とんでもないことになりました。増水時のこの川で、数年前に人が実際に流されているのです。その男性の遺体は今も見つかっていません。太古の遺跡が散在するこの土地で、善福寺川は、今も昔と変わらぬ暴れ川なのです。
私は悲鳴を上げながら、死に神さんと悪魔君の行方を目で追いました。死に神さんは、悪魔君を抱えたまま濁流に流されて行きました。百メートルほど流され、それでも、本当に運良く、しだれ桜の枝に左手で掴まりました。悪魔君のおびえた鳴き声が哀れでした。
私は駆け着けました。駆けつけて、遊歩道の上でただおろおろとしていました。すると、死に神さんが、こちらを見上げ何か叫びました。でも、川音が激しくてよく聞き取れません。死に神さんは、もう一度、あらん限りの声を張り上げて言いました。
「人を、呼ぶんだ」
私は、はっとして、前掛けのポケットを探りました。そして、携帯を取り出すと、わななく手でボタンを押し、夫と義父に連絡を取りました。私の金切り声が聞きづらかったのか、二人は、事情がなかなか飲み込めないようでした。私はひどくいらいらして、とうとう、携帯を握りしめたまま、膝を折って泣き出してしまいました。
私は、柵の隙間から、恐る恐る二人を見ました。死に神さんは、相変わらず細い枝にぶら下がっていました。歯をぐっと食いしばり、必死に激流に耐えるその姿に、私は、相棒を守ろうとする強い意思を感じました。
水は刻々とその量を増していました。死に神さんの左手は、いったい、いつまで持つのでしょうか。運命は、文字通り、あの方の左手が握っていました。
私は激しさを増した雨にずぶぬれになりながら、声を嗄らして二人を励まし続けました。死に神さんはかすかに頷いたようでした。悪魔君の方は、主人に弱々しくしがみついているばかりで、もう鳴く元気もないようでした。
空しく時間が経って行きました。それは恐ろしい時間でした。流れることを忘れたような、凍り付いた時間でした。何もかもが止まって見えました。非現実的な世界の中で、時は停止し、まがい物の空間だけが、薄ぼんやりと広がっていました。
声が聞こえました。夫と義父が私の名を呼んでいます。わたしは弾かれたように立ち上がると、思いっきり叫び返しました。
「ここよー。早く来て、早く、早く」
木立の奥から、夫と義父を先頭に、男も女も店の者みながすっかりびしょ濡れになって駆けつけました。最後尾にはトイレの哲人さんがついています。
男の人たちは、柵を乗り越えると、コンクリートの護岸を、慎重に下りて行きました。護岸の斜面は、滑り止めのために、わざとでこぼこに造られてはいますが、雨でとても滑りやすくなっており、大変危険な状態でした。
「数珠繋ぎになるのよ」義母が叫びました。
そこで男の人たちは、夫を先頭に、前の人の腰に両手を回して、両足を踏ん張ることにしました。柵に背中をくっつけている健ちゃんを、義父や義母や私や皿洗いのおばさんが、寄ってたかって支えました。
夫は両腕を思い切り伸ばして、何とか死に神さんの左手を掴もうと努力しました。既に夫の足は激流に一歩踏み込んでいます。下手をしたら夫まで流されてしまいます。それほど足場の悪いところだったのです。義母も私も、目をつむり、ただただ神様に祈るばかりでした。
ようやく、夫の両腕が死に神さんの左手を掴みました。掴んだきり動けなくなりました。夫はかなり力持ちですが、激流にあらがって死に神さんの体を引き上げることは、さすがにできません。
五分が経ちました。十分が経ちました。そのままの状態が続きました。誰も動けません。誰も叫びません。不気味な沈黙の中で、ごうごうという水音だけが、みなの鼓膜を無情にふるわせています。
死に神さんは、水に体温を奪われ、顔も腕も既に蒼白で、唇だけが、別の生き物のように毒々しい紫色に変わっていました。危険な状態にあることは、誰の目にも明らかでした。
「どうするのよ。これじゃ引き上げられないじゃない」義母がヒステリックな声で叫びました。
「大丈夫だ。消防に連絡してある。きっと来てくれる」と義父がみなを励ましました。
