まわりを四千メートル強の崖がかこみ、そとのせかいをしらぬその町はえんとつだらけ、これといったなまえをもたず、いつだれがそう呼びはじめたか……、えんとつ町と言えばまずここをさした。朝夕をとわずそこかしこからモクモクとけむりがたちのぼり、ひとのあたまにふる雨はすすに染められたにごった灰色、空はくろいけむりの領分と化してその青をうしない、そこに住むひとびとはいつしか見あげるということをしなくなった。しかるにだれも夜空にかがやく星の存在をしらなかった。
だが、だれもしらずともげんに「星」ということばは存在する。えんとつそうじをその商とし、このえんとつ町で母とふたりでくらす青年アーサーは、どこで聞きしったか、いつしか「星」ということばに憑りつかれ、食うにもこまるこの生活から脱却するすべとしてどうにかこれを利用できないものかとあたまをなやませたすえ、ものがたりをこしらえて売りだすことにきめた。そうしてかれは夜な夜な「星」を主題とした小説のようなものをほそぼそと書きつらね、一攫千金の夢をふくらませるのであった。
そんなおり、アーサーのすむ家……、いったいに家とは言っても、そこにひとがいて、尋常のいとなみがあるから家としているだけで、なにもしらぬひとの目にはさびれた灰色の倉庫としかうつらぬであろうしろものであったが、いちおうは郵便うけがあり、ある日の朝、アーサーがそのなかをのぞくと一箇の封筒がぶちこまれていた。アーサー宛になっている。差出人は、ミナミノアキヒロエンタメ研究所である。むろん、アーサーはその団体をしらなかった。家のなかにはいって封を切るとはたしてそれは演劇のチラシであった。『えんとつ町のブブル』というのがその題であるらしい。うらを見ると、あらすじがある。アーサーはそこにならぶ文字のなかから瞬時に「星」ということばをみつけた。すなわち、その劇は「星」にまつわるものがたりであった。とたん、かれのからだからへなへなと力がぬけた。アーサーはどうにか椅子にこしかけ、しばし呆然とした。
「アーサー、どうしたのさ」
背後から声がした。母である。アーサーは「なんでもないよ」と言った。
「なんでもないったって、どうしたってそんなふうには見えないよ。母ちゃんに言ってみなさい」
アーサーは母にチラシをわたした。しかつめらしい表情で母はそれをながめた。それから、
「なんだい、あんたこんなの見たいのかい」
と言った。「見たいけど、お金がなくて見れないということかい」
アーサーはかぶりをふった。「そこに『星』ということばがあるだろう。それがひどくショックだったんだよ」
母はふしぎな顔をした。アーサーが星に憑りつかれていることをしらなかったのである。が、アーサーはその説明を母にする気になれなかった。否、説明をしようと努力はするのだが、口からもれでることばは、ただ「星が……星が……」というぶつぎれのものばかりで、それとてうまく発語できぬのがほとんど、だいたいはおえつにかき消されるありさまであった。しかるに、母にできることと言えば、アーサーのあたまをいたずらになでまわし、おなじようにかなしい顔をつくってみせることだけであった。
つぎの日、アーサーはミナミノアキヒロエンタメ研究所宛に手紙をだした。『えんとつ町のブブル』が自作の盗作なのではないかという抗議の手紙であった。もとより返事など期待しておらず、手紙をおくったことで、いくぶんかはさっぱりとしたきもちになった。
なんにちかが経った。『えんとつ町のブブル』と手紙のことはつねに胸のなかにあったがいぜんのように「星」に憑りつかれるということはなく、むしろ「星」にまつわるものに限定して筆を走らせる必要がなくなったことによってアーサーのもつペンはより自由にものがたりをつむぎだした。そうして半年もの期間をかけて書きあげた小説には『約束の腕時計』とつけた。ちょうど休日だったこともあり、アーサーは意気揚々と出版社に原稿をもちこんだ。
アーサーを対応してくれたのは、わかい女性の編集者だった。頬にはにきびのあとがのこっていて、つり目の眼光するどく、アーサーをにらんだ。つよい香水のにおいがアーサーの鼻をうち、胃の腑におちた。
「おもしろいですね」
というのが『約束の腕時計』をよみおえてすぐにでた感想であった。
「では、出版を……」
「出版はできません」
と女はきっぱりとことわった。ことばと、香水のにおいにうたれ、アーサーはくらくらとめまいをおぼえた。
「なぜですか」
と問うので精いっぱいであった。
「あなた、ミナミノアキヒロさんのサロンメンバーでしょう」
