覚えてない

かきすて(第3話)

吉田柚葉

小説

2,103文字

妻と喧嘩したけど仲直りしました。なので大丈夫です。

 原稿用紙換算で四〇〇枚とか、その程度の長さの小説であるが、一日一枚、書いたり書かなかったりしているうちに気づけば三年もの月日が流れてしまった。その間に私は大学院の修士課程を修了し、地方の出版社に就職し、結婚した。

 仕上がってみるとなんの感慨もわかなかった。海のものとも山のものともつかないそれは、書いている間こそどちらに転ぶか楽しみであったが、最後の句点を打った瞬間に、やはりダメだったか、と、そう確かに「やはり」と思ったのであった。そうして、妻の浮気相手に会ってみるか、と、これもどちらに転ぶか、というくらいの曖昧な感じで、そんな言葉がふいに口をついて出たものだからさすがにギョッとした。

 ところが実際に妻が浮気をしているかは定かではなかった。一ヵ月に一回とか二週間に一回とか、少し大きめの喧嘩をしたときに、「どうせわたしが浮気していることも知らないんでしょ」と、一箇の挑発の文句として出るその言葉は、どうも挑発以上の意味はないように思え、それに対して私が発する、「知ったことか!」という返し刀で、そのやりとりはいつも決着がついてしまうのである。だから、妻の浮気相手は、存在するような、存在しないような、気になるような、気にならないような、そんな存在なのであった。今日は、だから、気になる日だったのだろう。眠って、明日になれば、その気も変わっているかもしれない、と思い、とりあえず眠りについた。

 次の日、スマートフォンのアラームで目覚めると、はたしてその気は変わっていなかった。私は、隣で妻がいびきをかいているのを確認すると、会社を病欠する旨の電子メールを上司に送り、スーツに着替え、通勤用の鞄を持って外に出た。で、駅の近くのスターバックスコーヒーに行き、店員からコーヒーのトールサイズを受け取ると、それを持って駐車場の見えるカウンター席に座った。このように、私にはどうするというあてもなかった。ただ、ここで座っていると、いつか、妻が浮気相手と共に入店してくるのではないか、と、ぼんやりと思ったのであった。

 もちろん、そんなことが現実に起きようはずもない。ノートパソコンを開き、昨日の夜に書き上げた長編小説を見直しているうちに、午前が終わり、午後が過ぎた。会社の定時が過ぎ、外には宵闇が落ちかけていた。そろそろ妻が家庭教師に行くために家を出る時間だった。妻は電車を使うので、この席からだと、妻が歩いてくるのが見えるだろう。そのとき妻の隣に男がいれば良い。私はそんなことを思った。書き直しているうちに、目の前のダメな長編小説は別のダメな長編小説に変貌を遂げていた。

 十分が経ち、二十分が経った。

 だが、駐車場の向こうの歩道を妻が通ることはなかった。

「お仕事ですか」

 背後で声がした。振り向くと、女性の店員だった。端正な歯列を持った、美しい女性だった。

「ええ、まあ」

 と言って私は、自分がなんとなくこの人と仲良くなってしまうのではないかと思った。

「これ、来週から新しく発売するアップルパイなんですが、一口いかがですか」

 と言って女性は、アップルパイのかけらにつまようじを刺したものを私に手渡した。私はそれを一口でたいらげ、「おいしいです」と言った。女性は、「よかったです」とか、「またお願いします」とか、そんな意味未満の言葉を言って、さっさとほかの席に巡回に行ってしまった。あれだけ歯並びの綺麗な人はなかなかいないと思った。

 で、窓に目を戻すと、ちょうど、駐車場の向こうの歩道に見覚えのある女性が歩いてくるのが見えた。妻であった。隣にはスーツの男性がいた。二人は手をつないでいるように見えた。私は、「やはり」、と思った。

 だが、よく目を凝らすと、どうにも隣の男に見覚えがあった。オールバックにした白髪に、頬から顎まで濛々と髭を蓄えたこの男は、つまり、お義父さんであった。私は混乱した。お義父さん夫婦は確か、今はアメリカに住んでいるはずである。それがどうしてこんなところに……。

 その日の夜、先に床に就き、眠っているふりをした私を妻が叩き起こした。叩き起こした、というより、肩を揺すって起こした。しかしこの揺すりは相当な力を入れてのものだから、叩き起こした、と表現してもそれほどの間違いではないかもしれない。目を開くと、カッ、と部屋の電気の光が飛び込んで来た。

「あんた!」

 と妻は捥ぎ取った言葉を私の顔に吐きすてた。私は「なんだい」と、今起きた風を装って言った。

「あんた!」

 と妻はもう一度言った。このままここで気絶出来たら良いのに、と私は思った。だが、そう簡単に気絶など出来ない。私は、また、「なんだい」と言った。

「あんた、今日、どっかの女と手をつないで歩いてたでしょう」

 覚えのないことだった。

「歩いてない」

 と私は言った。

「でも、わたしは、見たのよ」

「だけれど、歩いてないものは歩いてない」

 そんな問答が延々とつづいた。「歯並びが綺麗なのが良かったのでしょう」と妻は意味不明のことを言い、私は「歩いてない」と繰り返しているうちに、「歩いてない」が、いつしか「覚えてない」になり、夜のぬかるみの中、私はこの三年間のことを何も覚えてなかった。

2019年10月20日公開

作品集『かきすて』第3話 (全30話)

© 2019 吉田柚葉

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