覚えてない

かきすて(第3話)

吉田柚葉

小説

2,141文字

妻と喧嘩したけど仲直りしました。なので大丈夫です。

原稿用紙換算で四〇〇枚とか、その程度の長さの小説であるが、一日一枚、書いたり書かなかったりしているうちに気づけば三年もの月日がながれてしまった。そのあいだに私は大学院の修士課程を修了し、地方の出版社に就職し、結婚した。

しあがってみるとなんの感慨もわかなかった。海のものとも山のものともつかないそれは、書いている間こそどちらにころぶか楽しみであったが、最後の句点を打った瞬間に、やはりダメだったか、と、そう確かに「やはり」と思ったのであった。そうして、妻の浮気相手に会ってみるか、と、これもどちらにころぶか、というくらいのあいまいな感じで、そんなことばがふいに口をついて出たものだからさすがにギョッとした。

ところがじっさいに妻が浮気をしているかは定かではなかった。一ヵ月に一回とか二週間に一回とか、少し大きな喧嘩をしたときに、「どうせわたしが浮気していることも知らないんでしょ」と、一箇の挑発の文句として出るそのころばは、どうも挑発以上の意味はないと思え、それに対して私が発する、「知ったことか!」という返し刀で、そのやりとりはいつも決着がついてしまうのである。だから、妻の浮気相手は、存在するような、存在しないような、気になるような、気にならないような、そんな存在なのであった。きょうは、だから、気になる日だったのだろう。眠って、明日になれば、その気も変わっているかもしれないと思い、とりあえず眠りについた。

次の日、スマートフォンのアラームで目覚めると、はたしてその気は変わっていなかった。私は、隣で妻がいびきをかいているのをかくにんすると、会社を病欠する旨の電子メールを上司におくり、スーツに着替え、通勤用の鞄を持って外に出た。で、駅の近くのスターバックスコーヒーに行き、店員からコーヒーのトールサイズをうけとると、それを持って駐車場の見えるカウンター席にすわった。このように、私にはどうするというあてもなかった。ただ、ここですわっているといつか、妻が浮気相手といっしょに入店してくるのではないか、と、ぼんやりと思ったのであった。

もちろん、そんなことが現実に起きるはずもない。ノートパソコンをひらき、きのうの夜に書き上げた長編小説を見直しているうちに、午前が終わり、午後が過ぎた。会社の定時が過ぎ、外には宵闇が落ちかけていた。そろそろ妻が家庭教師に行くために家を出る時間だった。妻は電車を使うので、この席からだと、妻が歩いてくるのが見えるだろう。そのとき妻の隣に男がいればよい。私はそんなことを思った。書き直しているうちに、目のまえのダメな長編小説は別のダメな長編小説に変貌をとげていた。

十分が経ち、二十分が経った。

だが、駐車場の向こうの歩道を妻がとおることはなかった。

「おしごとですか」

背後で声がした。ふり向くと、女性の店員だった。端正な歯列を持った、うつくしい女性だった。

「ええ、まあ」

と言って私は、自分がなんとなくこの人と仲良くなってしまうのではないかと思った。

「これ、来週から新しく発売するアップルパイなんですが、一口いかがですか」

と言って女性は、アップルパイのかけらにつまようじを刺したものを私に手わたした。私はそれを一口でたいらげ、「おいしいです」と言った。女性は、「よかったです」とか、「またお願いします」とか、そんな意味未満のことばを言って、さっさとほかの席に巡回に行ってしまった。あれだけ歯並びのきれいな人はなかなかいないと思った。

で、窓に目をもどすと、ちょうど、駐車場の向こうの歩道に見覚えのある女性が歩いてくるのが見えた。妻であった。となりにはスーツの男性がいた。二人は手をつないでいるように見えた。私は、「やはり」、と思った。

だが、よく目を凝らすと、どうにもとなりの男に見覚えがあった。オールバックにした白髪に、頬から顎まで濛々と髭を蓄えたこの男は、つまり、お義父さんであった。私は混乱した。お義父さん夫婦は確か、今はアメリカに住んでいるはずである。それがどうしてこんなところに……。

その日の夜、先に床に就き、眠っているふりをした私を妻がたたき起こした。というより、肩を揺すって起こした。しかしこの揺すりはそうとうな力を入れてのものだから、叩き起こした、と表現してもそれほどのまちがいではないかもしれない。目をひらくと、カッ、と部屋の電気の光が飛びこんできた。

「あんた!」

と妻は捥ぎ取ったことばを私の顔に吐きすてた。私は「なんだい」と、今起きたふうをよそおって言った。

「あんた!」

と妻はもう一度言った。このままここで気絶出来たら良いのに、と私は思った。だが、そうつごうよく気絶などできない。私は、また、「なんだい」と言った。

「あんた、きょう、どっかの女と手をつないで歩いてたでしょう」

おぼえのないことだった。

「歩いてない」

と私は言った。

「でも、わたしは、見たのよ」

「だけれど、歩いてないものは歩いてない」

そんな問答がえんえんとつづいた。「歯並びが綺麗なのが良かったのでしょう」と妻は意味不明のことを言い、私は「歩いてない」と繰り返しているうちに、「歩いてない」が、いつしか「覚えてない」になり、夜のぬかるみの中、私はこの三年間のことを何も覚えていなかった。

2019年10月20日公開

作品集『かきすて』第3話 (全40話)

© 2019 吉田柚葉

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