空白の引力

かきすて(第25話)

吉田柚葉

小説

1,808文字

四年前くらいに書きました。こちらからは以上です。

まだ何も手をつけていないまっさらなカンバスをまえに、こんどというこんどは金になる絵を、と心にきめて親指ほどのながさにけずったえんぴつを手にとると、かならずあることばがおもいうかぶ。

――けっきょく真っ白いままがいちばんうつくしいんだ。絵画なんてもんはやぼでしかない。

もう二十年も昔になるだろうか。私がまだ十代で、絵の専門学校にかよっていたころ、絵本作家志望の友人が私の気をそぐためによくそう言った。

私は、手をとめて、ため息をつく。なるほど、真っ白な紙はうつくしい。「これ以上」のうつくしさに、私はこの二十年間、出会ったことのない気がする。おそらく友人は、このことばの意味を根本から理解していなかったのだろう。でないと、あんなにむじゃきに絵筆なんぞあつかえない。うつくしさに憑かれた私は、描きはじめるまえから、どうあがこうとも超えることのできない完成系をまのあたりにし、にっちもさっちもいかなくなる。とうじも今も、それは変わらない。

「まだ描けないのね」

はいごから奈緒子の声がした。私は振り向かず、ことばを返すこともない。カンバスは、東の窓から射す無慈悲な日光に照らされて、私の胸の奥でか細くたゆたっていたはずのうつくしい女の面影を、畢竟これから描くはずであった絵画のイメージを、きれいにけしとった。きょうはもう何も描けない。

「ご飯、ここに置いておくわね」

「いや、そのひつようはないよ」

私はカンバスをにらみながら言った。「いっしょに食べよう」

奈緒子はどこかのまちのくたびれた路地で定食屋をいとなんでいる。開業当初はアルバイトをやとい、それなりの収益を上げていたが、一年ほどまえ、店のちかくに大手の飲食店が出来てからというもの、さいきんではめっきり客足がへり、じっさいにはもう何か月も赤字がつづいている。いっそここいらで店を畳んでしまおうかと考えては、決断を一日おくりにおくりつづける毎日である。もとよりあたらしく金をこさえるひつようがないかのじょにとり、定食屋をつづけるのは道楽の部類に属する、おままごとの延長のようなものなのだ。というのもかのじょは、若くして死んだ夫の莫大な遺産でいくらでも生きていけるのである。きょうは定休日だというので、家にいる。

「どうして絵なんて描くの」

かのじょは毎日、寝るまえになると、きまってその質問を投げかけてくる。私はそのたびごとにちがうこたえを用意する。きのうは「女が化粧をするのと同じことだ」とこたえたし、きょうは「人間が引力の魔法からのがれられないように、私は、絵を生み出すことからのがれられないんだ」とこたえた。意味不明もいいところだが、奈緒子はそれでまんぞくらしく、それならしかたないわね、と笑った。そしてすこし沈黙がつづいたと思えば、もう寝息をたてているのだ。

私はかのじょの家を出て、街灯の街へと散歩に出た。描くということにつまると、私はどこへともなく出かけたくなる。それも夜中に。これは二十年まえからつづく、私の習慣だ。

二十年前――とうじ私はまだ童貞で、じっさいには女とまともに目もあわせることもできないくせに、デッサンの授業で、女の身体をすみからすみまでじっくり観察し、その肢体のあらゆる動きを紙の上にうつしとることが日課であったために、女のことなど何もかも知り尽くしたものと錯覚していた。そして、女のうつくしさが、真っ白の紙のうつくしさにならぶものと考えていた。それはまったく無邪気なことで、いまはもう、そうは思わない。

そうして、どこかの歩道でたたずんでいると、とたん、ぱっと横なぐりに光がさした。つづいて、轟音と共に、バスが目のまえに停車した。こちらからは、車体の横面しか見えなかったが、何らのイラストもデザインもほどこされていない、真っ白なバスであった。どこに向かうとも知れなかったが、前の扉が開いてしぜん、私はバスに乗りこんだ。

帽子をふかぶかとかった運転手が、「一律、二百四十円です」と言った。車内を見わたすと、一番奥の席に、女性の姿が見えた。髪が長く、うつむいていてその表情はさだかではなかったが、たしかにそこに女がいる、ということが、私を安心させた。

「どこまで行きますか」

問うと、運転手は、

「あの女性と、あなたが降りるところまでです」

とこたえた。

「それならどこでもかまわない」

私は、小銭を投げ入れ、一番まえの席に座った。うしろの女がかわいた咳をしたのが聞こえた。

2021年2月14日公開

作品集『かきすて』第25話 (全44話)

© 2021 吉田柚葉

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

---

"空白の引力"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る