死に神の恋(4)

死に神の恋(第4話)

サムライ

小説

8,591文字

やがて、秘めた想いを人々に見抜かれた死に神さん、ひたすら居心地悪くて、悶々とした日々を送る。それが可哀想で、やきもきする舞さん。いつのまにか、
微妙に、よろめき始め……。若妻、舞さんと、死に体の物書き、死に神さん、ふたりの淡い恋を通して、庶民の人情と現代人の孤独を浮き彫りにする。

桃の節句。晴れ着姿の娘は、おひな様よりも美しく、梅の花よりもかぐわしく、夫と私と、親ばか二人を、心底ほれぼれとさせ、幸せにします。あられをつまむ小さな手の愛らしいこと、襟首から覗く、細いうなじの女めかしいこと。夫と二人、幾度も幾度もシャッターを押しながら、私は母としての喜びを、存分に味わっていました。

 

もうひと月近く、私は、あれこれと理由を付けて、店に出ていませんでした。死に神さんとも、あれっきり顔を合わせていません。あの冬の日の過ちが、遠い思い出となることを願いながら、母として、妻として、私は自分の役割に、忠実に生きていました。

 

私が店に出たがらない理由を、夫は、もちろん気づいていました。ですから、仕事がどんなに忙しくても、しかられたことはありませんし、愚痴を聞いたこともありません。夫は、ただ黙って私を見守っていてくれました。心から私を愛し、そして、信じていました。

 

けれども、夫に愛されれば愛されるほど、私は、心が辛くなって、とても自分が惨めに思えました。私は、不貞の妻であり、この世に身の置き所のない存在なのです。私はあの方を憎みました。家族の平和を脅かす、あの方を、本当に憎いと思いました。

 

夫はあの人のことをどう思っているのでしょうか。私にとって、仮にそれが夫であっても、男の人の心は謎です。夫の関心の対象と言えば、私と娘と、それに店の経営だけのようでした。

 

でも、本当は、その頃、夫はとても苦しんでいたのではないでしょうか。醜い疑心に囚われる一方で、妻を信じようとしない自分を深く恥じ、一人で、悶々としていたのではないでしょうか。男の人特有の見栄と申しますか、嫉妬することを極度に嫌い、一人でずっと悩み続けていたのに違いありません。

 

夫は、表向きは何事もないかのように、死に神さんと接していました。けれども、以前のように、腹蔵なく話し合うことは、さすがにできなくなり、あの人をどう扱って良いものか、日頃、かなり戸惑っているようでした。

夫にとって、あの人は、恩を仇で返しかねない、危険な人物であり、その一方で、父の友人から預かった、あだおろそかにできない存在であり、また、陰ひなたなく働く、とても勤勉な使用人でもあるのです。

 

そのような不自然な関係が煩わしくて、二人は互いに精神的なストレスをため込んでいたようです。お陰で、店の空気は、いよいよ緊張を孕んだ、とげとげしいものになって行きました。

 

やがて、例年より早い春を迎えて、東西三キロに及ぶ善福寺川の遊歩道は、競い咲く桜の花々で、水影までピンクに、美しく埋め尽くされて行きました。

 

花見客たちは、この桜の隧道を、感嘆の声を発しつつくぐり抜け、やがて遊歩道の尽きる辺り、青葉ゆれる木立の中に、木造のひなびた食堂を見つけて、ふと喉の渇きをいやそうと思い立つのでした。

 

連日、客が引きも切らない店の中で、私は再び元気良く働き始めました。お運びで大わらわの最中に、裏の売店から、お菓子を買い求める子供たちの声が聞こえて来ます。お盆を投げ出し、急いで駆けつけると、今度は外テーブルに団体さんが腰をかけ始め、ラーメン、カレーの大量注文。あわてて中に戻ってみれば、注文を間違えたのか、夫と義母が盛んに言い合っており、かたわらでは、皿洗いのおばさんが、山のような洗い物を前に、ヒステリーの発作を起こしている有様。本当に、毎日が嵐のようです。

 

釣り場を担当している死に神さんも、竿の仕掛けから、ポンプの操作、それに釣り客への出前まで、毎日汗まみれになってこなしていました。でも、まだまだ不慣れなこともあり、竿やお盆を片手にうろうろするばかりで、なかなか仕事が前に進まないようでした。