斜面で踏ん張っている人たちの体力は、すでに限界に近づきつつありました。もし、誰かが力尽きて手を放せば、前の人たちは川に落ちてしまうでしょう。
「消防はまだですか。もう一度電話をしてください」列の中程で踏ん張っていたトイレの哲人さんが、大声で後ろに言いました。
義母が健ちゃんの首を左腕で絞めたまま携帯を取り出しました。焦っていたためでしょうか、義母はなかなかうまくボタンを押せませんでした。
ようやく119番につながると、義母はさっそく罵声を浴びせ掛けました。「何をぼやぼやしてんのよ。供米橋よ、供米橋。いったいいつ着くのよ」
消防署の説明に拠りますと、五分ほど前に消防車が出動したのですが、道が錯綜している上に幅員が狭く、とても供米橋まではいけないとのこと。
「車が入れなけりゃ歩いてくればいいでしょう」と義母はやり返しました。けれども、救助用の重い装備を抱えて、果たして間に合うかどうか。誰も口には出しませんでしたが、みなの心には、この灰色の空のように、重い不安の雲がたれ込めていました。
事態はいよいよ深刻になって行きました。死に神さんを掴んでいる夫の腕から、力が徐々に抜けつつあったのです。夫の疲労はすでに限界を超えようとしていました。
「旦那さん、もういい、こいつだけ頼みます」死に神さんが、震える唇で叫びました。
死に神さんの片腕の中で、悪魔君は、凄まじい水の脅威と必死に闘っていました。その小さな体を、死に神さんが、精一杯腕を伸ばして、夫の目の前にぶら下げました。夫は、恐ろしい選択を前にして、言葉もなく、ただあの方を見つめていました。
「旦那さん、頼む」死に神さんは弱々しくそう言うと、とても澄んだ目で、夫をじっと見ました。死に神さんは、内心ほっとしていたのかも知れません。生きるのにほとほと疲れ果て、これでようやく安息が得られると、ひそかに喜んでいたのかも知れません。
夫の目の前で、悪魔君は、美しい毛並みから、濁った水を滴らせ、鈍く光っていました。夫が、その小さな体を掴めば、死に神さんに最期が訪れます。
もう終わりです。とうとう、夫の右腕が悪魔君を掴みました。同時に、力尽きた左腕から、死に神さんの体が、滑るように離れて行きました。たちまち、死に神さんの黒い姿は奔流にのみ込まれ、みなの視界から消え去りました。
人々の悲鳴と嘆声が、鈍色の空の下に、一斉に上がりました。私は半狂乱になって下流へと駆け出しました。他の人たちも、苦しそうに息を切らせながら後についてきます。
川は遭難現場の下流で大きく右にカーブしています。そのカーブを曲がりきったとき、私たちは意外な光景を目にし、言葉もなくその場に立ち尽くしました。
レスキューでした。レスキュー隊が川にネットを張り、死に神さんの体を見事に受け止めたのです。さっそく命綱を付けた数名の隊員が、暴れ川に飛び込み、遭難者を確保しました。
レスキュー隊は、現場に直行しても間に合わないと判断し、遭難者が流されてくるのを下流で待つことにしたのです。さすがプロです。彼らの的確な処置により、死に神さんは、ようやく九死に一生を得たのでした。
それから。死に神さんと悪魔君は、ひどい風邪を引いて寝込んでしまいました。出発はしばらく延期されることになりました。元々行く当てなどなかったのですから、その方が良かったのです。
床に伏しているうちに、死に神さんのもとに朗報が舞い込みました。大阪にいる会社員時代の後輩が、行く当てのない死に神さんを気の毒がり、しばらく居候させてくれることになったのです。死に神さんは、急きょ西に旅立つことになりました。
梅雨明け十日のさわやかな夏の夜、店の者とタクシー会社の人たちが集い、公園のバーベキュー広場で、死に神さんの壮行会が開かれました。
肉を焼く匂いが、心地よく鼻孔をくすぐる中、人々はたき火を囲んで、語り合い、笑い合い、そして、歌いました。空にはまん丸いお月さまが懸かり、その美しい夜の目で、人々を優しく見つめていました。黒々と寝静まった森は、梢をかすかにふるわせ、涼しげな風を人々のもとに届けてくれました。月夜に浮かれる烏たちは、カー、カーと、樹上で人々の歌声に和していました。
