眼窩に沈む龍の街

松尾模糊

小説

11,624文字

――伊達政宗がなぜ独眼龍と呼ばれていたか、知っとるけ?――カズキが話すおとぎ話のような伝説。伊達政宗、柳生十兵衛、そして右目を失明したボク……眼帯の下、眼窩の奥から飛び出す龍が時空を超えて人々をつなぐ。【画像】今村勝渓雅紹『龍図』

青葉山の頂にある本丸の天守台から城下を眺める独眼龍が右目を覆う黒い眼帯を上げると、眼窩にはどこまでも落ちそうな漆黒の闇の奥底にビル群を抱く山麓が見えた。側近の鬼庭綱元はその摩訶不思議な光景に驚きを禁じえなかった。

「こ、これは……!」言葉に詰まる綱元に独眼龍はこの眼はの、うつせみとは違う世と繋がっておるのよ。と城下に広がる瓦屋根と漆喰でできた家々を眺めた。

 

 

伊達政宗がなぜ独眼龍と呼ばれていたか、知っとるけ?「疱瘡で右目を失明していたからだろ……待て、ググるから――もともとは中国が唐の時代に活躍した武将の李克用が片目が不自由で以後、隻眼の英雄をそう称するようになった――ってことだろ」違うよ。それは表の歴史だ。「表?」そうだ。スペインの探検家セバスティアン・ビスカイノによる秘密の手記があってだな、これは俺がスペインを一人旅した時に、たまたま入ったバルセロナの怪しい露店での話なんだが。

――オラ! おや? あんた、日本人かい?「そうです。日本から来ました」おお、遠いところをよく来たね。これもお導きかもしれん。「お導き?」ちょっと、待ってな。見せたい物がある――

そう言って、口髭を生やした恰幅の良い店主はカウンターの奥からボロボロで黄ばんだ書物らしきものをカウンターの上に置いた。舞い散った埃に咽ながら、店主は「伊達政宗を知ってるか」と聞いたんだ。俺はびっくりしたよ、こんな西の果てで戦国武将の名前をスーパーマリオみたいなおっさんの口から聞くなんてな。もちろん知ってる、日本で有名なサムライだ、と俺が外人みたいな回答をしてしまったよ(笑)。まあ、それはいいんだが、すると店主はそのボロボロの書物を指差して、これは伊達政宗の秘密を記したものだ。と言ってな、パラパラと捲って絵日記のようなその書物を説明しだしたんだ。そこに書いてあったのよ、独眼龍たる由縁が。

「目からドラゴン?」そうさ、目から文字通り龍が飛び出てたんだとよ。ビスカイノは仙台城の天守台に立つ政宗の右目から飛び出す龍を生き生きとした描写と共に、その龍が夜な夜な飛び出して夜空を照らす月の方へ消えて行ったと、こう記してるわけよ。

「創作だろ、明らかに」俺だって店主にそう言ったさ。ところが、この伝説はスペインだけじゃなくて、俺が帰国前に立ち寄ったローマでも言い伝えられていたんだよ。「ローマ? イタリアの?」政宗は慶長遣欧使節をスペイン国王のフェリペ三世とローマ教皇のパウロ五世の元に送っていることは正史でも記録にある。俺が立ち寄った石橋の下にある怪しげなワインバーのマスターは日本のアニメオタクでな、「コニチワー」と禿げ上がった頭を下げて両手を合わせて俺を歓迎してくれたんだ。それで俺がバルセロナで聞いたドラゴンの話をちょろっとしたわけよ。

――ああ。それなら似たようなことがローマにも言い伝えられてるよ。正使のルイス・ソテロと支倉常長副使はドラゴンに乗ってやって来たんだそうだ。そのドラゴンは突然ローマの空を覆った厚い雲の間から現れたんだと。ルイスは伊達政宗の右目があらゆる空間と繋がっていると、パウロ五世に力説していたという話さ――