 

とは言うものの、何よりも仕事を尊び、日々身を粉にして働く姿を目にして、店の者たちは、再びあの方に、好意とほのかな尊敬の念を抱くようになって行ったのです。

 

 

ああ、私は、一体、どうなってしまったのでしょうか。なぜ、あんな恐ろしいことを言ったのでしょうか。私は、自分という人間が分からなくなってしまいました。

 

それは、桜の花がちらほらと夜風に舞う、しんみりとした晩のことでした。店のガラス戸をそっと開けて、死に神さんのために、遅い夕食をテーブルの上に置いた時、背後に、突然、人の気配を感じて、私はぎくりとしてふり返りました。

 

死に神さんでした。買い物袋をぶら下げ、ばつが悪そうに戸口に立っています。私を見て微笑もうとしましたが、目は少しも笑っておらず、何かの感情を押し隠したような、妙に硬い表情をしていました。

 

軽く挨拶を返し、急いでその脇をすり抜けようとしたとき、ガラス戸が、ぴしゃりと、目の前で閉じられました。

 

「何するのよ」

 

思わず口をついて出た言葉に、こちらのおそれを感じ取ったらしく、あの人は、努めて表情を柔らかくし、私を見つめ続けました。

 

「どいてよ」

 

その言葉が終わる前に、私は抱き寄せられて、再び唇を奪われていました。私はもがきました。けれどもしょせん無駄でした。なぜならば、どこかで、私は、この瞬間を待ち望んでいたからです。

 

全身の力が抜けて行きました。なぜか夫の面影は思い浮かびませんでした。ただ、恋ほど不条理なものはない、と言った、あの人の言葉だけが、頭の中をぐるぐると駆けめぐっていました。

 

やがて、罪深い恍惚の中で、私は、あの人の意外な言葉を聞きました。

 

「僕は、ここを出ます」

 

突然、やるせなさが潮のように心に満ちて来て、私は、涙声で言いました。

 

「いやよ。そばにいてよ。今さら、ひどい」

「僕は、どこに行っても周りの人を不愉快にさせる。この世のどこにも、僕の居場所はない。僕には、何かが欠けているようだ。こんな人間は、この世にいること自体が間違いだ」

「何でそんなことを言うの。この世にいてはいけない人なんて、いやしないわ」

「あなたは完全に普通の人だ。いい意味でね。だから、僕のことは分からない」

「連れて行ってよ。ねえ、一緒に逃げようって言ったじゃない」あの方の胸に顔を埋めながら、私は言いました。

 

清楚で貞淑な妻、子育てに夢中の平凡な母親、すべて嘘でした。すべて虚構でした。私は、この世に生まれてから今に至るまで、ひとりの女だったのです。

 

あの方は、力無く微笑むと、私の耳元で、そっと言いました。「どこへ逃げても、何かが、僕を追い掛けてくる。どこに隠れても、そいつは、たちまち僕を見つけ、真っ黒な虚無へ引き戻そうとする。だから、生きている限り、僕は人々から切り離されている」

 

「私が守ってあげる。あなたに、生きる喜びを、教えてあげる」

「無理さ。僕は、とても疲れている」

 

私は暗い予感に囚われ、ぞっとしてあの人を見ました。少し伏せたその目には、あきらめとも、悲しみともつかない、暗澹とした光が宿っていました。

 

「私と別れることが、悲しくないの」

「悲しいさ。けれども、僕は、君を、君の家族を、不幸にしたくない」

魂が消え入るような、か細い声で、私は尋ねました。「たった一人で、一体、どこへ行く気なの」

 

死に神さんは何も答えずに、ただ、私を強く強く抱きしめ、愛しげに頬を寄せました。悲しげに頬を寄せました。そして、やるせなく吐息を吐きました。

 

母屋の方から娘の声が消え消えに聞こえてきます。夕食を目の前にして、お腹をすかせているのでしょう。

 

「ねえ、結論を急がないで。どうせ行くところなんか、どこにもないんでしょう」

「ああ、そうだね…」

花かおる風が、ほとほとと、悲しげに戸を叩く、春の夜のことでございました。

 

 

