礼服

松尾模糊

小説

2,419文字

父との関係はアイデンティティを形成する上で大きいと考えていますが、そういう掌編です。

誰であろうと指図されることが嫌いな男だった――叔父が父のことをそう称したのが気になった。その男も母と出会い父となり、職場で年長者となり、指図する側の人間となっていたことにはどう整合性をつけていたのか、男がいなくなってしまった今では直に確かめることもできないし、それはこの疑問が永遠に解かれることのないものになってしまったことを意味する。

これまでにない豪雨が故郷を泥水の中に沈めた。県庁の土木課に務める父は警報が出ると防災用のヘルメットと作業着を持って決壊が危ぶまれる街の水瓶であるダムへと向かい、そのまま帰らぬ人となった。遺体は三日後に決壊したダムに沈んだ山麓の集落の畑の上に流された土砂の下から全国の被災地を渡り歩くスーパーボランティアと呼ばれる老人が見つけた。テレビや新聞などマスコミに連日、父のフルネームが連呼され、母のところへ報道陣が殺到した。僕は故郷から離れていたので騒ぎには巻き込まれなかったが、それは僕と長い間話すこともなかった父との確執をそのまま表していて僕は故郷で感じていた居心地の悪さを都会の片隅で感じていた。
夏の盛りを過ぎ、ツクツクボウシの声が茜色の夕陽に染まる街に届くようになった頃、ようやく全てが落ち着き、マスコミは隣国との関係悪化を煽りはじめ、僕の故郷で失われた四十六人の犠牲者とその親族には興味を失い触れもしなくなった。献花台も取り払われ、故郷に再び静けさが戻った頃に父の葬式をおこなうことになり、僕は十三年ぶりに故郷の地を踏んだ。
海沿いの埋め立て地にある葬儀場はのっぺりとした白い壁に覆われ、どこか幽玄な雰囲気が漂っていた。喪服姿の親族と再会するのも十三年前の父方の祖父の葬式以来で、デジャヴ感がそうした気分をより一層引き立てていたのかもしれない。しかし、従妹の子どもが幼児からすっかり青年へと成長していたことが現実感を取り戻させた。あの時は走り回って従妹に怒られていたのに、今は神妙な面持ちで目の前で何が起きているか把握している様子を見てふわふわしている自分を恥じた。

恥ずかしがることはない。俺だって親父が死んだ日は動揺したさ……

父の声が頭の中で聞こえた気がして、僕は頭を振った。

怖がることはない。お前とはちゃんと話せてなかったし最後の機会にゆっくり話そう。

顔を上げると、祖父の葬式の時に見た喪服姿の父が目の前に柔和な笑みを浮かべて立っていた。「おやじ!」思わず大きな声が出て、僕は親族の視線に耐えられずその場を離れた。「大丈夫だ。お前以外には見えちゃいない」動悸で息切れし、しゃがみ込んだ僕を覗き込むようにして父が言った。「見えてないって……やっぱり幽霊ってこと?」僕は口に出すのもばかばかしい質問をした。「そうだな。少し神様と交渉してお前と話す機会をもらったんだ。どっちにしろお前の守護霊としてこれから死ぬまで憑くことになるし。俺の親父だってやっと成仏したばかりさ」父(の幽霊?)の説明に僕は唖然とした。
「煙草でも吸うか?」父が生前に愛飲していたソフトケースのハイライトを背広の胸ポケットから取り出し、彼自身が咥えてジッポライターで火を点けた。
「禁煙だよ、ここ」僕は壁に貼ってある禁煙マークを指差した。最近じゃどこも禁煙で喫煙者は肩身が狭いな、と父はぼやきながら煙草の火を革靴の踵でもみ消した。「外に出よう」父がすたすたと葬儀場の正面口へと歩いていくのに僕は従った。幽霊だからか、父の背中はしぼんでとても小さくなったように見えた。
「おい、どうしたんだ? 大丈夫か?」叔父が僕の背中から声を掛けたので、僕は「大丈夫です。少し外の空気を吸ってきます」と返事をした。父は煙草を片手に空を見ていた。彼が吐き出した白い煙がゆらゆらと、空の向こうに浮かぶ大きな入道雲を創り出しているように見えた。
「まだ暑いもんだな」
「暑いとか寒いとか分かるの?」僕は素朴な疑問が口から出てまた恥ずかしくなった。

「まだ生きてる名残りがある」真面目な顔で父がそう呟き、僕は父の見つめる空を眺めた。父から一本もらい僕も吸った。ジッポライターを返そうとすると父はお前にやるよと手を振り、僕は上着の内ポケットに入れた。
「指図されるのが嫌いだったって? 叔父さんから聞いた」
「そうだったかもな。親父と喧嘩してよく家を飛び出してた」
「へえ。意外だな」
「お前ももっと感情を出せば、楽に生きれるさ」
「今さらもう変れないよ」
「そうでもないさ。何歳になったって、人は変われるもんだ。俺は少し遅れたが……最悪、死んでも変われる」
「笑えないよ……でも、そうかな?」
「そうさ」父は灰を地面に落とし、もう一度吸って煙を吐き出した。「あの時は悪かったな」と極まりが悪そうに言う父の横顔を見て「あの時って?」と僕は分かっているのに敢えて意地悪にとぼけた。こんな時まで変に意地を張ってしまう自分に反吐が出る。十三年前に母が帯状疱疹で入院した。祖父の葬式で心労が溜まっていたのが原因だった。僕の運転で痛がる母を車に乗せて病院に向かう時、助手席に乗った父は「お前がいつまでもフラフラしてるから」と聞こえるように呟いた。僕は母の体調が良くなってから家を出て相変わらずフラフラしている。父が絶対的に正しかった。だからこそ自分が情けなく、悔しかった。
「本心とは言え、あんな時に言うべきじゃなかった」父は後悔の念を明かす。本心なのかよ、と僕は思わず笑った。あ、いやと父も照れ笑いで一緒に笑う。こんな風に笑ったのは記憶にないくらい久しぶりだった。じゃあな、そう聞こえた気がして振り向くと父の姿はなかった。「おやじ?」呼びかけたが返事はなかった。

僕は葬儀場へと足を向けた。煙突から立ち昇る煙が青い空へと消えて行く。やっぱり幻想だったのかな、そう思い内ポケットに手を入れるとジッポライターに触れた。僕はその礼服がここへ来る前に実家で母が「父さんのだけど」と箪笥から出したのを思い出した。

2020年2月2日公開

© 2020 松尾模糊

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