鳴門大橋を望む紀伊水道、その北東に浮かぶ淡路島南部に位置する阿万塩屋町。福良湾を望む岬の上に、太平洋戦争における学徒動員の犠牲者を哀悼する目的で《若人の広場公園》は建てられた。天空に突き出た通称〝ペン〟と呼ばれる三角形の全長二十五メートルにも及ぶ巨大な慰霊碑。設計はあの世界のタンゲ、日本を代表するモダニズム建築界の巨匠・丹下健三。その堂々たる景観とは裏腹に、この建築物は、日本はおろか、地元民からもほぼ忘れられた存在になっていた。一九六七年、昭和四十二年に竣工。当初、観光目的として宿泊施設なども併設されていたものの、観光客の減少と阪神淡路大震災による損壊の被害を受けて一九九四年に一旦閉鎖された。二〇〇四年に《戦没学徒記念館》に寄贈されていた遺品などが《立命館大学国際平和ミュージアム》に移されてから、ますますうらびれてしまい、廃墟マニアに認知されるほどに不気味な巨大建造物と化した。二〇一三年、南あわじ市が土地を購入し、再整備されて再開園を果たしている。という大まかな流れは、この公園の表立った歴史、いわば〝正史〟としてウィキペディアでも窺い知ることができる。さらに言えば、この公園の発注者である「財団法人動員学徒援護会」は、当時の内閣総理大臣であった、あの岸信介が募金委員会委員長を務めるなど、極めて政治的背景の強い団体だった。そうとは知らずに設計を請け負った丹下は竣工前にその事実を知り、完成式典にも出席せずに事務所の名前も出さない方針に決めた。その経緯が当時の丹下ファンにも忘れられる建築物になった大きな要因だ。そのことだって少しネットで調べれば分かる話である。それは、初めにこの公園広場に縁のない人間が知ることができる情報だ。祖父はその公園に一度だけ、彼が亡くなる前に幼かったわたしを連れて行ってくれた。わたしにとって、あの公園広場は祖父との思い出の場所だ。もうすでにわたしの祖父は亡くなっているし、わたしと祖父があの場所に行けたのも、ただの一度きりだけだ。それでも、あの巨大建造物が学徒動員で散ったその名も知らぬ若者たちの存在から、「昭和の妖怪」と呼ばれた時の首相に至るまでの有名無名の人々の歴史を内包していることは動かし難い、その堅硬な存在感が示している。祖父は徳島出身の人間だった。戦前は学徒動員として港の工場で戦闘機製造の仕事に従事したらしい。戦時には、淡路島と四国を結ぶ由良要塞に鳴門要塞も組み込まれた。要塞に向かう学徒を乗せた船が米軍の戦闘機に掃討されて多くが亡くなった。幸い、祖父はその船に乗っていなかった。そのことは彼が亡くなった時に伯母から葬式で聞いた話であって、祖父はわたしの前では戦争の話をいっさい口にしなかった。阪神大震災の起こる前年、わたしが小学四年生のときに、祖父は脳腫瘍で亡くなった。死ぬ直前はもう誰が誰であるのか分かっていたのかどうか、言葉を話すこともままならない状態だった。震災が起こった時、わたしたちの家は無事だったが、新聞か何かで《若人の広場公園》閉鎖のことを知って、祖父の話を思い出したと記憶している。戦後、大阪で大手自動車メーカーの工員として働いていた祖父の右手の指は三本しかなかった。戦争ではなくて自動車工場で失くしたらしい。それも確かではない。祖父は第一関節を失った小指と、ほぼ根元しか残っていない人差し指以外の三本の指をとても上手に使って煙草を吸った。左手でハイライト、ソフトのパッケージを掴んでぽんぽんと箱の底をテーブルの上で叩きながら四角く切り取った、取り出し口から一本を抜き出し、口で咥えてから右手の親指でライターを着火して煙草の先に火を点けた。その一連の動作は極めて正確でなめらかだった。口をすぼめて目を細める祖父の顔は今でも覚えている。あんねん、おめー、剣山って知っとるかい? 知らんね。なんや、剣山も知らんで小学生になれるんかい。剣山はな、じいちゃんの故郷にあるむっちゃ高い山や。むっちゃ? せや。むちゃくちゃ高いで。徳島一や。紫煙を吐き出して、藍色の蔓模様が描かれた四角い陶器の灰皿の上に、右手の中指の先でとんとんと灰を落として祖父は頷いた。ふーん。淡路島にでかい公園のあるやろ、あそこに登っても見えるくらい高いんや。ウソや! 