ここ十年

掌編奇譚(第7話)

吉田柚葉

小説

1,995文字

量子力学と朱子学は非常に似ている。「気」を「粒子」とすれば、ほとんどそのままである

 たとえば、ろうそくの炎。墓まいりの習慣がない私は、ここ十年くらいじっさいに目にしていない。それでも、想像しろと言われればできないこともない。くらやみの中、風もなくゆらめくそれは、だれかの顔をてらすけしきだ。げんに、ぼんやりと女の顔がうかんでいる。だれか。妻である。それも、きのう今日の顔ではない。若さのさかりにはげしく燃える顔だ。おそらく十年以上むかしである。そのまなざしの向かうさきは、むろん、炎ではない。炎がてらす、男の顔である。この男が誰であるかは判然としない。つまり私ではない。若かりし日の妻と男は、一本のろうそくが放つ光でたがいの顔をてらし、恋人らしく見つめあっている。

 あるいは、海。なぜ行かないのかと問われても困るが、ともかく十年は行っていない。妻のひとみに燃えるのは炎と見えたが、どうやらちがうらしい。浜辺にぶちまけるごとく打ちつける水しぶきが、その正体であった。妻の隣には、これも男。光の季節にあって、はだか同然のすがたとあれば、こいつがだれかなんぞすぐに判りそうなものだが、この痩せぎすの青びょうたんにはついぞ見おぼえがない。隣にいる妻が、また十年以上むかしのすがたらしいのを見ると、おそらくは同年代、二十歳そこそこなのは確実かと思われる。確実なのはそれだけであり、どこの馬の骨かはさっぱりである。

 または、公園。これは毎朝、通勤の際にその前をとおる。十年前に、ここに越して来たときからずっとある狭い公園だ。むろん、七時すぎにそこをとおったところで、まだだれもあそんでいない。帰宅の際、十九時頃にふたたびそこをとおっても、やはりだれもあそんでいない。時間が悪いか。そう言っても、ブランコのクサリは外され、草はのび放題とあれば、どうも時間の問題ではない気がする。死んだ公園だ。では十年前は健在だったかと言うと……、その記憶は曖昧である。だから仮に、そのときにはまだ健在だったとしよう。子どもがそこいらを駆けまわる。すこしはなれたところで、それを監視する男女もいる。父親であり、母親である。痩せぎすの青びょうたんであり、妻である。こうなると、さしもの私もさすがにギョッとする。ガキは五歳くらいに見える。とすれば、妻が十五とか十六とかにこしらえた子ということになる。だからこれは、げんじつの妻の子ではないだろう。近所の子どもがあそぶのを、ふたりで観察しているのだ。そう思えば、まわりにはほかに幾人も子どもがいるし、それを見まもり、あるいは井戸端会議に花を咲かせる母親たちのすがたもある。そうすると、このふたりの存在は、この公園にあってあきらかに異質だ。

 ――どの子が良いとおもう?

 と、青びょうたんが問う。妻は黙したまま、すっと指をさす。木陰にひとりたたずむ、内気そうな女の子である。さて、この子に見覚えは……、ある。この何日かのち、この子は、いつも通っている幼稚園の敷地内で、すがたを消すことになる。園児が外であそぶ時間だ。このときもこの子は、みんながあそんでいるようすを木陰からながめていたらしい。あるいは、園の中で絵本を読んでいた、という証言もある。いずれにしても、この子は消えた。それから十年、この子はまだ親もとに帰ってきていない。

 事件発生から数日後、おなじ公園内のゴミ箱に、人間の足がポリ袋に入れて捨ててあった。が、これはその子のものではなかった。近所のアパートにひとりで住む、大学生の男のものであった。かれはカルト集団の一員だったらしい。くわしいことは知らない。

 ちょうどおなじ日に、私は妻と出会った。それは、あとで調べたら、その日だったということで、出会ったときにはそんなことが起きていたなんて知らなかった。

 たしか私は大学の図書館でしらべものをしていた。講義の課題ではなく、きわめて個人的な趣味でのしらべものであった。

――ディラック?

 席に着き、本をひらく私の背後で声がした。ふりむくと、これがのちの妻であった。

――ああ、量子力学だよ。

 と私はこたえた。一目見て、そのひとみに吸い込まれそうだと思った。

――判るの?

――少しは。

 と私は見栄を張った。見栄を張ったからには、張りつづけなくてはならなかった。六年後、この見栄の所為で私は、研究員になってしまった。……

「波と言えば、海だったのだけれど」

 と私はつぶやいた。四年目の結婚記念日に、私と妻はフランス料理を出すレストランに来ていた。われわれは、呑めもしないワインをしたたか呑んだ。

「けっきょく、わたしは何も判らなかったわ」

 と妻は言った。言葉とはうらはらに、機嫌は良さそうだった。

「ただ、出会ってすぐくらいにぼくがまとめたディラックのノートは、なかなかのものだっただろう」

「そうね。わたしはよく判らなかったけど、評判は良かった」

 と妻は言った。何かがひっかかったが、私はそれを流した。

 テーブルの上でろうそくの炎が尽きようとしていた。

2020年3月7日公開

作品集『掌編奇譚』最新話 (全7話)

© 2020 吉田柚葉

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