死に神の恋(1)

死に神の恋(第1話)

サムライ

小説

9,644文字

緑濃い公園に建つ、ひなびた食堂。若女将、舞はみなの人気者。猫をつれた風来坊、死に神さん、舞さんに密かに思いを寄せるが…。死に体の物書きと美人妻の 恋愛騒動を通して、現代人の心に巣くう、深い孤独を浮き彫りにする。

あの方が、あんな大それたことをする人だとは、私は露ほども思っていませんでした。

私があの方に初めてお会いしたのは、もう数年前になりますでしょうか、公園の中にぽつんと建つ、この古い食堂にお嫁に来て、子宝にも恵まれ、生活に張りの出てきた頃だったと記憶しています。

 

私の嫁いだ先は、杉並の善福寺川緑地のはずれ、和田堀公園にあるひなびた食堂で、付近は、それはそれはとても緑が濃くて、さながら森の中の一軒家、と言った風情があるところでございます。

交通の便の悪い土地ですが、日曜日ともなれば、のんびりと森林浴を楽しむ人々や、食堂に併設された釣り堀に糸をたれるお客さんたちで、この辺りもなかなかの賑わいとなります。

ですから、かき入れ時の日曜、祝日だけは、私も店に出て厨房やお運びのお手伝いをするようにしています。はじめは気が進まなかったのですが、厨房を任されている主人や、店のオーナーである義父母に請われる形で、いつの頃からか、休日ごとに、娘の手を引き店に通うようになっていました。

「舞ちゃん、こっちビールね」「舞ちゃん、こっちサワーお代わり」「ラーメンと焼きそばまだ来てないよ、舞ちゃん」

舞ちゃん、舞ちゃん、あっちからも、こっちからもご指名で、それこそ私はてんてこ舞いです。近くの球場で草野球のある日曜日は、まるで私の晴れ舞台のようです。野球服姿の団体さんが、うちの店で打ち上げをやることが多いためです。

「日曜日は舞ちゃんで持っているものね」

お義母さんはそう言って私に頼り切り。義父と主人も休日ごとに私のファンが訪れてくれるので、売り上げが上がるとまんざらでもない様子。

もっとアルバイトの健ちゃんとか、お義母さんに用事を言いつけてくれればいいのに、と私は時々主人に愚痴をこぼすのですが、休日、娘とぽつんと家にいて、まだ器量も衰えない若い身を、足早に去って行く時に、無為に任せるよりは、どれほどお店の方が楽しいでしょう、そう思い返して、ここ数年がんばってきたのです。

あの方も、もともとは私どもの店のお客さんでした。と言いましても、古いお馴染みさんではなく、いつとはなしに公園に現れ、私どもの店にちょくちょく顔を見せるようになったのです。

よほど黒い服がお好きなようで、初めていらしたときも、夏なのに黒のズボンに黒のTシャツ、靴まで黒、という出で立ちでした。季節が変わっても、秋は黒のセーター、冬は黒のロング・コート。髪だけは漆黒にかすかに白いものが混じっていらして、それがちょっとしたアクセントになり、とても良くお似合いでした。黒ずくめのあの方のことを、いつしか私たち店の者は、親しみを込めて「死に神さん」とお呼びするようになっていました。

 

死に神さんはひとり者でした。奥さんがいるのが当然の年なのに、別にそれを不便だとも、妙だともご自身思わずに、日曜日ごとに店に来ては、酒をわずかに口に含みながら、何やら難しい本を読んでいます。本人が言うには、仕事のかたわら小説を書いているのだそうです。世間の評判のほどは知りません。

ただの客、と言ってしまえばそれまでです。服だけではなく、顔まで浅黒く、どこか暗い陰のあるこの方に、私ははじめ何の興味も抱かなかったのです。夫のある身としては当然のことですよね。

けれども、死に神さんの方は違うようでした。日曜日、私がいるのを確かめてから店に入ってくるのです。もちろん、主人も義理の父母もそのことに気づいておりました。それでも、酔ってくだを巻くわけでもない、物静かなこのお客さんに、店の者はみな好感を抱いていました。