それで俺は仙台城が難攻不落と言われた所以をここに見たわけ。仙台は龍に守られていたんだ。

地面がぐらりと揺れた、揺れると言うより歪んだ。そう言った方が正確かもしれない。聞いたことのない音が地響きだと知ったのは、何もかもがぐしゃぐしゃになってしまった後だった。ボクはカズキの話したドラゴンが時空の歪みから現れたのかと思った。

 

 

校庭を取り囲むシダレサクラも花びらを散らして、すっかり緑色に萌える葉にその枝を覆われた頃、百瀬は校舎の三階の端にある三年二組の教室の窓際から校庭の真ん中でチワワらしき雌犬の臀部に前足を立てて跨りながら腰を振り続けるみすぼらしい野良犬の真っ赤に充血したペニスを眺めていた。

「こっつぁこい! 犬がセックスしとっちゃ!」と同級生のバカな男子たちが群れて窓際に押し寄せていた様子を見て、盛るバカ犬と変わらんな、と百瀬は心の中で呟いた。その騒ぎに乗じて女子たちも窓際に控えめなフリをして「やんだあ!」と貞操な自分たちをアピールしながら興味津々に眺める、そのあざとさに百瀬はシネよ、と心の中で吐き捨てた。

ボクは百瀬の心の声などつゆ知らず、ただ廊下側の一番後ろの席から黒い艶やかなワンレンボブの間にひょっこりと出た小さい耳と少し高い形の良い鼻とその下にぷっくりと膨らんだ唇が神の偉大さを思い知らせるその横顔に見惚れていた。

「おい、何見とるっちゃ?」両肩にバシンと勢いよく手を置いてカズキが騒がしい窓際の方を見るボクの顔を後ろから覗き込んだ。「べ、別に……」とボクは彼の手を払ってから教室を出た。上履きを茶色いゴムサンダルに履き替えて小便をしていると、カズキが隣に立った。

「なした?」

「どうもしないよ」

「おめ、ぜんぜん標準語変わらねーな」

「家では標準語だからね」

「そんなんだからよ、俺くらいにしか相手してもらえねーんだよ」

「カズキも標準語うつってるよ」

「しずね! 嘘こぐでね!」

「嘘じゃないよ」ボクは笑いながら、小便器を離れ、洗面台で手を洗って、緑色のタイルの上に打ち付けられた鏡で自分の右目の黒い眼帯のズレを直した。ボクが誰にも相手にされないのは東京からの転校生だからではなく、この右目のせいだ。少し疼いた右目の傷痕の上の眼帯を押さえながらトイレを出ると、隣から百瀬が出てきた。ボクは少し恥ずかしくて下を向いた。百瀬はボクなど眼中にないようにスタスタと廊下を歩いて行ってしまった。彼女の去った後にはほのかな甘い香りが漂っていた。

授業が終わると、ボクは校舎を出てグラウンドの裏にある旧体育館(ボクが転校してくる前年に新しい体育館ができてこの場所を卓球部と柔道部と剣道部が使うようになった為に今は武道場と呼ばれている)に向かった。すでに武道場に入っている他の生徒たちの白い運動靴がぱらぱらとその上に並ぶコンクリートの階段を五段昇って、モスグリーンのペンキで塗られたスライド式の扉を開けると、すぐにニスも剥がれ落ちてくすんだ板張りの床が現れる。ボクはVANSの白いキャンバスを脱いで一番下の階段の端に置いて中に入った。武道場の真ん中には天井から下げられた巨大なグリーンのネットが卓球台の並ぶ奥の空間と手前の半分に畳の張られた柔道部のスペースとその隣の剣道部の空間とを仕切っている。黄色いポロシャツと黒い短パン姿で二つに折り畳まれた卓球台を広げている卓球部の連中の合間を抜けて武道場の奥にある木製の扉を開けて更衣室代わりになっているギャラリーへと急な階段を上がる。ベンチ代わりに横向きに倒されたロッカーの上に学ラン姿で剣道部の連中が座って談笑していた。ボクは彼らに「よっ」と声を掛けて藍色の学校指定の補助バックから剣道着と袴を取り出して着替え始めた。