どこかで聞いたなまえである。はたして……、とアーサーが記憶をたぐるうちに、女はことばをつづけた。「じつはわたしもミナミノさんのサロンメンバーなんですよ。だからしっているのですが、つぎのミナミノさんの新作のテーマがこの作品とまったくおなじものなのです」
「時計と、時間と……」
「そうです。ミナミノさんは、作品を公開するまえにサロンメンバーにあらすじをつたえますからね。タイトルは『ティックトック』」
ここにきて、アーサーのあたまにうかぶことばがあった。ミナミノアキヒロエンタメ研究所。アーサーのひたいにおおつぶの汗がふきだした。
アーサーはくいさがった。ことばのかぎりをつくしてじぶんの無実を主張したが、女はまったくとりあってはくれず、次回作ができたらまた見せてくれの一点ばり、しまいには、くだんの『ティックトック』のチケットを手わたされ、サロンへの勧誘をおこなわれるものだから、あべこべにアーサーの方から逃げだすかっこうとなった。
出版社をでると、灰色の雨が町をうっていた。傘をもたぬアーサーはそれをあたまからかぶり、おもむろに空を見あげると、
「燃えつきてしまった」
とつぶやいた。なにを思いついても、なにを書いても、ミナミノがついてまわる。星をみつけても、腕時計をにぎりしめても、すべてはあとのまつり、まったくの手おくれであり、空を見あげるといつだってミナミノがおれを見下ろしている。かれはサロンメンバーにかこまれ、まばゆいばかりのえがおである。そう言っても、アーサーはミナミノの顔をしらないから、かれのあたまにうかぶミナミノのえがおは、抽象化された男のえがおであった。アーサーは、チケットをにぎりしめた手をひらいた。それは初回公演のチケットであり、公演のまえにはミナミノのあいさつがあるという。いくしかない。そう思った。
はたして『ティックトック』の初回公演は一週間後のハロウィンの日であった。その間、アーサーは気もそぞろで、しごと中、なんどもえんとつから落ちかけた。そのたび、灰色の空を見あげ、見えない星をあおぐのだった。
公演のぜんじつ、しごとを終えて家にかえると、いつものこの時間であればとうにねむりについているはずの母がまだ起きていて、なにやらはりついたようなえがおでアーサーをむかえた。
「いつもおつかれさまだね、アーサー」
そう言って、母はアーサーに熱いスープを出した。アーサーはふしぎに思いつつも、テーブルについてその慣れしたしんだ味をあじわった。
「あしたは、アンタ、しごとやすみだね。……なんか予定でもあるかい」
「演劇をみにいくよ」
とアーサーはこたえた。すると、母は目をらんらんとかがやかせて、
「それはもしや『ティックトック』かい」
と言った。アーサーは是とこたえた。「じゃあ、いっしょにみにいこうよ。アタシ、何枚もチケットをもってるんだよ」
「何枚も、って、なんで母ちゃんが何枚もチケットもってるんだよ」
「アタシ、ミナミノさんのサロンメンバーなんだよ」
アーサーは心臓をわしづかみにされた心地がした。テーブルにスプーンをおいて、たちあがった。
「わるいけど、つかれてるんで、ねるよ」
どうにかそれだけ言った。母は息子のせなかにむけて「あした、時間になったら起こすよ」と言った。
すきま風がはいりこむじぶんの部屋でアーサーはボロ布に似たふとんにくるまり、寝つけない夜をすごした。なんども寝ようとしたが、よけいに目がさえ、それならいっそずっと起きていようと、ランプをつけて、簡素な机にむかった。そこには、『約束の腕時計』の原稿と、星にまつわる小説の未完成の原稿がかさねておかれている。アーサーは、星にまつわる小説をさいしょから読みかえした。
それは、星にまつわるものがたりであり、つまりは、希望のものがたりであった。あるいは夢のものがたりと言ってもよいが、いずれにしてもおとぎ話にはちがいなく、おとぎ話であれば売れるとふんでのことであった。
「ホシを見にいこう」
そんなセリフで、原稿はおわっている。もちろん、これでおわりではなく、アーサーはこれにつづく展開も用意していた。だが、例のチラシを目にしたことで、そのさきを書くことをやめたのだ。かわりにかれがものしたのは、ミナミノに宛てた抗議の手紙であった。
「げんじつが夢を侵食したのだ」
とアーサーはつぶやいた。それから、
「夢がげんじつを侵食しはじめてもいる」
と、ことばあそびに興じた。
アーサーは部屋のまどから空を見あげた。またたく星々は、やはり、ない。かれは安堵して、はりつめた糸が切れたようにふかいねむりについた。
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