死に神さんは、タクシーの運転手さんでした。日曜日でもお仕事の時があるらしくて、そう言う日は店の前に黒い車を停め、やはり黒い背広姿で店に入ってきて、酒は飲まず、カツ丼などを注文します。

黒い車、黒い背広、まるで葬儀屋さんみたいだね、お仕事中でも死に神さんはいつもの死に神さんだな、と言って店の誰しもが親しげな笑みを浮かべたものでした。

死に神さんは猫を飼っていました。何という種類なのでしょうか、短毛種で、毛並みがロシアン・ブルーに似ており、銀ねず色の美しい光沢をしていました。ただ、耳が外側にくるりとカールしていて、ちょっと見かけない猫でした。

その猫が、暗がりでドングリ眼を見開き、耳をきゅっとおっ立てたさまは、かわいらしい悪魔くん、といった風情があります。死に神さんはこの猫にリードをつけて公園を散策するのが日課でした。

「死に神が、悪魔を連れて森を散歩していたよ」

アルバイトの健ちゃんなどは、いつもそう言って、愉快がっていました。死に神さんと悪魔君はいい相棒のようでした。

風の心地よい、五月晴れのある日、死に神さんがいつものように本を片手にぶらりと店に入ってきました。悪魔君は表の柿の木に繋がれ、日だまりでうちの犬とじゃれ合っています。つくづく変な猫です。

死に神さんはいつになくそわそわしていました。カウンターに座るなりぬる燗を注文し、それから、ポケットを探って何やら取り出し、それをかすかに震える手で、大事そうに胸に押し隠していました。

お酒をお持ちすると、じっと私の手を見つめながら、やあ、かたじけない、とばかりにちょっと片手で拝む真似をして、そのワンカップをぐいっと飲み干しました。

「もう一杯下さい」

なんともよい飲みっぷり。ちょっと驚き、またすぐぬる燗をお持ちしたときです。死に神さんが素早く私の手に封書を握らせたのです。そして、またもや、ぐいっとばかりにお酒を飲み干し、「お勘定」と短く言って立ち上がりました。

あっけにとられた私を残し、死に神さんは、帳場の義父にもどかしげに支払いを済ませると、そのまま足早に出て行ってしまいました。

あわてて後を追うと、例の変な猫を小脇に抱え、振り返ろうともせず風のように立ち去って行くところでした。

私の手には、宛名も差出人もない茶色い封筒が残されていました。胸おどるような、こそばゆい予感に誘われ、みどり鮮やかな木の下で、それを開いてみますと、飾りっ気のない便せんに、ミミズが飛び跳ねているような字で、何やら詩のようなものが書かれています。「へたくそな詩…」自称もの書きの、その実力のほどを知り、私はちょっとがっかりしました。

 

舞さんへ

 

 

『青葉色の君』

 

昔のどけき安らいの、森の料理屋に物憂く夏の陽さし、

木目あらきカウンターの、酒の玉、きららに緑なす。

軽やかにまろぶ、エメラルドの玉に、浮かぶは君が白き面、

ふっと母めいた笑みになごみ、

苦き酩酊の底闇を、やわらかに照らす。

ああ、明日、明日、明日、明日よ、

明き朝に舞う希望の言の葉、温かなその響き。

いま、色なき夜にとよむは、昨日のひやかな風の声。

昔のどけき安らいの、森の料理屋に、物憂く夏の陽さし、

ぬるき酒を運ぶ君が手は、人の世のぬくもりを、ほのかにわれに

伝え来ぬ。

 

すぐ破って捨ててしまおうと一瞬考えたのですが、詩の最後のところ、ぬるき酒を運ぶ君が手は…、云々、が少しだけ印象に残りました。日々、何気なくお酒を運ぶ私の手が、あの方にある種の温もりを与えていたとは、新鮮な驚きでした。

