呑まない夜

かきすて(第21話)

吉田柚葉

小説

1,848文字

今日からカフェイン断ちをしようと思います。

すみれがねついてからも夜はながい。

ココアを淹れて書斎で文庫本をひらいた。『ヘミングウェイ全短篇』のさいごの巻である。どの短篇のどの頁を読んでも、兵士たちが戦地でさまざまのぐちをこぼしているばかりで、筋らしい筋はみえない。むかしからこの手の小説はにがてだった。そもそも活字がにがてだった。

二時間ほどかけて百五十頁ほど読み、しおりをはさんだ。時計は二十二時をすこしすぎたところで、とうぜん、ねむけはまだこない。

目をつむって私は、首都高速をくるまでとばす妄想にふけった。車内にはふるい音楽が鳴っていて、助手席には登紀子がすわっている。じっさいにそうしないのは、すみれがいるからであり、登紀子がいないからである。

目をあけてテーブルにおかれたじぶんの右手に視線をおとすと、それがこきざみにふるえてみえた。焦点があうと、みまちがいであるとわかった。

こういうみまちがいは、心臓にわるい。また禁断症状がでたのかとおもうと、人生最悪のときにひきもどされる心地がして、いまある生活も過去のじぶんにのみこまれてしまうのではないかとひたすらにこわくなる。

雨音がした。風が窓をたたいた。やがて、どこかに雷がおちた。

部屋のドアがひらいた。

「パパ」

すみれだった。

「すみれ……、おきちゃったか」

私はすみれをだきかかえた。

「ご本よんでたの」

「そうだよ」

「すみれによんで」

「すみれにはむずかしいよ」

「むずかしくてもよんで。それママのご本でしょ、すみれによんで」

こうなると、よむまでだまらない。私は『蝶々と戦車』という短篇をえらんでよみきかせた。

小説の舞台は内乱中のスペインだ。主人公の男はホテルにいくために雨のふる帰路を往くのだがやがて雨に嫌気がさし、あまやどりがてらある酒場にはいる(「酒場」と口に出して、ドキリとした)。

酒場で水でっぽうを撃ってあそんでいた男が実弾で撃ちころされるところをよむ私の声に、すみれのねいきがかさなった。

「なかなかおもしろい展開なのだけれど」

すみれを寝室にはこんでベッドにねかせた。そのとなりで私もよこになった。くらやみのなか、雨音はやまなかった。

こんなじかんにねむれるわけもなく、私の意識はまたも妄想へとでむいた。

内乱中のスペインは甘美であった。つかれた町に雨がふるのは、いかにもいろっぽく、首都高速をくるまではしるのとは別種のおもむきがある。

やがて酒場の看板がみえた。「drefters bar」という店名だ。十年まえ、登紀子と私がであった店である。

その扉をあければ、登紀子がいるにちがいなかった。だが、そこで酒を一滴でも口にすると、すべてがおわる。登紀子のいるまえで酒を呑むなどぜったいにありえない。そうおもいながらも、酒と言えばすぐに酒が出るばしょでどこまでじぶんをたもつことができるものか、はなはだ不安だった。

私は扉をひらいた。カウンターには登紀子がすわっている。私はかのじょのとなりにすわった。

「あら、ひさしぶりね」

と登紀子が言った。ひどく動悸がした。私はマスターにオレンジジュースを注文した。かれは何も言わずにオレンジジュースをだした。

「呑まないのね」

「呑まないよ」

つめたい汗がせなかをつたった。

「どう、すみれは。おりこうにしてる」

「してるよ」

と言って私はストローのふくろをあけた。手がふるえてなかなかうまくいかなかったが、どうにかなかみをとりだし、グラスにさした。

「きみがこんなところにいるなんてな」

「わたしはいつでもここにいる。あなたがいつでもここからはじめられるように」

私は席をたった。それからトイレにむかった。

鏡のまえにたち、かおをあらった。見ると、ふるえていた手がおさまった。

ちょうど、さきに用を足しにきた男が小便をおえたらしく、私のうしろにならんだ。私はその男に、

「きみ、水でっぽう、もってるだろ」

と声をかけた。

「ああ、もってるよ」

と男はこたえた。

「わるいんだけどさ、おれのとなりの席にすわって、おれを監視してくれないか」

「監視か」

男はニヤリとわらった。

「そう。で、おれが酒を注文したら、その水でっぽうでおれの頭を撃ってくれないか。金ははずむ。」

「いいよ」

と男は言った。

「じゃあ、たのんだぞ」

と言って私はトイレをでた。

はたしてカウンターにはすでに登紀子のすがたはなかった。……

私はすみれを起こさぬよう慎重にからだをおこし、部屋をでた。それから一階におりて、冷蔵庫のドアをひらいた。ボトルの水がある。私はキャップをあけてあびるようにのんだ。

この夜をこえれば、酒を断って一年になる。

2021年2月7日公開

作品集『かきすて』第21話 (全40話)

© 2021 吉田柚葉

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