それから、桜の時季が、花冷えの雨とともに、足早に人々の前を通り過ぎると、緑色の風がまぶしい五月が訪れ、店は再び目の回るような忙しさに包まれて行きました。

 

連休のかき入れ時、毎日ひたすら仕事に追われて、死に神さんとは、互いの目色を密かに探り合うことはあっても、言葉を交わすことはあまりありませんでした。

 

それでも、いつかの切ない記憶が、しっとりと胸によみがえる度に、私は、ほうとやるせなく吐息を吐き、濡れ色の目で、窓の外の緑を、漫然と眺めるのでした。私は恋をしているようでした。

 

死に神さんも、仕事の合間に、うつろな目であらぬところを見つめていて、よく義父から叱られていました。あの人の心は、明らかに何かに囚われています。

 

けれども、それは恋に心奪われた人の眼差しとは思えませんでした。いつの頃からか、あの方の瞳に宿った暗い光が、この日頃、さらに光度を増していたからです。

 

 

ある日、犬の散歩を口実に家を出て、川沿いのベンチで、一人ぼんやりと自分の心の内側を眺めていますと、突然、お嬢、久しぶりだね、と背後で聞き覚えのある声がしました。

 

白いTシャツを着た、白髪交じりの男の人が、目もないくらいにこにこして、初夏の木漏れ日の中に立っています。トイレの哲人さんでした。穏やかなその笑みが、自分の父親を思い出させて、私をひどく安心させました。

 

涼しげにそよぐ木楢の下で、二人は、ベンチに並んで腰を掛け、まるで父娘のように、あれこれと親しく語り合いました。

 

いつしか、よもやま話の狭間に、ほのかな想いが自然とにじみ出てきて、私は、罪におののく胸の裡を、哲人さんに、ぽつりぽつりと話し始めました。

 

罪悪感に打ち震える私の声が、次第次第に細くなり、やがて、鳥たちの、朗らかなさえずりのうちに絶えるとき、トイレの哲人さんは、年輪に押しつぶされた、しわがれ声でこう言いました。

 

「あんたは、マリア観音みたいだね。それも、マグダラのマリアだ」

「どういう意味」

「女であることを、苦しみながら生きている。女に生まれたことを、後悔しながら生きている。そのくせ、あんたの女らしさが、殺伐としたこの世を、美しく照らしている」

「あの人が、私でなくてはだめだと言ったのは、私が、みなを照らしているからなの」

「そうだ。損な役回りだね。お天道様みたいに、みなを一生懸命照らしていなければならないのだから」

 

トイレの哲人さんは、流れに小石を一つ投げると、その波紋を暗く見つめて、さらに語りました。

 

「人間はみな影の部分を持っている。人間性の暗部、と言ってもいい。しかし、可哀想なことに、あいつは、その影を、人より多く持っている。今では、魂そのものが、暗い影にのみ込まれそうになっている。だから、あいつは照らしてほしいんだよ。あんたに明るく照らして貰って、この世に戻る道筋を、見つけたいのさ」

 

「あの人を苦しめているものって、いったい何なの」

「あんたに言っても分からないよ。人生からスピン・アウトしてみないと、見えてこないものも、この世にはあるのさ」

 

トイレの哲人さんはそう言うと、日焼けした顔に少しさみしそうな笑みを浮かべました。

 

 

六月、陰気な雨がしとしとと降る夜、台所で夕ご飯の支度をしていますと、夫が夕刊を眺めながら、突然、ぼそりと言いました。

「あいつ、辞めるってさ」

 

私は、台所仕事の手を休め、素知らぬ風に問い返しました。「あいつって誰のこと」

「死に神さんだよ。今月中に後任を探してくれとさ。来月には引き払うそうだ」

「辞めてどうするのかしら」

「知らない。行く当てもないだろうし、おれも親父も止めたんだが、気持ちは変わらないって」

 

なんて言うことでしょう。来月までもう二週間ほどしかありません。急に相談もなく去って行こうとするなんて、ひどい、あんまりです。私は、あの人を、恨めしいと思いました。口説くだけ口説いておいて、何も言わずに旅立とうとするあの人を、本当に憎いと思いました。

 

私は惨めでした。私は哀れでした。私はなんて馬鹿な女なのでしょう。夫以外の男性に、つかの間にでも、心を許してしまうとは。きっと罰が当たったのでしょう。

私は一晩中自分を嫌悪し責め続けました。その夜は、口惜しくてとても眠ることなどできませんでした。

 