その夜、いつになく長湯をした私は、鏡台の前に座り込んで、つくづくと自分の顔を眺めてみました。

湯上がりの上気した肌は、娘時代とまったく変わらず、とても木目が細やかですべすべしています。昔からこの雪のように白い肌が私の自慢でした。

鼻はつんと高からず、低からず、小じわもなく、やや大きめの一重目は、上村松園などの美人画のそれに似ていると人にほめられたことがあります。

後ろに束ねた長い髪は淡く茶色に染めていますが、まだまだつややかで、とても張りがあります。

浮世絵に描かれた女性を、現代風にアレンジした姿、と私の形を表現した方が以前いらっしゃいましたが、どうでしょうか、想像がつきますでしょうか。

いえ、うぬぼれに浸りたくて、こんな愚にもつかないことをお話ししているのではないのですよ。しょせん、私は亭主持ちの子持ち。お客さんたちから見れば、酔ってくだを巻くときの酒の肴にはできましても、とてもとても恋愛の対象などというものではございません。

それに、店のお客さんたちと私の間には、けじめと言いますか、画然とした高い塀のようなものがあったのです。すぐそばで夫や義父母が目を光らせているのですから当然ですよね。

ところが、あの人と来たら、その目に見えない塀を、何食わぬ顔で、のそのそと乗り越えてくるのですから。びっくりするやら、はずかしいやら、それで女としての自覚が急に甦ってきまして、鏡をじっと見ているうちに、ついつい、はしたなくも自己陶酔してしまったのです。

「ひとりで何をにやにやしてんだよ」

ぞっとして、私は鏡面の端に映る声の主を見ました。夫がいつもの人なつこい笑みを浮かべ戸口に立っています。ビーバーみたいな前歯がとても可愛い、わたしのお気に入りの笑顔です。見慣れたその笑顔に出合った途端、戦慄が背筋を冷たく駆け抜けたのは、一体なぜでしょうか。

 

次の日曜日、とんでもないことが起こりました。先日のお手紙は、やはりお返しした方がよいと思い、私は、朝からあの方がお店にいらっしゃるのを、いまかいまかと待っていました。

「舞ちゃん、何やってるの、3番テーブル、ラーメン上がったよ」

心ここにあらずの私を、義母の声がせき立てます。そのたびに、くるくると体を動かし、精一杯立ち働くのですが、集中力が続きません。ふと、気がつくと、手を休めて、あらぬところを見つめているのです。

いったい私は何を待っているのでしょうか。心臓が悲鳴を上げているような、この激しい動悸は、果たしてどこから来るのでしょうか。私の心は混乱するばかりでした。

ちりん、ちりん。表で可愛い鈴の音がしました。あの人です。悪魔君も一緒です。

「外を片づけて、舞ちゃん、外」

また義母の元気の良い声が響き渡ります。木楢の木立の下に、いくつかテーブルが置かれていて、そこで騒がしく飲んでいた野球服すがたの団体さんが、いまから帰るところでした。

いつものように黒いシャツを着た死に神さんが、私とすれ違いざま店に入ってきました。悪さを見つけられたいたずらっ子のように、目を伏せ、表情をこわばらせ、浅黒い面をちょっと赤く染めて。男臭い顔立ちをした死に神さんが、いつになくはにかむ様を見て、私は思わず頬をゆるめてしまいました。

「わはは」

「何だ、このへたくそな詩は」「どこのまぬけだ」

何やら皆が騒いでいます。私はテーブルを拭く手を木漏れ日の中に休めて、店の中をそっと窺いました。なぜか、とてもいやな予感がして、何気なくエプロンのポケットを探ってみると、「ない…、ないわ。手紙が」

顔が、さっと青ざめるのが自分でも分かりました。もしかしたら、皆はあの手紙を回し読みして笑いあっているのかも。

お盆を放り出して中に駆け込むと、店中から好奇の視線が一時に集まり、私は今度は真っ赤になってしまいました。

「おい、舞、ラブレターが届いてるぜ」夫がくすくす笑いながら私を呼びます。私は何のことやら分からない、という顔を作り、手紙をのぞき込みました。そして、はしたないくらい大きな声で笑って見せたのです。

「な、へったくそだろ」いつもカウンターの端でお酒を飲んでいる、安蔵というおじさんが、金歯をにたにた光らせて言います。

どぎまぎしてしまって、安蔵さんの二つ先に座っている当の作者を、恐る恐る盗み見ますと、新聞を大きく開いて顔を隠し、その実、両の手がわなわなと小刻みに震えていました。

