地低奏音

月に鳴く(第16話)

松尾模糊

小説

7,159文字

地底と地上で階級の違う人々が暮らしていた。地底人であることを偽って地上で成功した音楽プロデューサーの男は、地底で新しい音楽を奏でる若者たちを発見する。

照明もなく薄暗い石灰岩の岩肌に映る陰影からカメラがパンして、上半身裸で痩せた髪の長い男が手にした小石で岩壁に文字を刻んでいる後ろ姿を映す。その両隣には、丸い筒のような革張りの打楽器を叩く、やはり上半身裸の少し肥えた男と、白っぽい角笛を吹き鳴らす背の高い筋肉質な男が映っている。極めて原初的なアンサンブルにも関わらず、映像から聞こえる音楽は驚くほど斬新な響きだった。洞窟内の反響効果によるところもあったが、それ以上に独特なリズム感覚から来るものが大きかった。一分ほど演奏が続いた後、壁に詩を記し終えた長髪の男はカメラの方へ振り返り、詩の朗読を始めた。いや、朗読というよりは詠唱と言っていいのだろうか、韻を踏みつつこぶしも効かせる、歌唱ともラップとも違う何かだ。そこへヒジャブを被り、全身を麻布で覆った身体の線から女性らしき三人が現れ、足を踏み鳴らしながら踊り始めた。すべての音が合わさった、そのグルーヴは、腹の内側を震わせて鳥肌が立つ衝撃となった。
「な、すげえだろ?」携帯端末の画面をタッチして動画を止めたマークは同意を求めるように息を弾ませた。これが地底人の間でいま流行っている音楽なのか?
「地底人だけじゃない、地上の若い奴らだって夢中になってる! この動画は億再生だし、すでに音源をサンプリングしてボーカロイドに歌わせている奴らもいる。ムーヴメントがアンダーグラウンドから起こるのはいつの時代だって同じだろ?」マークが興奮して近づいてきたので、両肩を抑えて落ち着かせた。いや、ムーヴメントは勝手には起きない。創り出すものだ。時代をつくるのはブレーンの仕事なんだよ。すぐに地下でパーティーをオーガナイズしよう。

岩壁に打ちつける波の音が耳に届く。海岸から見える地平線と空は、溶け合うように青く穏やかで澄み渡っている。その穏やかな印象とは裏腹に、わたしの動悸は激しく波打った。地下を離れてから二〇年以上経つが、海岸には近寄らないようにしていた。マークに全交渉を任せようと思っていたが、パートナーと共に彼は育児休暇を申請していた。わたしが元地底人であることは絶対にバレてはならない。不審がられない為にも自らここへ出向く必要があったとは言え、あの記憶は黒く深くこの地下へと続く地層のようにわたしの内に連なっていることを改めて感じた。生まれた時から辺りは暗闇だった。母の顔を知らずに育った。父は、母がわたしを産んですぐに死んだと言っていたし、わたしもそれを信じていた。地下での生活は苦しかった。父は地底人の多くがそうであるように、地上で重宝されるダークマターを結晶化する工場で作業員をしていた。父はそこでの稼ぎをほぼアルコールにつぎ込んでいる飲んだくれだった。わたしが物心ついた時には手を上げることも日常茶飯事になっていた。わたしにとって地下での唯一の楽しみは年に一回、地下で興行にやって来る地上音楽団の演奏だった。ヴァイオリンが二本に、チェロ、ヴィオラの弦楽四重奏が洞窟の反響と相まってわたしの耳にもたらしたシンフォニーは、その後どんな音響設定でも再現できない唯一無二のものだった。

巨大なガマガエルが口を開けたような半円状の洞穴からはひんやりとした空気が漂っている。デジタルグラスをジャケットの胸ポケットから取り出し、視界の光彩を調整する。気も遠くなるような長い年月をかけて削られた岩肌から滴る水が足元に落ちる。そうして再び長い年月をかけてこの岩も削られて新たな空洞が生まれる。しばらく進むと、およそ不自然な鉄の扉が行く手を阻む。地底人の脱走防止と管理にひと役買っている地底エレベーターだ。上からはボタン一つ、下からは電子ロックを解除するパスポートが必要になる。それは地上人の出生時、手の甲に埋め込まれている。わたしは疼く右手の甲をさすった。扉の右手に埋め込まれた赤いボタンを押すと、電子ロック解除を示す緑色の照明が扉の外枠に点灯しながら扉がゆっくりと開く。一段と冷たい空気が頬を撫でた。地下にも階層がある。居住スペースと歓楽街はB1ゾーン、地底界の移動手段となる地下鉄道が張り巡らされたB2ゾーン、そしてダークマターを結晶化する工業地帯であるB3ゾーンだ。地底の人々は毎朝決まった時間に地下鉄道に乗り、暗い工業地帯へと向かう。まるで蟻の行列だった。B1のボタンを押して扉が閉まると、腹が浮くような感覚があり一瞬でエレベーターはB1ゾーンに到着した。エレベーターを出ると、アーマードスーツに身を包んだ衛兵が二人立つゲートまで緩やかな斜面をくだる。