「まだいいっぺ。今日は屋田も会議で来れねーっつってたしよ」後ろから副キャプテンの馬戸場が言った。屋田先生は剣道部の顧問で鬼のように怖く、剣道は五段でありながら空手の黒帯も持っていて彼をキレさせると正面蹴りが容赦なく飛んでくるので剣道部員の全員が恐れと憎悪を抱いている。彼は昨日ボクたちに今日は月一回の教員会議があり、部活には顔を出せないためいつものメニューをやっておくようにと部活終わりに伝言していた。その為、その場にいたキャプテンの梅頭と三年の後山と馬戸場には解放感に満ち満ちた空気が漂っており、馬戸場が父親から借りたというiPadにダウンロードされたエロ画像を三人は鑑賞していたようだった。ボクは左目を細くして三人の後ろから開かれたエロ本を覗き見た。髪の長い女性が黒い縮れ毛に覆われた股を広げており、その下にボクは実物を見たことのない薄いシダレサクラの花びらが雨で落ちて薄汚れたような色の皺々の女性器を右手の中指と人差し指で挟みながら広げている。少し段になった腹部の上に膨れた乳房と百円玉よりも大きいミルクティー色の乳輪の上に吸着ゴムの先端のような乳首が立っていた。ボクは百瀬のそこまで発達していない彼女の白い乳房と雨で落ちる前のシダレサクラの花びらのように明るいピンク色の乳首のことを想像した。下腹部に熱く血が走るのを感じて頭を振りながら急いで袴の紐を結んだ。倒されたロッカーの前に置かれた古い木製の三段の棚に置いてある防具を持ってボクはそそくさと下へと降りた。降りる時に後輩の上川とすれ違った。

「もうやるんですか? 今日は屋田来ないんですよね?」と上川は驚いた顔で尋ねた。

「いや、上に居てもやることないから」と答えてボクは階段を降りた。

 

 

独眼龍の右目の奥が疼いた。いかんな、どこかで龍が現れたのかもしれん。城下を眺めると沿岸に大浪山のように盛り上がった波がそびえていた。波は崩れるように漁村に覆いかぶさり、逃げまとう村人たちが蟻のように波にさらわれていった。「殿! 我が藩の沿岸に津波が押し寄せております」綱元が天守台の望楼に飛び込んで来た。

「ビスカイノの船団も越喜来村の沖合を航海中ですが安否は不明とのこと」そうか……きっと龍が現れた影響じゃろう。

「龍?」綱元は城主の言葉に耳を疑った。この眼には時空を翔ける龍が棲んでおる。そいつがうつせみに飛び出す時、時空に大きな歪みが生じるわけじゃ。その歪みが天変地異として違う時代に影響を与えてしまう。独眼龍は綱元に早急に家臣を集めるように指示した。今からこの眼に棲む龍を出す。独眼龍が右目の眼帯を上げると、その黒い眼窩の中にあるビル群の上を覆う厚い灰色の雲の間を彷徨う細長い影が蠢いて、家臣たちの視線の方に向かって伸びて来た。眼窩から飛び出たそれは頭上に豊臣秀吉公の甲冑、馬藺後立付兜のようないくつもの枝に分かれた二本の角とススキのようなもっさりとした眉の下に白く瞳を持たない目を持ち、針の山のような幾重にも連なる尖った歯の生えた大きな口を開いて黄金の鱗に覆われた途方もなく長い身体をくねらせて開け放たれた大広間の襖もなぎ倒した。おののく家臣たちを尻目に金色の龍は天守台から城下に下り、ビスカイノの乗る船の上空へと駆け下りた。ビスカイノの船団は二隻が沈み、ビスカイノの乗る船も大きく揺れていた。