死に神さんは楽しそうでした。本当に心の底から笑っていました。私はほっとしました。死に神さんがまた妙な考えを起こすのではないかと、ずっと心配していたからです。
私の心には複雑な思いが去来していました。寂しさと安堵と後悔と、様々な感情がない交ぜとなって、しっとりと心を染めて行きました。そして、笑いの谷間に出合うたびに、その思いが胸に満ちて来て、ほうと、小さな吐息となりはき出されるのでした。
やがて、死に神さんは席を立ち、悪魔君とふたりで夜風に当たりに行きました。久しぶりに機嫌良く酔い、鼻歌などうなっています。私はそれとなく二人の後について行きました。
死に神さんは池の欄干にもたれて、水面に浮かぶお月さまを、無心に見つめていました。足下では、悪魔君が夏虫たちと楽しそうに遊んでいます。私は、あの方の少し丸まった背中に向かって、ためらいがちに声を掛けました。
死に神さんは、口元に人なつこい笑みを浮かべ私を見ました。この無垢な笑顔が、永久に見られなくなると思うと、いよいよ苦しさが胸に募りました。
私たちは、水に揺らめく月を愛でながら語り合いました。青く透明な光が、二人を柔らかく包んでいました。夜の虫たちが、恋の歌をひそやかに歌っていました。森の静かな息吹が、梢をさわやかに渡って行きました。二つの魂は、自然と、人離れした、遠い彼方をさまよい始めました。
「ねえ、来世ってあると思う」ふと、思いがけない問いが、私の唇からこぼれ落ちました。
あの方は、ちらっと私を見て、薄く微笑みました。「よく分からない。けれども、あったらいいな、とは思う」
「私はあると思う。もし時間が無限に続くなら、私と姿形が同じ人が、心もまったく同じ人が、いつか、必ずこの世にまた生まれて来るはずでしょ」
「なるほど。確率的にはあり得るだろうね」
「そして、もう一度同じ人と巡り会うの。何億、何十億年かけて、心も体もまったく同じ人と、もう一度巡り会うの」
「それまでこの星はあるのかな」
「地球がなくなっていたら、他の星で巡り会えばいいわ」
「巡り会って、また別れるのかい」
「いえ、今度は、ずっと一緒よ。死ぬまでずっと…」
二人は互いの瞳の底に何かを認め、それから押し黙りました。
ぽちゃん。どこかで魚が跳ねました。水紋が緩やかに広がり、水の中のお月さまが、きらきらと揺らいでいます。私はその静かな影をじっと見つめ、少し沈んだ声で言いました。
「ねえ、もう死のうなんて思わないでね」
「うん? 何の話しだい」死に神さんは、私の横顔をきょとんと見て問い返しました。
「なに言ってるのよ。あんな手紙を書いておいて」
「ああ、手紙か、お別れのね」
「ねえ、そんなに死んじゃいたかった」
「えっ?」
「馬鹿よ。死んでも、何もならない。周りに迷惑をかけるだけじゃないの」
「なに、誰が死ぬって」
「とぼけないで。あんな遺書まで書いておいて」
「遺書!」静かな森に死に神さんの声が響き渡り、ねぐらの鳥たちを驚かせました。「僕は遺書なんか書いてない」
今度は私が驚く番でした。「あれは遺書じゃなかったの。もう生きるのが嫌になったって、書いてあったじゃない」
「誰も死ぬとは書いていない。あれは単なるお別れの手紙だよ。僕が出て行った後、あなたに読んで貰おうと思って書いておいたんだ」
「それじゃ、なぜ、あの時、ひとりで川を見つめていたのよ。まるで、これから飛び込むみたいだったわ」
「確かに、増水した川を見ているうちに、ここに飛び込んだら楽になるなあと、ちらりと思ったことは事実だよ。けれどもそのためにあそこに行った訳じゃない。僕は、大旦那の言いつけで川を偵察に言っただけだ。」
「だったら、どうして猫を置いていくのよ」私が半ばべそをかきながら尋ねると、あの人はおかしそうに笑いながら答えました。
「大旦那が、ぜひ、譲ってくれって言うからさ。行く当てのない人間と一緒にいるより、その方がこいつにとってもいいんだよ」と言って、死に神さんは、悪魔君の小さな頭を、優しく撫でました。
