スタバではドリップコーヒーしか注文したことがないと言って、そのとびっきりの美女は、紙のカップに入ったソイラテを口に含んだ。で、味がしませんねとつぶやくように言った。彼女の所作のいちいちがとびっきり美しいのはいまさら断るまでもないことだが、そう言って彼女に見惚れてばかりいられないのは、ぼくは今、推理をしなくてはならないからである。
つまり、このとびっきりの美女が、生きた人間なのか、死者なのか、さっさと見極めなくてはならないのだ。……
近年の通信技術の急速な発達による一番の恩恵は、島国の片田舎にあるボロアパートの一室に居ながらにして世界中の人間とコミュニケーションがとれるようになったことだ。これはほんとうにすばらしい。ツイッターのDM機能がなければ、きょうという日、うだつの上がらぬへっぽこプログラマーたるぼくがこんなふうにしてとびっきりの美女とお茶をごいっしょ出来るなんて行幸は絶対にあり得なかった。だからそれには心から感謝する。ありがとう。
だけれど、ものごとには必ず良い部分と悪い部分があるものだ。
光があれば影がある。うちのオヤジだって、ものすごくお金をもっているときは、女性関係がめちゃくちゃだった。お金がなくなってからは、女性がよりつかなくなった。あれ? これ全然良い部分と悪い部分の話になってないな。まあ良いや。
とにかく、そういう世界にぼくたちは生きている。今回のケースで言えば、たしかにツイッターを使えば誰とでもつながれる。だけれど、誰とでも、というのが問題になることもある。つまり、スマホの画面の向こうでやり取りをしている相手が、人間なのか、死者なのか、それはじっさいに会ってみないことには確かめようがないのである。
じっさいに会ってみないことには、とたしかに今ぼくは言った。ぼくもさっきまでは、じっさいに会いさえすればその判断は容易だと思っていた。人間は人間だし、死者は死者だからだ。
しかし、このとびっきりの美女を初めてまぢかで見たぼくの脳裏に瞬時にフラッシュバックしたのは、次のようなことばだった。
「近年、人間は死者より死者らしく、死者は人間より人間らしく振る舞う傾向にある。」
これは今から三ヵ月ほどまえに、ある哲学者(日本人!)がツイッターに投稿したツイートだ。わずか一時間で三百万リツイートされた。ぼくは、ケッ、キザな野郎だ、意味分からん、と思って、いいねもリツイートもせずに、タイムラインのながれるままにしておいたのだが、三百万人が反応するにはそれだけの理由があるようだ。今ぼくの目のまえでソイラテに口をつけたとびっきりの美女は、人間が死者らしく振る舞っているようにも、死者が人間らしく振る舞っているようにも見える。なんと言っても、とびっきりの美女だ。ちょっと美しすぎる。あと怪しむとしたら、ソイラテを飲んだときに発した、味がしないという感想。うーん、死者。と一応判定を下しておく。だってソイラテ、味するじゃん。
「あ、味しますね」
と、とびっきりの美女は言った。うーん、人間。
で、さらに一口。
「やっぱり味しないかも」
うーん、死者。
……って、こんなことやってられるか!
やっぱりベッドで確認するしかないのかな、とぼんやり思いながらぼくは、二転三転する彼女の感想に適当に相づちを打って、じぶんのソイラテに口をつける。味は……、多分する。ぼくだってスタバではドリップコーヒーしか飲まないのだ。薄い味は、味がするのかしないのかよく分からない。つまらない人生は、生きているのか生きていないのかよく分からない。おそらく同じことだろう。
「ミネギザワさんはふだんどんなふうに休日をすごされているのですか」
と、とびっきりの美女が言った。ミネギザワ? 誰やそれ。……ああ、そうか。ぼくのツイッターのアカウント名だ。なんだってミネギザワなんてネギみたいな名前にしたのだろう。
「ふだんは、アニメを見て過ごしています」
とぼくはゼロ点の回答をした。せめて読書と言うべきだった。でも、何を読んでるか訊かれたらどうせ詰むし、趣味が読書なんて、じぶんがつまらない人間だと告白しているようなものだ。ローランド様だったら、「ありえねえわ」と吐き捨てるようにして言って、ホストTVのネタにするに違いない。グッドボタン六〇〇〇、バッドボタン四〇〇の動画に仕立て上げるだろう。
ところが、とびっきりの美女の反応は意外なものだった。
「それは、人間がつくったものですか、死者がつくったものですか」
と、ぼくに問うたのである。ぼくは面食らった。そんなこと気にして見てないからだ。すごいアニメオタクだったら気にするかもしれないけれど、ぼくみたいなにわかは、そのアニメのつくり手が人間か死者かなんていちいち調べない。それを気にするということは、やっぱり彼女、死者なのかもしれない。
「そういうことはあまり気にして見てませんね」
と、ぼくは慎重に言った。
「なぜですか」
と、とびっきりの美女が大きな瞳を上目遣いにして訊いてくる。吸込まれそうだ。
「なんでと言われても……、うーん、なんというか、人権的にナイーブなことでもあるしなあ……」
と、ぼくはつまないことを言った(それにしても、死者と人権に何の関係があるのだろう?)。ツイッターの投稿なら、三いいねくらいだろう。
が、とびっきりの美女はぼくの答えが大層お気に召したらしく、
「ツイッターでお見掛けするとおり、ミネギザワさんは非常に道徳的な方なのですね。素敵です」
と言った。そうか、ぼくは非常に道徳的なのかと思いつつ、ぼくはぼくが思ってもみなかったことばを口走っていた。それはつまり、こんなことばだ。
「そのミネギザワというの、やめてくれませんか。ぼくの本当の名前はミネギザワではないんです」
言って、とても後悔した。こんなとびっきりの美女に対してこの言い草はない。プログラマーなんていう、ふだんからあまり人と関わることのない職業を仕事に選んでしまった報いだ。きっと、頭がおかしい奴だと思われたに違いない。
が、とびっきりの美女は冷静だった。彼女は次のように言った。
「では、何とお呼びすればよろしいのでしょうか」
言われてぼくは、自分に名前がないことにはたと気づいたのであった。そうしてそのことに気づいた瞬間、目のまえのとびっきりの美女の顔がバグったように大きく歪み……、いや、この世界がまるごとぐにゃりと歪み、闇につつまれたと思ったのもつかの間、行き場を失った光が四方八方に乱反射し、無量大数分の一に凝縮された宇宙の時空と次元のはざまにぼくはひとり取り残されてしまったのだった。
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