「あ、あれは……ドラゴンだ!」ビスカイノは船員が叫ぶ声を聞き、空を見上げた。雲天を翔ける金色のドラゴンをビスカイノは夢中で船長室から持ち出した紙切れに描いた。ドラゴンは大きく口を開けて津波を、その時空ごと飲み込んでしまった。ドラゴンが青葉山の方に飛び去ると先ほどまでの惨状が嘘のように消え去り、青く晴れた空の下で穏やかな海が広がるばかりだった。

 

 

寛永十四年、時の将軍・徳川家光に蟄居を命じられて小田原に引きこもって以来、十一年ぶりに江戸の地へと戻った柳生十兵衛は父の宗矩に書き上げた伝書を記した巻物を手渡し、長年の修行の日々を思い返した。幼少期に燕飛の稽古で木刀が当たり失明した左目の奥が疼いた。宗矩は伝書を十兵衛の前に投げつけ「すべて焼き捨ててしまえ」と一喝した。思いがけない言葉に十兵衛は顔を上げ、父の赤くなった顔を見上げた。年老いたとは言え、その眼光は彼の反論の言葉を飲み込ませるのに十分な威厳を持っていた。十兵衛は転がる巻物を両手で拾い上げ、その場を去った。何がいけなかったのか? 十兵衛は全く見当がつかないまま父の慕う沢庵宗彭の居る下屋敷へと向かった。

宗彭は茶を立てて十兵衛に勧めた。ほろ苦い茶の味が十兵衛に家光公の冷たい眼差しを思い出させた。宗彭は巻物を閉じながら「父上のご真意が分からぬようでは、まだ奉公は遠いようですな」と穏やかな笑みを浮かべた。「少し私にこの書を預けてはくださらぬか?」という宗彭の申し出を十兵衛は黙って受けるしかなかった。

下屋敷から出ると日は落ち、朧月の光がぼんやりと夜空に広がっていた。それは、家光公に蟄居を命じられ行く先の見えぬ中、我武者羅に書いた十兵衛のこれまでの剣術稽古や山賊征伐で学んだ兵法の書を父に一蹴され途方に暮れる彼自身の状況を表わすようで十兵衛は無性に腹が立った。己の頭を冷やすために少し夜風に当たろうと十兵衛は屋敷を出た。屋敷の裏手にある竹林の小道に差し掛かる時に嫌な気配を感じ十兵衛は腰に下げた愛刀、三池典太光の柄に手を掛けて雷神の刻印された鍔を親指で押して刀身を僅かに浮かせた。たちまち黒装束で目元以外を覆い、背中に長物を背負った忍びのような格好をした三人組が竹林の陰から現れ、十兵衛を取り囲んだ。

「大和柳生藩藩主、柳生宗矩が嫡男、柳生三厳十兵衛殿とお見受けする」黒装束の男の一人――六尺を超える体格、堂々とした風格からしてこの集団の頭であろう――が十兵衛に向かって低い、しかしよく通る声で叫んだ。

「如何にも」と柳生新陰流を継承する者として恥じぬよう落ち着き払った声で十兵衛は応じた。「……なに奴か」と相手に声を掛けた瞬間、それには応じず二人が一斉に斬りかかって来た。十兵衛は鞘から刀を抜き、刃をはじき返して身を翻した。上段の構えで太刀を振り下ろして来た男の胴に一足飛びで一太刀浴びせ、下段から振り上げてきた男の喉元にそのまま切っ先を突き立てた。どさりと地面に崩れ落ちた二人に目もくれず、頭らしき男は黙って鞘から刀を抜いて正面に構えた。十兵衛は小刀を鞘から抜き、二刀の切っ先を外に向けて大きく構えた。山賊か? 十兵衛は一瞬考えたが、男の隙のない構えを前にその疑問を払拭した。これほどの手練れが山賊などというケチなことをするはずはない、となると何者かの差し金……男が真っ直ぐ斬りかかって来た。十兵衛は小刀で払おうと左手を頭上に掲げたが想像以上の重い一太刀に小刀ごと押し切られそうになり、後ろへ引き三池典太光をその反動で男の首元へと斜めに切り込んだ。男は振り下ろしていた切っ先を返して切り上げ、十兵衛の太刀を弾き返した。後ろに仰け反りそうになるのを堪え、十兵衛は重心を前に意識し小刀を胸の前に構え男の三の太刀を防いだ。男は素早く間合いから離れて、息を整えつつ再び正眼に構えた。

