タクシー乗りという人々
タクシー・ドライバーというと、世間一般の印象として、生き様のラフさがまず思い起こされるのではないだろうか。昼間から公園の横に車を停めて窓から足を出して寝ている姿を見ると、なんと気楽な生き様かと思われるかも知れない。24時間活動する身になれば、ドライバー達がつかの間にまどろむのも安全上やむを得ないのだが、見る人の目には余り美しくは映らない。
だが、一度この世界に飛び込むと、タクシー乗りという人々がいかに真剣に仕事に従事しているか、その点に驚かされる。われわれの給料はすべて出来高制である。さぼっている者は、今日、明日の糧が得られないのである。サラリーマンのように会社を抜け出して昼間からサウナに入り浸っている暇はない。
では、決して所得の高くないこの仕事に、なぜタクシー乗りたちは入ったのだろうか。それは食い詰めてしまったからである。ドライバーたちの前身は様々だ。私のような脱サラ失敗組もいれば、死体処理に飽き飽きした元葬儀屋、コンビニをつぶした元オーナー、規制緩和で倒産した元運輸会社の社長などもいる。
とある元社長と自称する人物は、バブル期には六本木で毎晩飲み明かし、タクシーでご帰還していたが、有為転変、いまは同じ六本木で客を探し回る毎日を送っている。むろん、私も似たようなものである。ときおり飲みにやって来た防衛庁前で、客を鵜の目鷹の目で探し回る日々が訪れようとは、サラリーマン時代には思いもよらなかった。
それゆえ、タクシー・ドライバーはすべて運命論者である。自分ではどうにもならない力がこの世に働いていることを、彼らは知っている。長い車列の最後部につけて、一時間の客待ちの果て何が訪れるか、それは一万円の仕事かも知れないし、710円の仕事かも知れない。ドライバーたちに拒否権はない。なぜならば、それが己の運命だからである。
さらに付け加えるならば、タクシー・ドライバーは己の運命を楽しむ人間である。ドライバーたちの表情は常に明るい。会社をつぶしてこの世界に飛び込んだ元社長の表情がなぜ明るいのか、人は奇異に感じるかも知れない。しかし、不可抗力なのが運命である。それを思う存分楽しむのも、この不可思議な人生というものの醍醐味なのである。
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