彼女に出逢ったのもこの場所だった。正確にはもうすでに面識があった。楽団のヴァイオリニストとして彼女は、もう一人の男性ヴァイオリニストとヴィオリスト、それからチェリストと一緒にヴァイオリンケースを片手にこのゲートから出入りしていた。彼女たちの来訪を待ちきれなかったわたしは、いつしかこの前で彼女たちが来ないか、毎日見張るようになっていた。
「いつも来てくれているよね?」三人を先に行かせ、広場の隅で所在なくウロウロしているわたしに彼女は声をかけてくれた。わたしは彼女の目を見れずに、小さく丸みを帯びた顎の下に目線を泳がせて頷いた。
「音楽は好き?」彼女はわたしの緊張を読み取ったのか、右手のひらを頭に優しく置いてわたしの目線まで屈んだ。赤茶色にウェーブしたセミロングの髪を後ろでまとめ上げた彼女の額は狭く、短めの薄い眉の下で二重の瞼から長いまつ毛が伸びるその瞳は、深みのある翡翠色で宝石のようだった。深く頷いたわたしを見て、彼女は目じりにしわを寄せて白い歯を見せた。足元に置いた黒いケースの留め金に、手首のゴムで巻き付けた小さな鍵を差し込んで開けると、赤いヴェルヴェットの裏地に包まれたヴァイオリンが現れた。蓋の裏側のホルダーから弓を右手に取った彼女は、四本の弦が張られたブリッジに左手を伸ばし、赤子を抱き上げるようにしてヴァイオリンを取り出す。いま思えば、ストラディバリウスをあれほど間近で見たのはあの時だけだった。ヴァイオリンをか細い首に押し付けて固定し、弓を弦の上にポンと乗せるようにしてクライスラーの「愛の喜び」を演奏し始めた。その明るく軽やかな旋律に、緊張がほぐれていくのを肌で感じた。彼女が最後の一音を鳴らし終わったときには夢中で両手を思いっきり叩いていた。彼女は弓を持った手をくるりと回してお辞儀で応えた。あの温かな瞬間こそが、地下の暗く光の届かない場所で生まれ育ったわたしの人生における転換点だった。
「ヴァイオリンが欲しい」家でビール瓶を傾けていた父の背中にそう言った。
「ダメだ。お前もう何歳だ? 十二にもなってクラシック始めてモノになる奴なんかいないんだ。そもそもそんな金があるわけねーだろ」
「誰のせいだと思ってるんだ?」心の声が漏れ出た瞬間に、父は赤い顔をこちらに向けて静かに震え始めた。
「あ? 誰に物言ってんだ、てめえ!」父は手に持ったビール瓶をわたしの頭頂部に叩きつけて割った。そのあとの記憶はない。気づいたら病院のベッドの上だった。病院とはいっても、塹壕の中に簡易ベッドが並べられた場所に病人よりも顔色の悪い年老いた医者一人とでっぷりと太った愛想もない女性看護師、ひょろひょろした背だけやたら高い死神のような男性看護師がいるだけだった。頭が割れるように痛かった(実際に割れて八針縫った)ので、頭に右手を当てると包帯がぐるぐると巻かれていた。
「気がついたかい?」頬骨の出た細長い顔を近づけ、ぎょろりとしたくまの目立つ両目を見開いて男性看護師がわたしの脈をはかる。わたしは死神が迎えに来たのかと思い、目を逸らす。
「軽い脳震盪だね」死神の後ろから、青ざめた顔をのぞかせて老医者が手元のバインダーに挟んだ紙にボールペンで書き込んでいる。
「お父さんは階段から落ちたと言ってたけど、こんな割れ方はしないよね」ボタンが飛びそうなほどにパツパツの薄ピンクの制服を着た女性看護師がどこから出ているのか、甘い匂いを嗅ぐわせ耳元で「虐待があるんじゃない?」と囁いた。わたしは首を振った。
「そう……」と疑り深い目を向けて看護師たちは立ち去った。
父は後ろめたさがあったのか、いや、見張るために来たのだろう。ボロボロのアコースティックギターを見舞いに持ってきた。
「ヴァイオリンもギターも同じような楽器だ。弦を張り替えりゃ全然使える」父は弦を交換して、ペグを回す。弦をつま弾いて音程を調整し、ビートルズの「ブラックバード」を演奏した。まだ地上にしか人類がいなかった頃のポップスだ。父に音楽の素養があったとは知らず、わたしはギターを弾く父の姿に見入った。父はギターをベッドの脇に立てかけて「もう退院できるだろ。さっさと帰ってこい」とだけ背中を向けて言った。それが父を見た最後だ。私が住んでいた地区でその日、大規模な崩落事故が起こった。父は家ごと潰れ、いまは地下のどこかで骨になっているだろう。結果的に、わたしは父の暴力によって命を救われたわけだが帰る場所は失った。父の生命保険で思わぬ大金を得たわたしは、地上に出ることを真剣に考え始めた。

広場の中央にはかつて地底人を率いて地上へのゲリラ戦を行った英雄、タラベサの銅像が立っている。彼らの活躍で地底と地上は一時、その地位を逆転するほどになった。地底のカルチャーや技術が地上人の憧れとなり、地底都市が栄えた。わたしの父すら生まれていない遠い昔話だ。いまだに彼らは過去の栄光を引きずっている。広場を抜けると、大きな駅があり、ここから人々はダークマター工場へと向かう。父の死後、わたしはさらなる金銭を貯蓄するために、工場の雑用係として下宿に住み込み働き始めた。結晶化した黒光りする丸い飴玉のようなダークマターを地上へ送るエレベーターまで箱詰めして運ぶのが主な仕事だった。大きさ別に用途が変わるので、その峻別と宛先の確認をミスるとひどく叱られた。それでも父のように手を出す大人はいなかった。

2023年5月4日公開

作品集『月に鳴く』最終話 (全16話)

月に鳴く

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© 2023 松尾模糊

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