「おぬし、只者ではあるまい。名は何という?」十兵衛はひさびさの手練れを相手に少し興奮していた。

「……宮本武蔵。いちど御前試合でお目にかかった」

宮本武蔵、その名に十兵衛は覚えがなかった。

「切り捨てるには勿体ない、宮本殿、どうだ? 某と一緒に柳生の新しい流派を立ち上げてみんか」

武蔵は黒装束の隙間から見える目を大きく見開いてわはははと笑った。

「せっかくのお申し出だが、断る!」武蔵は切っ先を真っ直ぐに十兵衛の喉元に向けて突進した。

「そうか、残念だ!」十兵衛は小刀で武蔵の太刀の切っ先を凪ぐようにその向きを逸らしたが、見立てより伸びた剣先で左頬に小さな切り傷を負い、眼帯の紐が千切れた。間一髪ずれていたら彼の眼帯ごとその剣先に串刺しにされていただろう。ここで怯めば斬られる、そう十兵衛の長年培った経験が警告していた。十兵衛は顎を引き、右手に握った三池典太光の刀身を、伸びきった武蔵の巨躯に向けて思い切り振り下ろした。やった……その慢心が十兵衛の太刀を鈍らせたのか、手応えなく会心の斬撃は宙と共に竹から落ちた笹の葉を二つに切っただけだった。武蔵は宙で舞うように肩を内側に入れて太刀を持ったまま回転し完全に身体を開いた十兵衛の左側から旋回して太刀を垂直に切り込んだ。間に合わない、十兵衛は左手の小刀を戻そうと意識を集中したが死への恐怖が彼を飲み込んだ。

 

 

「ドオオウ!」掛け声とともに、ボクが竹刀を振り被ってがら空きになった胴を馬戸場の竹刀が打ち叩いた。ボクは振り上げた竹刀を力なくだらんと下ろした。「おめえよ、見た目は柳生十兵衛なのに、ほんっとに弱えなw」ボクの胴を打ち抜いた馬戸場が背後で笑った。十兵衛の眼帯は左目だ。それに彼が片目だったという史実はない、後から創られた脚色の要素が大きい。どちらかと言えば、伊達政宗だ。右目を眼帯で覆っているし、彼の失明は史料にも残っている。どちらにしても独眼龍だってそれなりに剣の腕はあったに違いないが。

ボクは振り向いて正面に竹刀を構えた。「やる気だけはあんべな」馬戸場は横格子になった面の下に笑みを浮かべながらボクの竹刀の先端部の留め具の先にカーボンの竹刀の先を合わせるように構えた。馬戸場はすり足で一歩進み、一足飛びで面を打った。ボクは竹刀を面の上に掲げてその打突を防いだ。パンっという竹刀を叩く音が響き、馬戸場とボクは互いにつばを合わせた。水牛の皮で出来た馬戸場の鍔とプラスチック製の安物がボクたちの力の差を表わしているようで、ボクは「エヤアーーー」と掛け声で虚勢を張った。馬戸場はボクの虚勢を嘲笑うように「キエーーーイ」と咆哮を上げて、竹刀の柄の下を握っていた小手を持ち上げるようにしてボクの左小手ごと身体を後方に突き飛ばした。ボクはひっくり返るように右小手を竹刀から離してドタドタと後ろに足をバタつかせながら尻もちをついた。馬戸場は構えを解き、竹刀を左腰に下げるように逆手に持って右小手をボクの面の前に差し出した。ボクが右小手をその上に置こうとした瞬間に馬戸場はスッと手を引き、ボクはつんのめる様に面の金具を床に打ち付けた。馬戸場はぷっ、と堪えるような音を立ててから容赦なく高笑いした。後山と梅頭が走り寄って来てボクを背中から持ち上げて羽交い締めにした。