「なあ、なあ、あんたもちょっと見てみろよ。たいした名作だぜ」酔っぱらった安蔵さんが、調子に乗って、死に神さんに例の手紙を渡そうとすると、かわいそうに、薄幸の詩人先生は、新聞の陰からぬっと腕を伸ばして、素早くその名作を受け取り、しばし沈黙の後に、「ははは、なるほど、これはいいや、とんだ詩人気取りですね。いやね、僕もね、多少詩を書くんですがね、これはへたくそだなあ。明日、明日、明日、明日よ、か。あすを四回も繰り返すところが味噌なのかなあ、ははは、どうもいただけませんね」などと言ってすっとぼけております。

「誰が落としたのかなあ。いや、こんな訳の分からないラブレターは、捨てた方がいい。舞さんのためにならない。うん、分かりました。いいでしょう、僕の方で責任をもって処分しときますよ」

死に神さんは頼まれもしないのに、稀代の名作を懐にねじ込むと、あっけにとられた人々を残して、あたふたと出て行ってしまいました。カウンターには紙幣が二三枚放り投げてありました。

その後ろ姿がちょっと気の毒で、またひどく申し訳なくもあり、様々な想いが一時に胸にこみ上げてきて、思わず後を追うと、死に神さんが、悪魔君を小脇に抱え、木立の奥にすたこら逃げ去るところでした。

それっきり、死に神さんは店に現れませんでした。何とも後味の悪いお別れの仕方をしてしまって、心苦しく、情けなく、そして、すこし悲しくて、私は暫くやるせない日々を送っていました。

 

忙しい日曜日、何も考える暇などないはずなのに、いつのまにかぼんやりと窓の外を見つめて、森の遊歩道に誰かの面影を探してしまうのは、一体どういう心持ちなのでしょうか。

お義母さんや健ちゃんは、川向こうの八幡様の丘で、死に神さんが、悪魔君と散歩するすがたを、何度か目にしたようです。蝉しぐれ降る森の中、ブナの老木の陰に足を休め、高台のベンチから、うちの店の方を、ぼんやりと眺めていたそうです。

「どうしたんだろうねえ、ひどくしょんぼりとしてたよ」と義母が話すのを聞き、精悍な顔をしてふだん周囲を睥睨する風だったあの人が、猫に引っ張られるようにして、元気なくとぼとぼ歩いている姿が目に浮かび、申し訳ないと言うよりも何だかほほえましくて、ついつい笑いがこみ上げて来るのを、私はこらえ切れませんでした。

ところが、その死に神さんがうちの店に転がり込んで来たのですから、世の中先のことは分からないと申しますか、よほど死に神にたたられていると申しますか。

 

あれは死に神さんが店に来なくなって数ヶ月が経った、秋の連休のことだったと思います。昼下がり、買い物から帰って店に入ると、窓際の、つり場が一望できる一番いいテーブルに、男の方が二人、こちらに背を向けて座っていました。その向かいには、いつものように野球帽を被った義父の、困惑そのもののような顔が見えます。

義父が言いました。「しかしなあ、社長、六さんの代わりと言っても、この商売だって勉強することは山ほどあるんだ。竿や餌の種類、へらブナや金魚の生態、ポンプの操作に水換え、それに食堂の仕事だってある。修業を積むにはどうしても時間がかかるんだよ」

六さんというのはつり場専門の係の人で、店の二階に住んでいる片足の不自由なおじいさんです。高齢のため近々埼玉の息子さんが引き取ることになり、義父母は代わりの人を探していました。

年格好が義父と同じくらいの、白髪頭のふとった男性が、「ずっとじゃないんだよ。一年でいいんだ。置いてやってくれよ。こいつはまじめな奴だから、仕込めば絶対店の役に立つようになるって」と言い、隣の男性の肩に染みの浮いた手を置きました。

