涅槃の二流小説家

応募作品

松尾模糊

小説

3,829文字

チェーホフの銃(Chekov’s gun):物語の早い段階で用いられた要素が後段で重要な意味を持っていたことを明かす文学的技法。アントン・チェーホフの「ストーリーに持ち込まれたものは、全て後段の展開の中で用いられなければならず、そうならないものはそもそも取り入れてはならない」という持論から来ている。11月合評会テーマ「銃」応募作。【写真=The Night of the Hunter(1955)】

トルストイよりもチェーホフが好きだ。作風はもちろん、わたしの敬愛するラフマニノフを無碍に扱ったのがトルストイであり、落胆した彼を励ましたのがチェーホフであったというエピソードもこの考えに影響を与えているのは確かだ。『ワーニャ叔父さん』はわたしのバイブルでもある。しかし、わたしは小説技法における大原理「チェーホフの銃」を敢えて犯そうと考えている。それは近代文学の巨人であるチェーホフを現代文学が超えなければならない、というわたしの強迫観念にも近い義務感によるものであることは否めないが、それは表向きで彼を越えたいと思うわたしの愚かな野望がその奥底でぬらぬらと噴き出していることも正直に認めよう。もちろん、この百二十年の間に様々な前衛作品が生まれ、そしてスタンダードとなり文学の土壌は豊饒な地層で文化の高みへと昇りつめた。と同時に、映画や音楽やアニメにあっという間にその地位を抜かされたことは誰もが知るところだろう。古い家がビル群の影に陽の光を奪われるように。

 

