まだ何も手をつけていないまっさらなカンバスと対峙して、親指ほどのながさにけずったえんぴつを手にとると、かならずあることばがおもいうかぶ。
――けっきょく真っ白いままがいちばんうつくしいんだ。
もう二〇年も昔になるだろうか。私がまだ十代で、美大の予備校にかよっていたころに友人からよくそう言われた。
私は、手をとめて、ため息をつく。なるほど、真っ白な紙はうつくしい。これ以上のうつくしさに、私はこの二〇年間、出会ったことのない気がする。おそらく友人は、このことばの意味を根本から理解していなかったのだろう。でないと、あんなにむじゃきに絵筆なんてあつかえない。うつくしさに憑かれた私は、描きはじめるまえから、どうあがこうとも超えることのできない完成系をまのあたりにし、にっちもさっちもいかなくなる。とうじも今も、それは変わらない。
「まだ描けないのね」
はいごから奈緒子の声がした。私は振り向かず、ことばを返すこともない。カンバスは、東の窓から射す無慈悲な日光に照らされて、私の胸の奥でか細くたゆたっていたはずのうつくしい女の面影をきれいにけしとった。きょうはもう何も描けない。
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