義父は、口うるさい義母に遠慮して、悪魔君を譲り受けることを隠していたのです。すべては、私の早合点でした。とんでもない思い違いをして、私は、死に神さんと悪魔君を、危うく死なせかけたのです。私はひどくしおれてしまい、自分のミスを、小さな声で謝りました。
死に神さんは少し口元をゆるめただけでした。そして、猫の頭をなおも愛おしそうに撫でながら、「こいつを、どうかよろしくお願いします」とだけ言いました。
悪魔君の方は、ごろごろと喉を鳴らして、相変わらず虫たちと楽しそうに遊んでいます。今宵が、ご主人様と過ごす、最後の晩となることも知らずに…。
翌朝。夏の煌めきが、木立に眩しくあふれるこの朝、死に神さんは、五万円で買ったという、赤帽印の古い軽トラックを店に横付けすると、貧しい荷物を、穴だらけの幌の中に積み込み始めました。
なにか手伝おうにも、二階と一階を二三度往復しただけで、僅かばかりの所帯道具はあっという間に片づき、誰も手伝えませんした。
後には私の腕の中に、悪魔君が残されているだけです。悪魔君はめまぐるしく動き回る死に神さんを、しきりとドングリ眼で追い、一緒に遊んで欲しいようでした。私が頭を撫でてあげても、小さなあしをばたつかせてむずかり、落ち着きません。
「それじゃ、皆さん、大変お世話になりました」
死に神さんが月並みな別れの挨拶をすると、あばよ、橋の下に戻るなよ、辛気くさいから黒い服ばかり着るな、猫は飯を作れない、人間と結婚しな、死に神は返上しろ、せめて貧乏神になれ、などとみな口の悪いはなむけの言葉を贈り、その場のしんみりとした雰囲気を、しばし明るいものにしました。
私は、せいせいとした顔をして微笑んでいました。けれども、目を合わせようともしない、あの方が小面憎く、また自分が惨めで、心の中では泣いていました。私は、やはり、あの方を愛していたのでしょうか。
今となっては、それはもう分かりません。おそらく、私は、あの方のうちに、自分の知らない何かを見て、それに引かれていたのでしょう。自分の知らない何かとは、あの方が、しきりと言っていた、自らの分身です。死に神さんと同じく、私も、もうひとりの自分に出会っていたのです。
死に神さんは終始笑顔でした。けれども、その大きな二重目が、かすかに潤んでいるのを、その場にいた人たちは見逃しませんでした。
「元気でやれよ、相棒」
死に神さんはそう言うと、悪魔君の小さな鼻面を指で軽く弾きました。悪魔君はちょっと面食らった顔をして、元ご主人の胸に抱かれようと、私の腕の中でもがきました。死に神さんは、泣きべそのような顔をし、それを見られないように、すぐに背を向け自動車に乗り込みました。
エンジンをかけると、パンパンという変な爆発音がしました。でも、ぼろぼろの軽トラックは何とか動き出しました。これで本当に大阪までたどり着けるのかしらと、みな一様に同じ心配をしながら、よたよたと動き出した車を見送りました。
「痛い」
突然、悪魔君が暴れ出し、鋭い牙で思いっきり私の腕を噛みました。そして、カールした自慢の耳を後ろにおったて、のろのろと進む軽トラックを、全速力で追い掛けました。ちりん、ちりん。俊足の悪魔君はすぐに追いつきました。追いつくと、車が止まって助手席のドアが開かれました。悪魔君はそこにぴょんと飛び乗り、同時にドアが閉められました。車がまた動き出すと、運転席の窓から、死に神さんが軽くみなに手を振りました。
パンパン。妙な爆発音と共に車が木立の蔭に消えると、急に蝉時雨が降り、同時に、しゅんとした寂しさがみなの心に訪れました。「あいつ、猫の便所を忘れて行きやがった」義父が白い眉を八の字にして呟きました。
それから。森の中にぽつんと建つこの食堂に、再び静かな時間が流れ出しました。そして、秋気が深まるにつれて、人々は、遠く去っていった人のことを、おぼろげな思い出として、記憶の片隅に片付け始めました。
私たち夫婦にも、静穏な日々が戻って参りました。夫は以前にもまして私を大事にしてくれて、私は私で、度量が大きく、勇敢な夫を、心から敬うようになりました。
死に神さんの救助活動の件では、現場にいた人たち皆が消防署から表彰されました。とりわけ夫は、危険きわまりない姿勢で、遭難者を力の限り支え続けたため、格別のお褒めの言葉を頂いたのでした。