義父は白くて太い、自慢の眉を八の字にして、なおも困惑の体です。「一年じゃねえ、仕事を覚えたところでさよならだよ」

義父と話しをしているのは、近所のタクシー会社の社長さんでした。二人は小学校の頃からの幼なじみで、今でも時々一緒に海釣りに行く間柄です。社長さんは旧友である義父のもとに、何か難しい相談に訪れたようでした。

話題の中心は、社長さんの隣に座っている人の、身の振り方のようです。どこかで見た黒いスーツ、すこしカールした太い髪、それに、少々まるまった、陰気な背中、もしや…。私は、ある期待を込めて、社長さんの横で小さくなっている方の後ろ姿を見つめました。

「おい、舞ちゃん、お代わりくれよ」

義父が私を見つけて言いました。コーヒーを替えるとき、ちらりと見た神妙な顔つきの人物は、やはりあの死に神さんでした。死に神さんは、私を見ると、いよいよ小さくなってしまい、面目なさそうに目をテーブルに落としました。

なんでも死に神さんは、交通違反の点数が重なり、暫くタクシーに乗れなくなってしまったとか。今度捕まりますと、免許取り消しになりますので、点数が回復する一年後まで、用心してハンドルは握らないそうです。ですから、タクシー会社の方も、一時退職せざるを得ません。

一方、社長さんは運転手不足に悩んでいる折から、ぜひ戻ってきてほしい、当座の仕事は見つけてやるから、と死に神さんを引き留め、巡り巡って、きょうこの席に二人で座っているわけです。

「いいじゃないか、来てもらおうよ」

夫が、濡れた手をエプロンで拭きながら、カウンターの中から出てきて言いました。

「どうせうちみたいな店、来てくれる人もなかなかいないよ、父さん」

けっきょく義母も賛成の側にまわり、死に神さんはめでたくうちの店で、住み込みの臨時雇いとして働くことになりました。

「一年後のことなんてわかりゃしないよ。ひょっとしたらずっといてくれるかもしれないじゃないか」と義母はあとでお義父さんに耳打ちしました。

 

秋晴れのある土曜日、川向こうの大宮八幡様のお社から、祭ばやしが流れてくるその日、死に神さんは、どこで借りてきたやら、古風なリヤカーに全財産を積んで店の二階へ引っ越してきました。荷物の上には悪魔君がちょこんと座っています。

夫に言われて部屋の掃除や荷物の整理は私がお手伝いしたのですが、家財道具らしきものは何もなく、布団に大量のご本、お気に入りの黒い服数点、それに猫用の食器がいくつか目につくぐらいでした。電気製品などは家賃滞納のため、アパートの大家さんに差し押さえられてしまったそうです。

新居は六さんのいた日当たりの良い八畳間で、窓からはみどり豊かな落葉樹の森と、和田堀の池が一望できます。木々がこんもりと茂る池の浮洲には、シジュウカラやムクドリ、それにカワセミなどが棲んでいて、朝には彼らの可憐なさえずりが、死に神さんの目覚まし代わりとなることでしょう。

畳と襖が古くて少しすえた臭いのする部屋ですが、落ち着く先が見つかって安心したのでしょうか、死に神さんは鼻歌などうなって上機嫌でした。悪魔君の方は押入に入ってみたり、ベッドの下に潜ってみたり、長いしっぽを振り振り、新居の探検に忙しいようです。ご本のサイズをそろえて隅に並べながら、部屋を渡って行く、秋日和の快い風の中で、私はひとり考えていました。死に神さんに恥をかかせてしまった例の一件を、どう謝ったものやらと。

でも、人の気も知らずに、死に神さんの方は、段ボール箱の中から黄ばんだ原稿用紙の束を取り出して、自作の小説の講釈に夢中です。渡されるままにそれらを手にしてみれば、「熱海の踊り子」だの、「暗夜航路」だの、「私は猫だった」だの、「これから」だの、「あれから」だの、とにかくどこかで聞いたことがあるような、ないような、妙なタイトルのものばかりです。

「これはね、僕の作家人生の転機となった作品でしてね、この後ぼくはね、ドストエフスキーの後継者たることを自覚し、キリスト教的実存文学の研究にも力を入れるようになったのですよ」

