禍中

掌編奇譚(第10話)

吉田柚葉

小説

2,079文字

書いたらスッキリしました。なんかそういう療法ありますよね

 

となりのテーブルでしずかにiPadを操作していた中年男性がまた咳込んだ。もう何度めかわからない。私が観察したところによると、かれが咳込むのは、手もとに置かれたマグカップを口にはこんだときにかぎる。誤嚥による咳だろう。いちど気管につまってしまうと、すこしのあいだ、クセになるものだ。ようするに、それだけのことなのだ。

 であるにも係わらず、妻はこの店を出て行ってしまった。いちおう、「服を見てくる」と理由をつけていたが、原因はあきらかである。

 中年男性から視線をはずし、ひきつづき私は読みかけの本の頁に目をやった。ときの首相がかつて著した『美しい国へ』というものだ。十頁ほど読むと、厭になってしおりをはさんだ。

 コーヒーをすする。目のまえの窓からは駅の駐車場がのぞけるが、一般人のものとおもわれる自動車はほとんど停められていない。

 私のテーブルの右端には、カプチーノが注がれたマグカップが置かれている。私と向かい合って座っていた妻が飲んでいたものだ。なかにはまだ半分ほどものこっている。コーヒーのあじにも厭きがきていたので、つい私はそのマグカップに手をのばした。

 とたん、店をあとにする際、妻が「このカップはそのまま返しておいてね」と念を押したのを思い出した。万が一にも私が禁をやぶったことがかのじょに知れると、まためんどうな口論に発展するのは想像にかたくなかった。あきらめて私は、いっきにコーヒーを飲みほした。

 中年男性が咳込んだ。

 腕時計をかくにんすると、帰りの電車の時刻までのこり一時間を切っていた。旅先はうつくしい街だったが、この二日間、だれかのくらいまなざしからのがれられたことは一瞬たりともなかった。地元のにんげんは私たちを見張りつづけていたし、妻は私を見張りつづけていた。私のかげさえも私を見張っていた。そこには一本の糸がピンと張りつめていた。

 そとは光の夏だ。かげろうがたちこめている。そのけぶりにかくれ、膨大な数のウイルスが息をひそめていると見えた。

 いや、私を見張るすべての人と物、そして私の中にもウイルスはかくれていた。もっと言えば、この社会が一箇のウイルスであった。

 中年男性が咳込んだ。

 ふたたび私は、本をひらいた。ときの首相は「自分の帰属する場所とは、自らの国をおいてほかにない」と断じ、「その国を守るということは、自分の存在の基盤である家族を守ること」だと主張していた。つづけてかれは、かの大戦における特攻隊員たちを礼賛した。おもえば、あすは終戦記念日であった。

 何をおもって私はこんな本を買ってしまったのだろう。

 もとは、村上春樹の新刊を買うつもりだった。それが売切れだというので、この本をレジに運んだのだった。意味不明である。おそらく、ウイルスに脳をやられたのだろう。じぶんの存在の基盤なんぞ、もうどこにもないのだ。

 しばらく本を読んでいると、妻が店にもどってきた。紙ぶくろをたずさえている。「良い服はあったかい」と問うと、良さそうな腕時計があったので買ったという答がかえってきた。妻は例の中年男性に視線を飛ばし、眉をひそめた。

 私は、そろそろ駅に行こうかと言った。妻はうなずき、マグカップを所定の場所に返しに行った。その際、中年男性のまえをとおることになるので、折悪くかれが咳込まなければよいが、と私は肝を冷やした。かれは咳込まなかった。

 テーブルにもどってきた妻は私にマスクをつけるよう指示した。私はそれにしたがった。さらに妻は、レジカウンターのちかくに設置されている消毒液の入ったプッシュボトルを指さした。私はしたがった。

 われわれは店を出た。とたん、雨つぶが肌を打った。重い雨つぶである。はげしい雨がくることを予感し、私は妻に急ぐよう言った。

 駅の入口までは五十メートルと離れていない。案の定、豪雨が街にはじけたが、間一髪のところで私たちは駅内に避難することがかなった。うつくしい街は雨にしずみ、きたるべき黄金の夕暮れは、到来の機を逸した。悪辣たる雨も、又、ウイルスであった。

 コインロッカーからキャリーケースを取出し、売店で駅弁と缶ビールを買ってホームに出ると、すでに私たちが乗る予定の新幹線が停車していた。発車までは十分ほど猶予がある。私たちはのり込んだ。

 車内は、まばらであった。わかいカップルと、スーツを着た男性がひとり、あとは子どもづれの三人家族、これで全員だ。

 ここにも一本の糸がピンと張りつめていた。だがこれは、共犯意識に似た糸であった。

「たのしかったなあ」

 と妻がひとりごつ。私は、そうだなあと言った。

「またきたいね」

 と妻が言った。私は、そうだねと言って、缶ビールのフタをあけた。泡があふれ、中身がこぼれた。

「何やってんの!」

 と妻が声をあらげた。私のなかで、猛烈な悪意が噴出した。

「うるせえ、これで消毒だ、消毒!」

 そう言って私は、ビールにぬれた手を下品に舐めまわし、缶の中身をいっきに口の中にながしこんだ。はげしく咳込み、世界中の糾弾の視線を全身に浴びながら、それでも、一歩たりともウイルスの沼からぬけ出せないことに、ただただ失望した。

2020年9月19日公開

作品集『掌編奇譚』第10話 (全11話)

© 2020 吉田柚葉

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