嘘やないわ! ほんなら、今度確かめに行こか。じいちゃんの話が本当やって分かるで。祖父は煙草を再び口元に持っていってにやにや笑った。よく晴れた日に、祖父は《若人の広場公園》にわたしを連れていった。確か季節は春だったと思う。駐車場は広々としたスペースで、晴れていれば空に手が届きそうな解放感がある。そこから坂道を歩くと黄土色や赤茶色の石垣が積みあがった箱型の《平和資料館・戦没学徒記念館》がぬっと姿を現す。まるで某漫画の壁の妖怪みたいだ。当時、わたしは祖父の左手に連れられてそう思った。いま改めて見ると、あれは灰色のキャラクターだし形も全然違う。子どもの感性というやつだろうか。中に入るとアーチ型の梁を丸い石柱が支えている荘厳な雰囲気に息をのむ。ガラスケースの中に年季の入った日の丸の旗や、煤けたメダル、履き古したブーツ、ブリキの水筒、弁当箱など学徒たちの遺品が収められていた。祖父は資料館で口を開かなかったので、幼いながらしゃべることが憚られた。あの時、祖父は一体なにを考えていたのだろうか。外に出ると広々とした遊歩道があり、わたしは走り出した。こけるでえ~。祖父は背中から呑気な声を出した。福良湾の方にあのペン、記念塔が見える。塔の袂にはコンクリートでできた台の前面に「若者よ天と地をつなぐ灯たれ」と彫られた石板があり、その上に《永遠の灯》と呼ばれるガス灯が取り付けられている。その火を守るように聳える三角の壁は横線が刻まれていて、扇形に中がくり貫かれている。裏に回ると外郭には横線に加えて、縦にも線が刻まれていてタイルのように見えた。高いなあ。眼下に福良湾を一望しながら、祖父が感慨深い表情を見せていた。日はまだ高く海面は深い藍色で、その上を鴉が飛んでいるのが見えて、わたしは飛び跳ねた。その反対方向である資料館の屋上に出ると、鳴門海峡を一望できる。すぐ下の海辺には生け簀が並ぶ、《海釣り公園メガフロート》が見える。祖父と行った時とは、また様々な状況の変化があるが、この場所から一望する景色は大して変わっていない。そこにもう祖父がいないという事実が、わたしにとっては一番大きな変化である。ええか、ここから真っ直ぐ見てみいや。祖父は左手をわたしの頭の上に置いて、右手の三本の指をその先に伸ばした。鳴門海峡の上に横たわる大鳴門橋の先に山麓がでこぼこと連なっていた。あのいっちゃん高いのが剣山や。祖父はまるで自分のもののように自慢げな声で言った。どれ? 見えへんわ。当時のわたしにとって、それはただの山の連なりであり、剣山と呼ばれる標高一九九五メートルを誇る徳島最高峰の自然による建造物を見出す分別はなかった。なんでや! 見えとるやんか! 祖父はちょっと憤慨して呆れたように笑った。まあ、ええわ。祖父は溜息ついでに煙草に火を点けた。そしたらな、ええこと教えたるわ。しばらく眺望に視線を向けつつ一服した祖父は段差に腰かけて言った。あの山には、じいちゃんの指が埋まっているねん。え? なんで? 世界を救うためや。祖父は得意げな顔で言った。ふーん。信じてへんやろ? まあ、ええわ。よう見ときや。祖父はそう言って、右手を剣山の方に伸ばした。片目をつぶりながら根元から亡くなった人差し指の先に剣山、小指の第一関節の上に鳴門大橋の白い主塔の先端をピタリと重ねた。見てみい、ぴったりや。そうかあ? 今思い返しても無理があった気がして、わたしは一人で笑った。なんでやねん、むっちゃ重なっとるやんけ! 祖父はわたしの頭頂部を右手のひらでガシガシやって、髪が逆立ったわたしを見ながら笑った。
銀色の無機質な棺が、その奥で口を開ける暗闇の中に吸い込まれた。祖母は祖父が亡くなってからも一人で暮らしていた。祖母は右足が悪く、両親は彼女を迎えることも提案したみたいだが、彼女は祖父と暮らした家で生涯を終えることを決意していたのかもしれない。仏壇の前で右手に数珠を握り、左ひざを曲げて悪い方の右足を投げ出すようにして、畳の上に座りながら左手に持った小さな紙片に墨字で書かれた念仏を唱えている彼女の背中は、子どもながらに近づき難い何かを放っていた。祖母が祖父に出会ったのは、お見合いの席だったと聞いた。
――右足はどうされたのですか?
