見知らぬ明日
月曜日、午後11時 荻窪駅周辺
タクシー乗りには一時間後、いや、一分先の自分の運命が分からない。まして20時間以上も車を走らせていると予想もしないアクシデントに巻き込まれることがある。
給料日前の月曜日、人出が多いわけもなく夕方から暇。午後7時、空車状況を知らせるハンディの画面は各地区とも△もしくは□。△はまずまず客がいることを、□は客が少ないことを、○は客が多いことをそれぞれドライバーに教えてくれる。最寄り駅から自宅へ帰る客足を追って、わたしは中央線沿線へと車を飛ばした。
荻窪駅周辺で何件かの仕事をこなし、脇道から青梅街道に出たときのことであった。横断歩道手前で一時停止すると、右から初老の男がひどくゆっくりと自転車に乗ってやってくるのに気付いた。一瞬私と目が合うと、男はいよいよ自転車のスピードを緩めた。先に行かせてくれるつもりだろうか。私は車を少し前に進めた。トランクのあたりが横断歩道にかかっているが、自転車の通過するスペースは十分にある。
すると、自転車に乗ったその男がごま塩の髭面に満面の笑みを浮かべてまっすぐに近づいてきた。屈託のない笑顔を目にして私はふと知り合いかと思い男を凝視した。
ごつん、自転車を軽く車体にぶつけ、男が激しく窓ガラスを叩く。「おまえよう、いま目があったろうが、何で道を塞ぐんだ。ちょっと出てこい」酔っているようだ。稼ぎ時に酔っぱらいを相手にしている暇はない。
取り合わずに車を出そうとすると、男は前に立ちはだかり、なおも出て来い、出て来い、の一点張り。挙げ句の果てに自転車を車の前に倒して逃げ道を塞ぐ。そして「会社に電話してやる、タクシー・センターと陸運局に言いつけてやる」と息巻く。
タクシーに絡む酔っぱらいは多いが、これはひどすぎる。当方も江戸っ子で気が短い。窓を少し開け「あんた車に自転車をぶつけたな、器物破損と威力業務妨害で警察に突き出してやる」とやり返した。
「なんだと、ちょっとおまえ出て来いよ」
「気安く人をおまえ呼ばわりするな」
私の言葉に刺激されたのか、なおも男が窓ガラスを叩き続ける。これでは仕事にならない。この質の悪い酔っぱらいを排除すべく私は携帯で110番通報した。
私が本当に警察へ電話するのを目にすると、男はまずいと思ったのか、「いいな、必ずタクシー・センターに報告してやるからな」と言い残しその場を立ち去ろうとした。「待っていろ、いま警察が来るからな」と私はその背中に言い返した。
「なんだと」男が引き返し、今度はドアを開けようとする、運悪くドアはロックされていなかった。「何しやがるんだ」半開きにになったドアを私は勢いよく閉めた。「ぎゃあ」ドアに手を挟み男がだらしのない悲鳴を上げる。
けがをしているとまずい。私は車外に出て、うずくまっている男の傷の具合を見た。骨に異常はないようだが血が止まらない。そこでポケットからメンソレータムを出し、傷口に塗ろうとすると男は激しく拒絶した。「訴えてやる、絶対訴えてやる」
その時、三人の警官が自転車を漕ぎながらようやく到着した。二人からあらましを聞くと、警官たちはまず救急車を呼び、私に警察署まで同行するように言い渡した。
警察の陰気くさい取調室に入ると人の良さそうな若い刑事が怪我をさせた経緯を重点的に尋ねた。微笑を浮かべたその白い面立ちを見つめて私は怪訝そうに言った。「私の方が被害者なんです。何で取り調べを受けるのですか」
「相手が怪我をした以上、過失致傷罪に問われるんですよ」
私は絶句した。地道に働いていただけなのに、ひとりの酔っぱらいに出会ったために犯罪者になるとは。この世は先のことは分からない。ましてタクシー乗りは明日をも知れぬ仕事、夜、家で平和な生活を噛みしめていても、朝には事故の当事者として牢屋の中かも知れないのだ。
一時間後、体格の良い婦警が取調室の戸口に現れ、刑事に何やら耳打ちをした。笑みを深くし刑事が振り向く。「良かったですね、先方が自分が悪かったと言っていますよ。示談しちゃいなさい。あなたを書類送検するのは気が重い」
やがて、右手に包帯を巻いた男に引き合わされた。男は笑いながら左手の方を差し出した。「やあ、私も大人げなかった、申し訳ない」有名なメディアのカメラマンだという男の手はひどくがさついていた。
家に帰り着くと、愛猫のカールが飛びついてきた。「きょうは稼げなかったよ、カール。それどころか治療費まで払わされる。おまえのえさ代をどうしよう」私は途方に暮れながら、猫の小さな頭をいつまでも撫でていた。
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