 

そして、七月。一生忘れられない日がやってきました。あの日は嵐でした。日本を大型台風が襲い、南から、次第に濃い雨雲が北上して来ていました。

 

木々の梢が、強まる風に撓り、びゅうびゅうと不気味な鳴き声を上げていました。雨脚が繁くなるにつれ、ふだんは聞こえない善福寺川の川音が、森を抜けて、私たちの店にまで迫ってきていました。

 

元々この辺は湿地帯で、護岸工事がされる以前は、善福寺川が氾濫するたびに、水が今のバーベキュー広場の辺りまで押し寄せて、付近一帯を水浸しにしたそうです。調整地ができた現在でも、水はけがとても悪くて、数年前の集中豪雨の時などは、店が床下まで浸り、釣り堀の大事な魚たちが、あふれかえった水に押し流されてしまったほどです。

 

生活手段を失うのは辛いことです。ですから、その日は、早朝から店の者総出で砂袋を積んだり、池をネットで覆ったり、厳重に戸締まりをしたり、嵐に備えてみな忙しく立ち働きました。強まる雨の中、誰の顔も一様に不安そうでした。

 

釣り場担当の死に神さんも、ゴム製の雨合羽の下に大汗をかきながら、後任の安蔵さんと一緒に、顔を真っ赤にして重い砂袋を担いでいました。

 

この時まで、あの人に変わったところは特に見られませんでした。ただ、最近眠られないらしく、顔色がひどく冴えない上、体の動きも、いつものきびきびとしたものではありませんでした。

 

 

昼過ぎ、作業がようやく終わり、店の者は、みな疲れ切った様子で、驟雨の中を引き上げて行きました。健ちゃんと安蔵さんは昼食をとるために義父の棟に向かい、死に神さんは、汗を流しに釣り場に併設されたシャワー室に入ったようです。私も、お昼ご飯の用意のために、夫と共に一旦母屋へ戻ることにしました。

 

午後二時頃、遅い昼食を死に神さんに届けに行ったときのことです。いつものように、テーブルの上にお盆を置くと、私は二階に声をかけ店を出ようとしました。

 

けれども、例の少し間延びした返事が返ってきません。私は気になり、もう一度、薄暗い階段に向かって、あの方の名を呼びました。

 

やはり返事はありません。聞こえてくる物音と言えば、トタン屋根を叩く太い雨音と、耳鳴りのようにとどろく、水量を増した善福寺川の川音だけでした。

 

私は心配になりました。今では、顔を見ても口もきかないのに、顔を見るのもいやなのに、心配で仕方がありませんでした。

 

みし、みし、悲しげにきしむ階段を、私は、何かを怖れ、何かを期待しながら、ゆっくりと昇って行きました。そして、暗い廊下にたたずみ、襖障子の引き戸にそっと手をかけました。私は、自分の手がかすかに震えていることに気づきました。それでも、無意識の深い感情に背中を押されたかのように、襖障子を、そっと開けてみました。

 

誰もいません。いえ、悪魔君が、ぽつんと机の上に座っています。私を見て、なぜか悲しそうに、クゥーとひと声鳴きました。その小さなお尻の下には、何か白いものがありました。何だかとても嫌な予感がして、私は、悪魔君を優しく抱き上げると、その白いものに、恐る恐る手を伸ばしました。封書でした。わたし宛です。あらましは、だいたい下の通りです。

 

 

「舞さん、私という人間は、どうやら神様の創った失敗作のようです。密かに志を立て、何ものかになろうとしても、何ものにもなれず、かといって、平凡な暮らしを夢見ても、そんな生活は、とても身の丈に合わず、この歳になるまで、結局、どっちつかずのボウフラみたいな人生を歩んで参りました。

 

私は思うのです。人間とは、何ごとかをなすために、この世に生まれたものだと、人間とは、何ものかになるために、生を受けた、唯一の生き物だと。

 

けれども、私は、何ものにもなれませんでした。この世のあらゆる門戸は、私に閉じられていたのです。

 

