病まない病と病むだけの女

掌編奇譚(第4話)

吉田柚葉

小説

2,101文字

ずいぶん前に電子書籍で発表した『病まない病』という小説の続編です。

 芥川賞を取らぬまま芥川賞の選考委員になった、色好みで知られる男性作家が、文学賞の授賞式に参加すると必ず女性作家たちの手首を確認すると書いていた。誰もがそこに傷があるのだという。病院の待合室でその文章が載った文芸誌を開きながら、例にもれず自分の手首に無数のためらい傷があることを思い、美咲は苦笑した。つまり、このときは苦笑できるような心持にあったということだ。

 こんなものは、文学の問題と無関係だ。

 美咲はそう思った。実際にそれは、無関係というほかなかった。衝動が来て、カッターナイフで自分の手首に刃を向ける行為には一筋たりとも文学の入り込む余地がない。燃えるような痛みも、文学ではない。気持を鎮めるために飲むいくつかの錠剤も……、これは少しばかり文学と関係がある気がした。なぜならそこには内臓と異物の戦いがあるから。だが、そんな戦いさえも、明日になれば文学と無関係になっているかもしれない。そうすると、美咲と文学の間には一切の紐帯が存在しないことになる。それならそれで良い、と美咲は思った。そもそもわたしは文学がやりたいわけではないのだ。ただ、男を好きになっただけなのだ。それが始まりであって、まだわたしは始まりにいるのだ。

 美咲が芥川賞を受賞してから六年の月日が経った。その間に、美咲が惚れた男は美咲の前から姿を消した。そのとき男は二十歳を過ぎたばかりで、大学生だった。それが、ある日とつぜん姿を消した。男は、美咲に惚れた男に脇腹を刺されたことがあり、その男も行方をくらませていた。しかし、そのこととは無関係に男は姿を消した。アイルランドに留学するとのことであったが、美咲からすれば、ある日とつぜん、目の前から姿を消して、今日に至るまでの五年間、一度も連絡が来ないのだから、これはどうしたって留学という言葉とは無関係としか思えなかった。美咲は、男の写真を捨てた。デジタルデータももれなく消した。自分が女であれば、それで新しい恋に進めると思ったのであった。

 しかし、ダメだった。もはや鮮明に顔を思い出すことさえ出来ぬ男のことが、彼女の五臓六腑に色濃く刻印を残しているのであった。

 自分の前から姿を消した男のことを五年間も想いつづける女など存在しない。が、まさに自分がそうなのだから、一箇の病に侵されていると言うほかなかった。そうでないと説明がつかなかった。

 すでに美咲は五年間も新作を発表していなかった。書いて没になるのではなく、単に書けないのであった。美咲は世間に忘れられた。ここ三年ほどは、高校生が飲食店で三時間アルバイトをするくらいの印税が一年に一回、美咲の口座に振り込まれるだけで、馴染みの編集者とのメールのやりとりさえまったくなかった。つまり美咲は、存在しない男のことを想いつづける、精神病の、ニートの二十四歳女なのだった。

「新しい元号が発表されましたね」

 診察室に通されて、第一声、美咲の担当医がそう言った。三十代半ばくらいの、極度に痩せたこの男は、三回目の美咲の診察で、自分で自分の職に嫌気がさしていると美咲に言った。わたしにも嫌気がさしていますか、と美咲が問うと、きみには嫌気がさしてないと男は恬として言った。今回で十五回目の診察なので、もうさすがに嫌気がさしているだろうと美咲は思った。だから第一声で元号のことなど言うのだ。

 美咲は、はい、と言って黙した。美咲は新しい元号を知らなかった。

「新しい元号が何か、知らないでしょう」

 と担当医の男が言った。美咲は、はい、と言った。

「レイワというんですよ」

 と担当医の男は言った。いかにもつまらなそうだった。

 その日も、大量の薬を貰って美咲は家路についた。精神科のある病院の最寄り駅で、文芸誌は捨ててしまった。文芸誌の中で美咲に理解できるのは、くだんの、リストカットに関するところだけで、あとの何百行は、何一つ意味が判らなかった。学がないことは自分で重々承知していたから、いまさら文学が判らないくらいのことで落ち込みもしなかった。ただ、荷物になるから捨てたのだ。だからこの行為も、文学とは無関係だし、新元号とも無関係だった。

 家に帰ると、三年前から「ご飯よ」という言葉以外の言葉を忘れてしまった美咲の母が、長4サイズの茶封筒を美咲に手渡した。枯木のようになってしまったこの母に対して、美咲は一切の言葉をなくしていた。だから「ありがとう」という言葉を思い出すまでにずいぶんと時間を要した。三年前、最後に母に伝えた言葉も、たしか「ありがとう」だった気がする。何がありがたかったのかは思い出せなかった。美咲は、三年前も、こんな風に母に封筒を手渡されて、「ありがとう」と言ったのだと思うことにした。そうすれば、この三年間はなかったことになると思った。なかったことにできることはすべてなかったことにしたかった。

 はたして封筒の差出人は、美咲にとり最愛の男であった。美咲は逡巡したが、それを読まずに捨てることにした。そして実際に、家のゴミ箱に捨てた。そのとき、手首のためらい傷がゴミ箱の闇の中からちらりと見え……、いや、はっきりと見え、やはり何もかも文学とは無関係なのだと思った。

2019年10月22日公開

作品集『掌編奇譚』第4話 (全10話)

© 2019 吉田柚葉

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

純文学

"病まない病と病むだけの女"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る