「上川! こいつの面を取れ!」馬戸場は関わらないように見て見ぬフリをしていた後輩たちに向かって睨みを利かせながら上川を指名した。「えー、勘弁して下さいよ……」と苦笑いしながらも上川は小手を取って竹刀を脇に抱えながらボクの面の紐の結び目を解いて革の面垂を広げるようにして面を上に持ち上げた。頭に巻いた手拭いがはたりと落ちて、白地に黒い墨字のように書かれた“不動心”という言葉が目に映った。ボクは両足を地団太を踏むように動かしたが抑え込まれた上半身を動かすことは出来なかった。声を上げると負けた気がしたので息を大きく吐いたり吸ったりしていた。

「やっぱりおめえは片目が見えねえから弱えんだべ、なあ? 可哀想に……」馬戸場はゆっくりとボクの顔面に顔を寄せて黒い眼帯を右手で上から握るように持って「……よう!」と額の方に上げた。白濁し黒い瞳を失った眼窩の上下に長年に渡り傷を塞いだ盛り上がった肉を覆う皮膚が伸びてゴワゴワと厚く硬くなっているのが分かる程に黄色く変色していて、それは映画で見るゾンビの特殊メイクのようなおぞましさを思い起こさせた。目を背ける皆と違って、目の前の馬戸場はまじまじとボクの右目を見ながら「キモっ!」と言って笑った。ボクは抑える手の緩んだ後山と梅頭を振り払って馬戸場の道着の襟に掴みかかった。

 

 

眼帯が落ちて剥き出しになった十兵衛の右目の傷痕で閉じられた眼窩の奥から七色に光沢する鱗を纏った巨大な龍が飛び出し、大きな口を開いて二重に生えた鍾乳洞のような不揃いの大きな歯をむき出しにして武蔵の巨躯を刀ごと飲み込んだ。そのまま龍はとぐろを巻きながら宙に浮かんで十兵衛のほうに振り返った。十間はあろうかという細長い胴体の先に頭があり、それは牡鹿のそれより何倍も大きく幾重にも枝分かれしたまるで桜の木のような黄土色の角を二本持ち、その下に藁をまとめたような太い眉があり瞳を持たない白い目――何故か盲目とは逆に全てを見通す神通力を思わせた――の下に突き出した口先には大きな二つの鼻孔があり、その下に長い金色の髭が二本生えていた。十兵衛は生まれて初めて腰を抜かしたが、尻もちをつく前に三池典太光を何とか地面に突き立てた。そして自分が死後の世界にいるのだと考えた。龍は鼻孔からぶるると息を吐き、竹林を照らす朧月に向かって空を駆け上がって行った。龍の駆け上がった後はその靄が晴れるように澄み渡り、明るくなった月光が三池典太光の刃を煌めかせた。

冷たい水が頬を濡らして武蔵は目を覚ました。岩礁の上に仰向けに倒れていた武蔵は両手をついて上半身を起こして周りを見渡した。海に囲まれた島のようだ。穏やかな風に揺られてざぷんと静かに波が岩礁を打っていた。頭を打ったのだろうか、武蔵は全く記憶が無かった。とにかく島から出る術を考えようと武蔵は着物に着いた砂利を払いながら、足元に流れ着いていた小舟の櫂らしき棒切れを持って立ち上がり対岸へと向かった。

 

 

馬戸場に全体重を預け、一緒に倒れ込んだボクの道着の襟首の後ろを上から後山と梅頭が掴んで引き離そうとし、上川と数人の後輩たちが止めようとして馬戸場とボクの間にしゃがみ込んで引き離すために手を伸ばしていた。ガシャガシャと武道場の扉が開き、ポロシャツにチノパンを履いた三島由紀夫のような角刈りの屋田が現れた。武道場の手前で顧問を務める部員の巻き起こすカオスを目の当たりにした彼は「何しよるんかーお前らー! ゴラあ!」と一喝した。