その名作のタイトルは、「罪と罰則」でした。小首を二度ほどかしげて、「それで、このご本、どこで売っているの」と尋ねますと、急に難しい顔になりまして、「芸術家は、理解されないからこそ芸術家なんです」などと、小声でぼそぼそと訳の分からないことを言って澄ましています。

やがて、取り留めのない言葉は、互いの淡い想いのうちに、いつのまにか絶えて、がらんとした部屋の中には、ただ風のささやきだけが、かさこそ、かさこそとうずくまっていました。窓から差し込む秋の陽が、荷の紐を繰る死に神さんの手を、優しく温めています。

そのごつごつとした、たくましい手を見つめているうちに、温かな感情の堰は他愛もなく切れて、かすかに震える私の唇から、言葉が、ぎこちなく洩れて行きました。

「あの、いつかは本当にごめんなさい。わたし、頂いたお手紙を落としてしまって。早く謝りたかったのだけど、あなた、おいでにならないから」

死に神さんは、急に口元の笑みを消し、二重目を窓の外に転じると、長いまつげをかすかに伏せ言いました。

「僕はあなたのうちに何かを求めている。それが愛情なのかどうか、自分でも分からない。僕はあなたを愛しているのだろう。いや、愛していないのかもしれない。恋愛感情の向こうにある、何か尊いものを、僕はあなたに感じているようだ。それが何かは、いまの僕には分からない。でも、それこそが、僕が人生で探しているもののような気がする」

 

次の日から、死に神さんは、さっそくはりきって働き出しました。予想していたとおり、釣りの知識は皆無で、一般的な矢竹竿さえ知らず、まして浮きやおもりなど、仕掛けのセットはまったくできません。

それでも義父や夫に教わったことをいちいちメモにとり、一生懸命覚えようと努めていました。仕事に対するその一途さは、かつて失業して苦労したためのようでした。食べられなくなることへの恐怖心が、いても立ってもいられないほどに、死に神さんを肉体の酷使へと向かわせるのでした。

一方、相棒の悪魔君の方は、ご主人様が仕事の間、店の前の柿の木に繋がれ、うちのむく犬とじゃれ合ったり、蝶々やこおろぎと遊んだり、秋の木漏れ日の中でのんびりと日向ぼっこをしたり、すぐに新しい環境に慣れて行きました。物怖じをしない性格らしく、お客さんを見れば、お腹を出してごろごろと甘えます。

この辺は野良猫が多くて、餌付けをする猫好きの方が大勢いらっしゃるせいでしょうか、店先で遊んでいる悪魔君はたちまち有名になり、中にはわざわざ写真を撮りに来る方までいらっしゃいました。

女性客がにわかに増え、食堂であんみつなどを嘗める姿が目につくようになったのも、やんちゃで、ちょっと悪な、悪魔君の功績と言えるでしょう。

「まさに招き猫だね。ご主人様の倍は働くね」などと、義父も夫も人の悪いことを言いいながら、なかなかご満悦の様子です。

死に神さんの方はと言えば、にわかに人気者の主になったことが嬉しくて、「この猫はですね、アメリカン・カールという珍しい種類でしてね、そんじょそこらの猫じゃないんですよ。見てください、この外側にくるりとカールした耳を。可愛いもんでしょう。

それに毛並みがまた普通じゃない。銀ねず色の美しい光沢と、毛氈もかくやという、そのやわらかな手触り、ぜひぜひ撫でてごらんなさい。まるでビロードのようですよ」などとお客さんを相手に自慢話に花を咲かせます。けれども、「わー、いたいー、こら、放せ、このやろうー」という死に神さんのあられもない絶叫で終わるのが常でした。

 

実は、この猫、ひどい噛み癖がありまして、退屈して遊んでほしくなると、思いっきり人に牙を立てるのです。私も何度か噛まれました。それはそれは痛いものです。

そういうことのあった晩は、店の二階から、死に神さんの怒鳴り声と、猫の激しいうなり声が風に乗って聞こえてきます。二人のけんかは、いつも夜遅くまで続きました。

2009年6月21日公開

作品集『死に神の恋』第1話 (全5話)

© 2009 サムライ

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