何も書けぬまま夏をむかえた。
前期の講義がおわり、週と週の境目を判断する指標がなくなった。小説の執筆は消閑の具だとわりきるようにしたが、上手くはいかず、起きている時間を殺伐としたものにするだけだとさとり、ついに原稿用紙をかたしてしまった。それからは、起きている時間を起きているだけでやりすごした。
暑くて眠れない日ばかりだった。
ふとしたとき、熱気に淡くけむるくらやみの中で目をこらすと、小説になりそうな妄想がそこいらを揺曳していることに気づく。机の引出にかたした原稿用紙に心がむくが、それが贋物であることは明々白々なので、顔のちかくで羽音を立てる蚊といっしょに、手でおいはらった。が、おいはらっておいはらえるものではない。妄想はアルコールで焼きはらい、蚊には刺されるままにまかせた。皮膚の腫れたところの痒みは、熱気にあばれ、夜はたとしえもなく長いが、朝が来るのはまばたきをする間だった。
ある日の早朝、一ヵ月ぶりくらいに家のポストを確認すると、長4の茶封筒が入っていた。差出人の名前におぼえはなかったが、女性の名前であった。
書斎でそれをひらいた。中には、便箋が五枚、おさまっていた。
ひらくと、妙にかたちの悪い字が目にとびこんできた。一瞬、じぶんの字かと思った。じぶんでじぶんに手紙を送る。それも、女の名前で……、と考えると、そんな風にしてはじまる、ねばり強ささえあれば書きあげることが出来るであろう一篇の短編小説を、ここではないどこかの次元の私が、すでにものしていることに気づくのであった。それをこちらの次元にたぐりよせてこちらの次元の言葉に翻訳すれば良いのだというあまい声がする。耳もとでささやく。私はそれにあがらう。
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