまれるね。」
「そう、だから何件か回って、とか考えはじめたら、」
「具体的になっちゃうね。」
「こわくなってきちゃって。」

そうかぁ、と私は彼の頭を撫でる。
「私死のうと思ったとき真っ先に飛び降りを想像したけどな。」

うーん、と抱きつかれた肋に声が響く。
「飛び降りは考えなかったけど、飛行機乗ってる時墜ちたらなぁ、とはずっと思ってた。けど今なんか、危険度で言ったらよっぽど地上にいるより安全らしいしね。」
「なにで思い留まれたんですか?」
「状況聞いて、心配されてるって知ったし、親にさすがに申し訳なかったし、こわかったし、結局、」

彼は一息ついた。
「死ねなかった。」

 

 

しがみついたまま動かない糸井さんをしばらく待ち、裸のままテレビを流し観た。彼はとりあえず以前の様子を取り戻したように見えた。そしてよく喋った。

「この火曜日とか、沖縄でテレビ観てて、ドラマやってて、ふつうに来週も観てぇとか思っちゃったし。気になって髭剃りと爪切り買っちゃったし。絶対死ぬ気ないよね。」

と、笑う。確かに、と私も笑う。
「きのせいっていうか当然ちゃ当然な気もするけどさぁ、移動するじゃん?移動した先でテレビつけるとさ、さっきまでいた街がなんか取り上げられてるの。大阪着いたら博多のことやってて、福井行ったら大阪映ってて、金沢いたら福井のことやってて、ここきて昨日テレビ観てたら金沢やってるし。チャンネル変えたら帰宅する一般の人に付いて行く、みたいなやつがやってて、観てたら三十のフリーターが帰って最後に着いたのが赤羽あたりで。」

私は大いに笑った。
「これ絶対帰れって言われてるよね。」
「ここが最後なんですよ。」
「やっぱそうなんだよね。」

 

 

「このまま寝そうわたし」
「すごく気が休まってる。」
「それならいいんですけど、」
「飛び出してから誰ともまともに喋ってなかった。こういうのって、関係ある人にはなかなか言えないじゃん。どうでもいい、」

どうでもいい、口にしている途中に気がついたらしい。寸分の隙も許さずに糸井さんは訂正した。
「どうでもいいわけじゃないけど」
「わかりますよ、関係ない、ね。」
「うん、きみにならさ、喋れる。」

内臓が生きることを諦めて収縮し始めたように感じられる痛みがある。内臓が締め付けられるほど微笑むのが楽になるから不思議なものだ。私はこれを屈辱と認めることにした。
「私も気休まるのこういう場面だけですよ。親といるとダメです。」

休まっているとハッピーは同義でないはずだ。
「兄弟は?」
「割と休まるけど、弟だし弱音は吐けないかな。」
「そういうもんか。」

糸井さんは黙る。何を考えているんだろう。
「ねぇねぇ、」
「なに?」
「男の構造的に、睾丸を外に出したのは絶対失敗だと思うよね。」
「ぶつけると痛い?」
「うん。」
「弟が痛すぎて頭ぐらぐらして気持ち悪くなるとか言ってた。」
「頭ぐらぐらね、するよ。内臓だもんね、まさに子宮パンチの、腹筋隔ててない版みたいなかんじじゃないかな。なんかで比較画像見たけど、瞬間でいったら陣痛と同じくらい、みたいな。」
「それ作ったのは絶対男ですよね。」
「だろうね。」
「まぁどっちも経験してない身としては陣痛のほうがこわくはありますよね。」
「まぁ一生経験し得ないことは想像するしかないしね。」

考えたことがある。
「どんなに痛くても、なんていうか、皮一枚外に出ちゃったら伝わらないってことなんですよね、結局。」
「もしかして話したことあるかもしれないけどさぁ、こうやって話してててもさぁ、きっと正確に伝わってないよね。痛さだけじゃなくて。」
「あたしも」

考えたことがある。けれど言葉に詰まる。
「考えたことある。」
「自分で言うのもどうかと思うけど、なんていうか、無駄に頭が良いせいで?変なところで頭が働くせいで?人というものへの諦めっていうかが捨てきれないんだよな。だって結局話したって伝わらないんだし、というか。」
「わかります、わかります」
「無駄じゃんて。」
「わかる、わかるよ。言葉って、正確じゃないし、ていうか、それぞれ言葉に抱いてる意味も違うし。なんていうかな、えっと、私の中できもちみたいのがあって、それを言葉に変換した時点でもうずれが生じてて、あなたが受け取って、解釈したらまたずれが生じてて、みたいなことですよね。わかる。わかる。」
「そんなかんじだと思う。」