まるで、私は、果てしない荒れ野を、永遠にさすらう旅人のようです。ようやくたどり着いた、この野中の一軒家も、扉らしいものはどこにもなく、私は、窓辺に浮かぶ美しい人影を、ただ空しく見上げているしかありませんでした。

 

私がどこに行っても受け入れられないのはなぜでしょうか。根本的な原因は、一体どこにあるのでしょうか。たぶん、それは私の心の中にあるのでしょう。どうやら、私の心の中には、人々に敬遠される一匹の蛇が巣くっているようです。

 

いつかもお話ししたとおり、人間の心には、いつのまにか忘れられてしまった、重要な部分があります。ある意味では、それは我々の分身です。私は、その分身を探し求めて、人生という、途方もない長い旅路を、独り歩んできました。

 

そして、まったく偶然に、あなたという、分身に出会ってしまったのです。あなたは、私の持たないすべてを具備しています。いつも生きる力に満ちあふれ、まるで太陽のように、あらゆる人を慈しみ、照らしています。

 

私はあなたを見ているうちにようやく気づいたのです。私が世に入れられない理由、私に欠けているものが何かを。それは、エロスです。

 

もし、干からびた魂を癒すものをエロスと呼ぶならば、あなたは、それを人より多く持つ、希有な人間と言えるでしょう。あなたは、このみすぼらしい町を照らす、ほのかな灯火、転落者たちの傷ついた魂を、やさしく慰めるマリア観音です。

 

私はあなたに会うのが遅すぎました。自分の分身を目の前にしながら、一つになることが許されないとは、辛い話しです。私は、今のまま、一匹の蛇を、人間のもっとも暗い部分だけを抱えて、生きて行かねばならないのです。

 

生のもっとも暗い部分、それは、人間が本来持っている破滅への憧れです。破滅を怖れないからこそ、人間は、運命と闘い、これを克服しようとする。けれども、そこにひずみがあるのです。人々が、この暗い力だけに頼れば、世界は殺伐としたものになってしまいます。人が人を食う世の中が当たり前になってしまいます。ちょうど、今のこの国のように。

 

ですから、私を筆頭に、この国の人々は、みな犯罪者です。何しろ、人を食うことなど、へっちゃらなのですから。我々はみな人食い人種です。少しでも弱い心を持てば、たちまち食われてしまいます。私は、そんな人間でいることに、ほとほと疲れてしまったのです。

 

もう人生において、見るべきものは見ました。聞くべきことも聞きました。今は、何もしたくないし、何も考えたくありません。ただ、闇のように深い安息を欲するのみです。

 

お別れです。どうか猫をよろしくお願いします。あいつは、悪魔みたいな人間どもと違って、とても気のいい奴です。どうぞお元気で」

 

手紙が指を滑り落ちて行きました。それも気づかないほど、私は動揺していました。ただぼうっとするばかりで、頭の中には何も浮かんできませんでした。

 

次の瞬間、私は、階段を、何度も尻餅をつきながら滑り降りていました。私は何か叫んでいました。何か叫びながら走っていました。雨が降っていました。激しく降っていました。私は稲妻を見ました。雷鳴を聞きました。川音が近づいていました。

 

やはりあの方はいました。家からほど遠からぬところ、供米橋の欄干に寄りかかり、水量の増した川を、じっと暗く見つめていました。私は走りました。走ってあの人の腕にすがりつきました。

 

「お願いだから、馬鹿なことしないでよ。死んで何になるのよ」

 

あの人は、突然、私が現れ泣きじゃくるのを見て、大きな瞳に驚きの色を浮かべ、かすかに口をもごもごさせました。

 

その時、灰色の何かが、欄干にぴょんと飛び乗りました。悪魔君でした。私が戸口を開けたまま駆けだしたので、後を付けてきたのでしょう。悪魔君はご主人を見て、嬉しそうに、ミュウとひと声鳴きました。

 

ところが、雨でコンクリート製の欄干はとても滑りやすくなっていました。死に神さんと私が、危ないと思った瞬間、悪魔君はあしを滑らせて、お尻から川に墜ちて行きました。

 

死に神さんがとっさにその小さな体を掴みました。ああ、なんと言うことでしょう。バランスを崩して死に神さんまでが、猫と一緒に川に落ちてしまいました。

2009年9月28日公開

作品集『死に神の恋』第4話 (全5話)

© 2009 サムライ

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