職員室に馬戸場とボクが連れて行かれて、屋田の前でことの発端を聴取された。馬戸場は全て吹っ掛けた自分が悪いんです、と意外にも正直に不貞腐れながらも話していた。ボクは何も言わずただ俯いていた。

「馬戸場、お前は体格にも恵まれとるし剣の筋もいい。じゃがの、その奢りはお前の目を曇らせとる。今のお前が振る剣は邪剣じゃ。頭丸めて来い。明日からお前の邪剣を正す。加藤、お前に必要なもんは何か分かるか?」屋田の急なフリにボクは驚き、顔を上げた。屋田は回転式の丸椅子に腕を組んでがばっと大きく足を広げて座っていた。三島由紀夫のような(広島弁というところから菅原文太と言った方が適切かもしれない)角刈りには白髪も目立っているが、下から真っ直ぐにボクの目を見上げるその眼光は雄々しい虎の目のようだった。「自信じゃ。お前はその片目のせいにして全てから逃げとる。伊達政宗がどうやって戦国の世を生き抜いたか、知っとんか? ひたすら戦ったんじゃ。豊臣秀吉の命も無視してな」そんなことは知ってる、分かってる、でも今は戦国時代じゃないし、ボクは一国の主でもない……ボクは頭の中でそう言い返したが、それは屋田の言葉が正しい故の感情的な反発でしかないということも分かっていた。ボクは「はい」と言って、馬戸場に続いて職員室の出入り口に向かった。そのとき、担任の吉田の机の前で百瀬が吉田と話しているのが目に入った。ボクは否応なくその口元に意識を向けた。テンコウ・・・・という四文字が何度か出ていることをボクは見て取った。百瀬が転校する、ボクの今日の記憶は全て吹き飛んでしまった。

「やらかしたらしいな?」カズキが朝一番にボクの机の前に立ってニヤついた。もうワンダーフォーゲル部のカズキまでが知っているということにボクは驚いた。

「誰に聞いた?」

「みんな噂してんよ、馬戸場に掴みかかったほんでなすだって」

「まあそうだろうな。それより百瀬が転校するっていう話は聞いた?」

「百瀬が? んなこたあ聞いてね、ほんだって?」

「分からないけど、たぶん」

「おめ、百瀬のこと好ちなんか? しゃねがったおー」カズキはちょうど教室に入って来た百瀬に視線を向けた。

「俺がおめの気持ち伝えてやっがら」カズキは窓際の席に誰とも目を合わせずスタスタと歩く百瀬に近づいた。

「やめろ!」ボクは慌てて立ち上がって椅子を後ろに倒したことも気にせずカズキに駆け寄り両手で口を塞いだ。

「×××も、百瀬、耕太がおめに放課後話があんだって」朝から騒がしくするボクたちにクラス中の視線が集まっていた。

「なに? 今言えば?」百瀬は全く動じず、少し茶色がかった瞳を真っ直ぐにボクに向けた。「いや、あの、その……て、転校するの?」違う、何言ってるんだ!

「ああ。なんだ、知ってんだ? 後から吉田先生が話すと思うけど、そうだね。中国に行くことになった」

「中国?」東京ならまだしも日本から出て行くなんて、まるでボクにとっては異次元の話だった。

「そう。上海に。父の仕事の関係ってやつ」

 

我爱你ウォーアイニー

 

「は?」百瀬が突然の中国語に困惑した表情を見せた。ボクはどこかで見た中国語での愛の言葉を口走ってしまった後で死にたくなった。

 

 

――昨夜、関東地方に上陸した台風十九号は東北地方を通過し明日未明には温帯低気圧に変わる見込みです。昨夜からの総雨量が千三百ミリを超えている仙台市では広瀬川が氾濫し死者十一名、行方不明者二十三名、負傷者五十一名となっており甚大な被害が出ています。引き続き洪水や土砂崩れなどに十分な警戒が必要です――病院のベッドの傍らで観る画面がひび割れたスマホに映る男性キャスターの表情はひび割れた画面のせいなのか、少し笑っているように見えた。