あ、面倒だと思われてる、と空想する。
「んー、ぶっちゃけ言うと、今回、女の子が絡まないでもないんだけど、」

ふむ、と相槌を打つ。
「仲良くしてる子に、こっち住まないかって言われてて、親との話し合いにもよるけど、そっち移り住むことになるかもしれない。」

ため息が笑いになって脳天から滲み出てくる。
「その子もほっぽり出して、こんなところでこんなことしてていいんですか。」

か細い返事をして、糸井さんは私に抱きつき直した。どうしようもない。
「こことここの関係もよくわからないっちゃわからないんだけど」

彼は自分の鼻で、私の胸をこづいた。
「私も、援交してるし、恋人恋人とかゆってるけどその人には奥さんがいるし、子供もいるし、なんていうんだろ、」

口に出して、初めて理解できてくる。私自身ろくなことしていない。
「おれもこんなんだしね、世に言う男を見る目がない、だよね。」
「うまく言えないけど」

頭の中で何度も何度も反芻した考えも、伝えようとすればする程説得力を失って力ないものになってゆく。くちびるからこぼれ落ちてしまった後では、おそらく私の元に戻ってくることもない。もう私等にとって話すというのは堂堂巡りで、無意味なことだった。私は糸井さんのくちびるで自分の言葉を自分の中に押し留めた。彼は存分にそれに応える。言葉が残酷なのはどちらも身に沁みてわかっていた。

全灯の部屋の中で、無力でないのは空調くらいだった。私の胃も、私の腰の下敷きになった彼の内臓も、空腹を訴えてはいたけれど、言うことを訊いてやれるだけの食欲すら尽き果てていた。協力する気などさらさらない。彼の華奢な体に馬乗りになって頭を撫でると、口同様目も覆い隠してすべて否定してしまうのが一番利口な選択に思えてくる。
「セックスしよ。」

考えが飽和すれば誰でも私等のようになる。世界が不条理と理不尽と非効率だけでできているとすれば筋は通ってしまうのだ。ひとを傷つけたくないが故の屁理屈だ。それを軸に生を保っているからそれだけが突出して、傷つけまいとしてきた他者に邪険に扱われる羽目になる。身の丈に合わない存在感のその軸とやらは不安定もいい所で、私達はぐらりぐらりと傾き倒れを繰り返している。私は彼を巻き込んで、傾き倒れるに徹した。

糸井さんの脆い心は世の不条理を受け止めただけだ。彼は代替可能な肉体を組み敷いて弄び、乗り上げて口の中を犯し、最期には私に呑まれていった。おそらく彼が精神的な何かを感じている一方で、私は肉体的な実感を得ていた。死を選んだかもしれなかったひとの、生きることの生臭さを、ひしひしと。

 

 

外に出ると、立春を過ぎた癖に雪が当然の顔をして降っていた。無視するには多く、傘をさすには傾いた降り方だ。私達は雪を縦半身に浴びながらバスセンターを目指して歩いた。途中何度も信号に引っかかり、雪にまみれた。
「まずどうしよう、腕の一本くらい折って帰るべきだよな絶対。ピンピンして帰ってきたらお前なんなんてなるよな。実家帰る前に部屋にふざけたものはとりあえず置いてこないと、」

新しく買った高価な服や本の束やコンドームの空き箱のことを言っているんだろう。バスセンターを目前に、また赤信号に止められる。
「服の趣味もそのときの精神状態によるっていうじゃん。見事に真っ黒だもん。やっぱり紛れようという気があったのかな。このコート、キャメルとこれがあって普段の趣味で言ったら断然キャメルだったんだけど」
「次会うことなんて、あるんですかね。」

糸井さんは面食らった。
「空きがあればたぶん四時丁度にバス出てますよ」
「そっか、いくらだろ」
「五千円かからないと思う。」

次彼に会うことなんてあるんだろうか。赤信号がほどけて彼は歩き出す。サービスカウンターと隣接された高速バス予約の窓口まで、私は付いて行かなかった。糸井さんというのは本名ではない。「厭い」から来ている。どちらにしろ偽名を名乗るだろうし無意味なことだったかもしれない。
「まさかの二時に空きがあった。」

四分後だ。私は笑った。
「すぐじゃないですか。

七番線どこ、と彼は辺りを見回した。あそこ、と私は指してみせた。
「ごめんね本当、ばたばたしちゃって。」
「全然。」
「もう行くよ。」

彼の、振りかけた手を握り止めて、「もう死なないでね。」と言った。
「死なないよ。バイバイ。」

今度は私も手を振り返した。死ねなかったこの人はもう絶対に死なないんだろう。私が傷つこうが死のうが、生きていくんだろう。と、考えていた。

2017年2月20日公開

© 2017 中野Q子

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