彼は二人きりになると、私の前を歩きながら振り向かずに言った。鹿威しのカコンという音が響いた。飛石の上に視線を落とし、また断られるのか、と折り曲がらない右膝を隠す紫色のサテン地でできたプリーツスカートの膝上あたりをきゅっと握りしめた。
――いや、自分もこうですから。
顔を上げると、彼は人差し指と小指の欠損した右手を顔の辺りに掲げて振り返った。
――どうして……
――自分は鳴門の軍事工場に配属されていました。この怪我はその時のものです。小指はプレス機で潰して、人差し指はカッターに巻き込まれました。終戦の年、八月二日でした。自分の所属していた工場は鳴門要塞の工事を命ぜられていました。同胞の乗った住吉丸を、撫養港に残った自分は包帯を巻いた右手を振って見送りました。陽の光を受けて輝く海面が眩しくて、船は光の上を飛んでいるみたいでした。彼らが戻ってくることはありませんでした。住吉丸は阿那賀へと向かった先で敵軍艦載機の掃討を受けて、八十二名が亡くなりました。本来なら自分があの船に乗り込む予定でした。皮肉にも、この怪我で自分は生き残りました。この醜い右手は自分の罪の意識を具現化したように見えてならんのです。毎夜毎夜、語りかけてくるんです。
彼の声は震えていた。
――ほんなら、うちを嫁にもらって下さい。
――え?
灰色のジャケットの右袖で目元を拭って、彼は驚いた顔をこちらに向けた。
――今まで十三人に断られました。誰も理由は教えてくれませんでしたが、この右足のせいだって分かってるんです。この足は生まれつき不自由でした。おかけで招集されることもなく、うちも生き残りました。それでも、ずっと後ろ指をさされながら肩身の狭い思いをしてきたんです。あなたが少しでも罪悪感を感じてるのでしたら、今うちを救ってください!
頭を下げる私を見て、参ったなあ、と言いながら彼は笑った。
祖父の遺体が焼却された後、わたしは真っ先に右手の骨に視線をやった。仙骨や腸骨など大きな骨の隣に残った骨からは右腕のあたりは認識できたが、指の形状はもう跡形もないくらいに粉々になっていた。
「骨なったら、指のどうのこうのわかったもんやないなあ」
祖母はそう言って、わたしを見ながら微笑んだ。喪主である彼女は右足の大きな骨を箸でつまんで、祖父の弟にあたる老人の箸に渡して真っ白な骨壺に収めた。母はハンカチで目元を抑えながら、箸で胸骨あたりの骨をつまんで、それを父が骨壺に入れた。わたしは頑なに骨上げを拒否した。困った表情の父がわたしの両肩に手を置いて外に連れ出した。どないしたん? 父は斎場の駐車場で煙突から上がる白い煙を見上げながら言った。わたしは俯いたまま黒い皮靴の先端のてかりを見つめた。おじいちゃんはな、お空の向こうに行ったけど、いつでも八葉(やは)恵(え)のこと見守ってくれてるで。父はそう言って、わたしの頭に五本の指がちゃんとある右手を置いた。じいちゃんの右手の指な、剣山に埋まっとるんやと。ん? 剣山? 徳島にある山。ああ、剣山な……指、ああ、お義父さんの指は……まあそやな。剣山にはな、アークが埋まってるんやと。アーク? 聖櫃、ノアの箱舟、三種の神器。なんや大そうなもんや。世界ってな、大洪水で一回終わってんねん。そん時に、神様は選ばれし者だけに箱舟を造らせたんやて。その子孫がいまの人類、うちらやねん。ほんでな、洪水に流されてヨーロッパからあの剣山まで箱舟は辿り着いたんや。あの山頂あたりには、その箱舟が埋まってるんやと。今でも? 今でも。父は頷いた。じいちゃんの指はアークなん? せや。じいちゃんの指は世界を救ったんや。父の話は、都市伝説として割と有名なものだったと後で知った。ほな、帰ろか。祖父は煙草の火を靴先で踏み消しながら言った。日が傾いて、青かった空は紫色に変わり始め、山の稜線が橙色に滲んでいた。左手を差し出した祖父に、わたしは右手の方に走り寄って握った。祖父の右小指と人差し指の肉感はその見た目にそぐわないほどになめらかだった。あの時の感触は、今でもわたしの左手のひらに残っている。世界を救うために失われた祖父の右中指と小指は、あの徳島の地に埋まったまま時空を越えて世界を見守っている。
「お母さーん、帰ろう!」
息子の声に振り向く。またいつでも来いや。祖父の声が聞こえた気がして遠く剣山の聳える紀伊水道の向こう側に視線をやると、その下で陽を受けた海面には一筋の光が航路のように伸びていた。
「あ! 虹い」
徳島の方では雨が降ったのだろうか。息子の小さな右手の人差し指の先、あの剣山の上空に大きな虹が架かっていた。
"指の箱舟"へのコメント 0件