「耕太が意識不明……い、いま緊急手術中」由紀子から連絡を受けたわたしは広瀬川の左支川である大倉川の上流にある大倉ダムに応援要員として現場に向かっていた。緊急放流も必要な事態で、わたしは耕太の入院する病院名を聞いて後で向かう旨を言うと「今が非常事態なのは分かるけど、耕太の父親はあなたしかいないのよ。あなたの命だって危ない……」由紀子の不安に満ち溢れた声を断ち切るようにスマホの電源を切った。軽バンから降りる時にスマホがポケットにしっかりと収まっていなかったのだろう、がちゃがちゃがちゃんと派手にコンクリートを転がり画面にひびが入ってしまった。緊急放流も虚しく広瀬川は氾濫し県は自衛隊に出動要請し、わたしの役割は避難所の管理へと移行した。夜明けに新入りの谷と交代し、耕太の病院へと軽バンを走らせた。土砂崩れで友人の和樹くんの運転する車ごと流され右目に木片が突き刺さった状態で見つかったそうだ。和樹くんの行方はまだ分かっていない。心電図は規則的に波打っている。ピッピッという音以外に音らしい音は耕太の上に被さるように眠る由紀子の寝息くらいだった。

 

 

「愛してるか、重いなーw喜歡你シーファンニーだろ、そこは」世界を旅して肩まで伸びた髪を束ねて頭の上で丸め、日焼けした肌の上にタンクトップを着て迷彩柄のハーフパンツを履いたカズキはボクの一世一代の告白を腹を抱えながら笑っていた。「な?」ボクは混乱した。と同時にカズキの運転する車の助手席で聞いたドラゴンの話を思い出した……地響きがして歪んだ視界が浮かび、目の前にいたはずの百瀬は、カズキが仙台に戻って教員として働いていると説明しながらインスタで見せてくれた長い髪をライトブラウンに染めて毛先に軽いウェーブを掛けた白いパンツスーツ姿の大人の女性になっていた。

「ごめんなさい。加藤くん、正直あなたの記憶はあたしには残ってないな……」

大人になった百瀬の表情もやはり困惑したままだった。そりゃそうだろう。ボクはずっと百瀬のことを想いながらもロクに話したこともないただの同級生で、百瀬が転校する前に告白すればどうにかなっていたなんて若さ故の馬鹿な楽観的観測でしかなかった上に、それを十年も悔やみ続けていたなんて厨二病が過ぎる。

「だ、だよね」ボクは自虐的に笑った。

「でも十年越しの告白、ありがとう」百瀬の微笑みは愁いを帯びていた。

校舎の窓の外に大きな白い球体とそれを縁取るようなでこぼこした青い何かが見えた。ボクは無意識に眼帯を上げた。シダレザクラの木が飛んでいた……いや、それは角だった。巨大な龍が校庭にとぐろを巻いて浮いていた。龍は頭から徐々にとぐろを解きながら宙に浮かび青く光沢した鱗に覆われた身体をくねらせて青葉山の彼方に遠のいた、と思ったらウミヘビのようにくねくねと空を進み物凄い速さで真っ直ぐにボクらの教室に向かって飛んで来て大きな口を開けて不揃いの二重になった岩色の歯がはっきりと見えるくらいに近づき校舎にぶつかった……いや、通り抜けた? ボクは目を閉じたので分からない。でも、閉じたはずの瞼の内側が青白く光り輝いているように感じた。深い海底から海面の上に照りつける太陽の日差しが煌めく眩しさに向かって浮かび上がっているような感覚があった。

 

耕太の左手の人差し指にはめられたプロープがヒクっと動いたように見えた。「耕太?」わたしは息子の肩を揺さぶった。ピピピッと心電図の規則性が破られ、耕太の左目の睫毛が少し動いた。わたしは耕太の頭上に下がったナースコールのオレンジ色のボタンを親指で何度も押した。

 

(了)

2020年4月19日公開

© 2020 松尾模糊

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