色々と吟味した末、柿崎は自分のことをカッキーと呼んでもらうようにしていた。同級生から会社の先輩、これまで抱いてきた女達に至るまで、柿崎をカッキーと呼んだ。カッキーという響きには、どこか戯けた、お調子者の運命を思わせる気安さがあって、それが彼の気に入っていた。
銀座の数寄屋橋交差点にある宝くじ売り場の夕暮れに柿崎は佇んでいた。もうだいぶ陽が高くなった。六時でも駅前の敷石は赤みがかった陽に照らされ、ルビーグレープフルーツの果肉色だ。地下鉄の入り口から人いきれが匂い立って、そのまま空へ抜けていった。柿崎は人が匂いを放つ初夏が好きだった。カッキーは夏っていうか秋っぽいよね——と、そんな評価を七番目か八番目に抱いたジュリという女が下していたが、柿崎はいまでも彼女が間違っていると思っていた。誘惑の予感で狂いそうになる初夏の夜が柿崎の性に合っていた。
不器用にサンダルのヒールをぐらつかせながら、すとんと落ちた長い髪の女が近づいてきた。雑踏と人いきれにあてられて酔ったような足取り。数日前、日本橋COREDOの靴下屋で話しかけた女だった。
出会いの印象はそれほど強くなかった。冷え性の母が夏でも快適に過ごせる靴下を探していた柿崎は、店員と勘違いして近くにいた女に話しかけた。さして靴下に詳しいわけでもない彼女は、柿崎のリクエストに応えるべく、養鶏場の鶏さながら棚に敷き詰められた靴下を次々と手に取り、彼女なりのおすすめを差し出した。オレンジとグレーのボーダーで、薄いメリノウールの靴下だった。もうすぐ夏を迎える季節にそんな靴下が置いてあるというのは、さすが靴下専門店だ。柿崎はそれを受け取ると、同じ棚に差さっていた色違い、ピンクと白のボーダーを手に取った。
「ありがとうございます。でも、うちの母親、歳の割にピンク好きなんで、こっちにします」
「お幾つなんですか?」
「五十二です」
「いえ、そうじゃなくてお兄さんが」
お兄さんという年齢に合わない蓮っ葉な響きとは裏腹に、彼女の笑顔は徹底して上品だった。
「俺ですか? 二十五歳です」
「えー、私と同じぐらいですね。じゃあ、私もこれ買いますー」
「あれ、店員さんじゃなかったんですか。なんで言わないの、それ」
それで、二人でレジに行き、柿崎がお礼にと二人分を支払った。連絡先を交換して、名前がミナエだということがわかった。「今度飲みませんかー?」というメッセージに答えたのがつい三日前のことだ。ミナエと会うことはとても楽しみだった。長い髪、切れ長で大きい猫のような目、滅多に見ない長身というモデルのような外見を持った彼女が、少し間の抜けたような会話をするのはとてもチャーミングだった。柿崎は女性のみならず、すべての物事に対してシンプルな価値判断を下した。良いものはすぐにわかるし、すぐに良いものとわからなければそれは良いものでない可能性がある。その基準に従えば、ミナエはいい女のはずだった。
待ち合わせに来たミナエは、お腹があまり空いていないということだった。ガッツリ食べるのは無理だから、お酒が豊富に揃っている店の方がいい。バーだと予算がかかりすぎる。いまから行く店の候補は幾つか用意してあったが、柿崎のこれまでの経験から言えば、そんなことはどうでもいい話だった。レンジでチンしたチキン南蛮が出てくるような店や、最初のドリンクまで四十分ぐらいかかるような店に行かなければ、大して問題にはならないし、それが問題になるのだとしたら、その程度の縁だったということだ。柿崎は一度取引先に連れて行かれた個室の居酒屋を選んだ。焼酎の種類がわりと豊富な、海鮮系の和食を出す店だった。
ミナエは蒲田に住んでいて、豊洲のうどん屋でアルバイトをしているということだった。それで日本橋に来るというのがよくわからなかったが、柿崎は人がどんな風な行動を取るかについて深く考えないし、これからもそうする気はなかった。
「私にもいろんな活動があるんだけどね?」
と、うどん屋でのアルバイトがフルタイムではなく、あくまで知人の店の手伝いでしかないことについてミナエがいった。
「他にどんな活動をしてるの?」
柿崎は尋ねた。単に彼女が何をしているのかが気になったからだった。ミナエは少し首をかしげ、「かつどう?」と自問してから、「悩みとか、そういうの?」と尋ね返した。柿崎は彼女の自信なさげな口ぶりから、脳内で一度「カツドウ」と変換し、「もしかして……」と切り出した。
「葛藤のこと?」
柿崎がそう言うと、ミナエは少し考えこんで、「あははー」と手を叩いてのけぞった。照れ隠しに笑ってから、「うん、そう、葛藤」とグラスを傾け、それを置いた。ミナエの組んだ足が柿崎の脛に当たっていた。彼女はサンダルで来ていたから、個室に来たときにはもう裸足になっていた。ミナエの親指と人差指が向こう脛を挟むような形になっていた。ミナエは頬杖をついて、微笑んでいた。なめるように足が動く。自分のすね毛がチリチリと音を立てて焼けていくような感覚が熱を持って太ももまで遡った。ミナエの置いたグラスの中で、氷がカタンと音を立てた。だいぶ早いペースで飲んでいるようだった。黒いノースリーブのUネックから除く胸元が赤くなって白い斑点を浮かべていた。
柿崎は映画の話題を振った。ミナエが最近見たのは吊橋が出てくる日本映画とのことだった。題名などは覚えられないらしい。ミナエはよくわからない映画が好きだった。柿崎はその反応を見て、映画の話を好きなだけすることにした。たぶん、ミナエは目の前の男が薀蓄を垂れても怒るタイプではない。何を言ったところで、「それ、見てみたいな」と言うだろう。よほどひどくないかぎりは。女とはそういうものだ。
柿崎は『ショートカッツ』と『マグノリア』を挙げた。どちらもオムニバス形式の映画で『ショートカッツ』は有名な小説家の短編集を映画にしたはずだ。どちらも人生の些細なできごとと、そののっぴきならなさが簡潔に描かれている。どちらも有名な俳優が何人も出てくる、その有名さと裏腹にどうしようもない役柄で。そして、どちらもそれぞれのエピソードにあるかなきかのつながりがある。どちらも、全体的な統制がとれているようで、とれていない。そして、どちらも最後に天変地異が起きて終わる。
「『ショートカッツ』は最後に地震が起きるんだよ。で、『マグノリア』は最後に蛙が降ってくんの」
「蛙? 降るの?」
「そう、空から」
「え、なんで?」
「たまにあるんだって。そういう、蛙が降ってくるようなことが。なんか、異常気象で竜巻が起きてとか、そういう理由で」
「おもしろーい」
ミナエは腕を組んで感心してみせると、もう一度「カッキー、おもしろいわー」と呟いた。面白いのは映画で、俺じゃないんだけど——と答えようとしたところ、ミナエは立ち上がった。そして、すっと飛ぶような仕草でトイレに向かった。
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