まだ何も手をつけていないまっさらなカンバスをまえに、こんどというこんどは金になる絵を、と心にきめて親指ほどのながさにけずったえんぴつを手にとると、かならずあることばが思いおこされる。
――けっきょく真っ白いままがいちばんうつくしいんだ。絵画なんてもんはやぼでしかない。
もう二十年も昔になるだろうか。私がまだ十代で、絵の専門学校にかよっていたころ、絵本作家志望の友人が私の気をそぐためによくそう言った。
私は、手をとめて、ため息をつく。なるほど、真っ白な紙はうつくしい。「これ以上」のうつくしさに、私はこの二十年間、出会ったことのない気がする。おそらく友人は、このことばの意味を根本から理解していなかったのだろう。でないと、あんなに無邪気に絵筆なんぞあつかえない。うつくしさに憑かれた私は、描きはじめるまえから、どうあがこうとも超えることのできない完成系を目の当たりにし、にっちもさっちもいかなくなる。とうじも今も、それは変わらない。
「まだ描けないのね」
背後から奈緒子の声がした。私は振り向かず、ことばを返すこともない。カンバスは、東の窓から射す無慈悲な日光に照らされて、私の胸の奥でか細くたゆたっていたはずのうつくしい女の面影を、畢竟これから描くはずであった絵画のイメージを、きれいにけしとった。きょうはもう何も描けない。
「ご飯、ここに置いておくわね」
「いや、その必要はないよ」
私はカンバスを睨みながら言った。「一緒に食べよう」
奈緒子はどこかのまちのくたびれた路地で定食屋をいとなんでいる。開業当初はアルバイトをやとい、それなりの収益を上げていたが、一年ほどまえ、店のちかくに大手の飲食店が出来てからというもの、さいきんではめっきり客足がへり、じっさいにはもう何か月も赤字がつづいている。いっそここいらで店を畳んでしまおうかと考えては、決断を一日おくりにおくりつづける毎日である。もとより新しく金をこさえる必要のない彼女にとり、定食屋をつづけるのは道楽の部類に属する、おままごとの延長のようなもので、というのもかのじょは、若くして死んだ夫の莫大な遺産でいくらでも生きていけるのである。きょうは定休日だというので、家にいる。
「どうして絵なんて描くの」
彼女は毎日、寝るまえになると、きまってその質問を投げかけてくる。私はそのたびごとにちがうこたえを用意する。きのうは「女が化粧をするのと同じことだ」とこたえたし、きょうは「人間が引力の魔法から逃れられないように、私は、絵を生み出すことからのがれられないんだ」とこたえた。意味不明もいいところだが、奈緒子はそれで満足らしく、それなら仕方ないわね、と笑った。そしてすこし沈黙がつづいたと思えば、もう寝息をたてているのだ。
私はかのじょの家を出て、街灯の街へと散歩に出た。描くということにつまると、私はどこへともなく出かけたくなる。それも夜中に。これは二十年まえからつづく、私の習慣だ。
二十年前――とうじ私はまだ童貞で、じっさいには女とまともに目もあわせることもできないくせに、デッサンの授業で、女の身体をすみからすみまでじっくり観察し、その肢体のあらゆる動きを紙の上にうつしとることが日課であったために、女のことなど何もかも知り尽くしたものと錯覚していた。そして、女のうつくしさが、真っ白の紙のうつくしさにならぶものと考えていた。それはまったく無邪気なことで、いまはもう、そうは思わない。
そうして、どこかの歩道でたたずんでいると、とたん、ぱっと横なぐりに光がさした。つづいて、蠢くような轟音と共に、バスが目のまえに停車した。こちらからは、車体の横面しか見えなかったが、何らのイラストもデザインもほどこされていない、真っ白なバスであった。どこに向かうとも知れなかったが、前の扉が開いてしぜん、私はバスに乗り込んだ。
帽子をふかぶかとかった運転手が、「一律、二百四十円です」と言った。車内を見わたすと、一番奥の席に、女性の姿が見えた。髪が長く、うつむいていてその表情はさだかではなかったが、たしかにそこに女がいる、ということが、私を安心させた。
「どこまで行きますか」
問うと、運転手は、
「あの女性と、あなたが降りるところまでです」
とこたえた。
「それならどこでもかまわない」
私は、小銭を投げ入れ、一番まえの席に座った。うしろの女がかわいた咳をしたのが聞こえた。
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