それ以来、私は夫を誰よりも愛していることを、とても強く感じるようになりました。私は、世界で一番すばらしい男性と一緒になれたのです。女として、これほどの幸せは他にございません。今は夫に二度目の恋をしている、と言ったら、皆さんはお笑いになるでしょうか。
この善福寺川緑地が、再び黄金色に輝き始めたある日、わたし宛に差出人のない封書が届きました。期待と不安とがない交ぜになり、もどかしげに封を切ると、ミミズとナメクジが仲良くダンスをしているような字が、目に飛び込んできました。死に神さんからでした。
なんでも、この秋から奈良のタクシー会社に就職し、再び運転手として働き始めたとか。今は櫻井市にあるその会社の寮で、悪魔君と一緒に暮らしているそうです。
死に神さんは奈良がとても気に入ったようです。
「奈良の秋はとても美しいです。この盆地を囲む、山という山、丘という丘が、ことごとく紅葉色に色づくとき、神霊の宿るなだらかな高見から、すがしい古代の息吹が静かに降りて来て、人々の暮らす平べったい大地を、おごそかな気で満たして行くのです。
すると、この盆地に眠る、無数の古代人たちの霊が、われわれの魂に深く染み入ってきて、無限の時間を超え、親しく語りかけてくるのです。ここには、人々の心を慰める何かがあります。
その何かとは、いったい何でしょうか。おそらく、それこそが、私があなたに強く感じていたもの、いわゆるエロスではないでしょうか。
実は、エロスは、この土地に限らず、世界にあまねく存在しているのです。この星に生命のある限り、あらゆる地にそれは存し、海も、山も、大地も、ことごとくその温もりで満たされています。
私は、あなたのうちに、エロスの姿を、垣間見ただけなのかもしれません。何しろ、それは、すべての生命に宿っているのですから。善人にも、悪人にも、正直者にも、嘘つきにも、蛙にも、蛇にも、わらじ虫にも、私の横で、腹を出して寝ている、変な猫にも、それは宿っているのです。
私は、皆さんに命を助けていただいたとき、初めてこのことに気づきました。私に欠落しているもの、生きる本能に根ざす尊いものは、すべての人の心の中で、日々あたたかく脈を打っていたのです。
私が求めてやまなかった己の分身は、あなただけではなく、この世で精一杯生きている、すべての人々のうちにあったわけです。
私は、今でもあなたを愛しています。いえ、今こそあなたを愛しています。なぜならば、私の心に、生きる力が甦ったからです。この新しい力と共に、あなたの面影は、私の心の中で、いつまでも、生き続けることでしょう。
相棒がのそのそ起きてきました。今宵は十五夜お月さん。酒もある、マタタビもある。これから、こいつと二人、月見としゃれ込みますか。そして、自分の片身を垣間見た彼の地に、遠く思いを馳せましょうか。いつの日か、どこかの星で、再び巡り会えると信じながら…。
マリア観音様へ
貧乏神より」
トイレの哲人さんにこの手紙を読んでお聞かせすると、哲人さんは垂れた細い目に笑みを含ませ言いました。
「なるほどね。あいつもやっと自分の分身と合体できたわけだ。けれども、死に神でいたときだって、あいつは世間の奴らよりはましな男だったよ」
「どうして」
「自分に欠けている部分があることに、奴は気づいていたからね。そのことにまったく気づかず、人を踏みつけにしても、何とも思わない人間が、世の中、あまりにも多すぎる。だから、世間が殺伐として来るんだよ」
「そうね。だから、踏みつけにされた若い人たちが、やけになって問題を起こすのかも。あら、下の方に追伸があるわ。いま新しい小説を書いています、題は、『死に神の恋』ですって」
「変な題だね」
「売れるかしら」
「まず売れないね」
「でも、私、読んでみたいわ。だって、私の相方が書いた小説ですもの」
死に神さんと悪魔君のご多幸を、心からお祈り申し上げます。
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