丸太づくりのコテージの中は、暖炉に組まれた薪が炎に包まれながらパキリと立てる音以外は全く何の音も聞き取れなかった。黒いダウンジャケットの上に薄く積もった雪を払いながらコウスケは暖炉の傍へと駆け寄った。じわりとした温もりがダウンジャケットの上からでも分かるほどに伝わってきた。フードを脱いでから、首上まで上げていたジップを下げてジャケットを脱ぎ壁に掛かっていたハンガーにそれを掛けながら再び暖炉に目をやると、その上に掛けてあった一メートル弱ほどの銃身を持つ猟銃がコウスケの目を奪った。父方の祖父がよく野鳥や鹿を撃っていたことは父から聞いていたが、祖父はコウスケが幼い頃に亡くなっており、この場所に来たのも初めてだった。長年の間、祖父が残したこのコテージと山一帯の土地を父が管理してきたが、今年六十五を迎えたコウスケの父にとっては標高八百メートル近い山道を登ることすら困難になってきたためにコウスケがその管理を引き継ぐことになった。というのは表向きの言い分で、実際には三十七にもなって引き籠っているコウスケを外に出してうまく社会復帰の道に乗せるという魂胆があることも承知でコウスケは管理を引き受けた。コウスケだっていつか親がいなくなってしまう不安はあったし、鬱病でぶくぶく太ってテレビの前に一日中横になっている叔父を心底嫌っていたはずなのに自分がこうなるとは未だに納得できていないのだ。「ウェブリー&スコットの中古だよ。最近じゃ上下二連が主流だが、軽いし二発同時に撃てるから大物を撃つのにも適してる」壁に掛かった猟銃を見つめていたコウスケに薪を抱えて入って来た父が背中越しに言った。「ふーん」コウスケは暖炉の燃え上がる炎で橙色の光を帯びてくすんだ金具を鈍く光らせるウェブリー&スコットの水平二連銃をまじまじと見た。確か、カート・コバーンはショットガンで頭を打ち抜いたんだよな……血の海になった床の上に仰向けに倒れた、藍色のコンバースのワンスターとジーンズの上にニットのカーディガンを着たカートの固く握られた右拳の写ったガレージの窓枠の外から撮影された画がコウスケの頭に浮かんだ。
「外は寒かったろう。なにか温まるものを持って来よう。ココアでいいか?」やけに優しい父にコウスケは少し警戒心を募らせながら「あ、うん」と返事をした。暖炉の前に置かれた革張りの一人掛けのソファの上に掛けられた何の獣か不明の茶色い毛皮の敷物の上にコウスケは腰を下ろした。吐く息はまだ白く部屋の中に浮かんだ。ミルクココアを入れた黒い陶器のマグカップを二つ持って父が戻りソファの前にある木製のロウテーブルの上にことり❜❜❜と置いた。コウスケは右手で持ち上げて左手を暖まったマグカップに当てながらミルクココアを啜った。ミルクに溶けたまろやかなココアパウダーの甘味が口の中に広がり胃の中から冷え切った身体がじんわりと温まった。
「どうだ? 冬は少し厳しい環境だが、それ以外はとても清々しくて日々の煩わしさみたいなものをすっかり忘れさせてくれる場所だと思う。やって行けそうか?」隣の二人掛けのソファの真ん中に腰掛けてミルクココアを一口啜ってから父がコウスケの顔色を見ながら言った。「そうだね……ちょっと寒すぎるけど」コウスケは苦笑いを浮かべたが、父は互いの関係が雪解けの兆しを見せていると思い込み「そうだな、まあ冬に来るのは一度か多くても二度くらいだから、今日の経験で全てを乗り越えたようなもんだよ」と明るい口調で言ってからミルクココアを飲んだ。コウスケはいつも豪快で、たまに細やかな気遣いを見せる父の姿に自分は実の子ではなく、他に父親がいるのではないかと真剣に考える時期もあった。やがて自分に無いもの全てを持ち合わせる父に自分の情けなさを思い知らされるようになり意識的に父を避けるようになった。父もそんな息子の変化を敏感に感じ取り、思春期には子育て全てを母に任せるようになった。そんな実家から逃げるように県外の大学に進学して一人暮らしを始めて、その地でコウスケはチェーン店を多数手がける飲食業大手の営業職に就職した。しかし、その企業は後にとんでもないブラック企業だったことが週刊誌のスクープで露見したようにコウスケの心身を蝕み、コウスケは二年半でドロップアウトして以来、その後も派遣やアルバイトは一年も続かず遂に実家に戻って引き籠るようになった。高度経済成長期にひと財産を築いた祖父の背中を見て生きている父にとってコウスケの惨状は全く理解の範疇になかった。父はまるで未知の生き物と接するようにコウスケとの距離感を掴めずに、コウスケが台所から持ち出した包丁の先を父に向けるような修羅場が何度も訪れた。それだけにこの暖炉前での息子との会話は父にとって人生の最良の瞬間に感じられていた。「なあ、コウスケには好きな人とかいるのか?」最悪の一手であった。コウスケはコンビニでバイトをしていた時に出会った地元地下アイドルグループ「ちゃんぽん娘。」として活動していた同僚AKEMIに惚れ込み、ちゃんぽん娘。のイベントに欠かさずに参加し続けていた。ある夏の暑い日のこと、地元の憩いの場イオンモールでの11thシングル「ハイカラ男子の角煮まん♡」のリリイベでAKEMIのミニスカートの中をスマホで盗み撮りしていた男にコウスケは殴りかかった。特設ステージ裏でスタッフに取り囲まれたコウスケはむろん自分の正義を主張したが、手慣れた様子で揉み合いの際に仲間らしき男と瞬時に携帯を交換していた盗み撮り男の無実だけが証明されてイベント出禁をくらい、AKEMIには傍迷惑なキモ男として認識されてしまった。すぐにコウスケはバイトも辞めて恋心を封印し、人との交流を断ち、二次元にのみ心ときめく体内メカニズムを手に入れていた。「僕が好きなのは秋山澪ちゃんだお!」「お、おう。そうか秋山さんか。同級生かなにかなのか?」「放課後ティータイムのベーシストだろ、んなことも知らねーのか?」「あ? バンドメンバーか。音楽好きだったもんな、コウスケは小さい時から」「うるせー! ろくに学校行事にも来なかったくせに俺の何を知ってんだよ! 今さら父親ヅラしてんじゃねー!」コウスケは立ち上がり、暖炉の上のウェブリー&スコットを手に取って銃口を父に向けた。父はゆっくりと両手を上げながら腰を浮かせ「お、落ち着け、弾は入っていないから無意味だ」とコウスケを説得した。「サバゲーガチ勢をなめるなよ」コウスケはニヤリと不敵な笑みを浮かべてコーデュロイのズボンのポケットから赤いショットシェル二発を出し、トップレバーを右へ回しガシャンと銃身を折り曲げて二つの薬室に詰めた。「な、」父は見たことのない険しい顔をコウスケに向けた。銃身を戻したコウスケは先程までの興奮状態が嘘のように冷めた目で再び父に銃口を向けた。前方の引き金に乗せた右手の人差し指を引こうとしたその時、台所の方でガチャガチャガチャンと皿の割れる音がした。コウスケは父の後方に銃口を向けて「誰だ!?」と恐怖心を押さえる為に叫んだ。「母ちゃんも呼んでたのか?」コウスケは振り返る父に向かって訊いた。「い、いや……私たち以外には誰もいないはずだ」コウスケはそこにいろ、と父に言って台所に銃を構えたままゆっくりと歩いた。大きく黒い何かがもぞもぞと暗い台所で蠢いていた。台所の出窓から差し込む銀色の雪明りに照らされて、それが床に散らばったココアパウダーを舐める巨大な熊だということが分かった。突然の人影に驚いた熊は大きな鉤爪を剥いてコウスケに襲い掛かった。コウスケは慌てて引き金を引こうとしたがセイフティを下げ忘れて引けず熊の強靭な一撃で胸を抉られ台所に鮮血が飛び散った。仰向けに倒れた息子の血の引いた頭部が台所の入り口から見え、動揺した父は走り寄る興奮状態の熊にマグカップを投げつけたがそれは雪が溶けて少し濡れた毛に弾けれただけで床にぼとりと落ち、息子共々あっという間に肉塊と化した。

 

がちゃり、マグナム銃の撃鉄が起こされる音がわたしの背後で鳴り、後頭部に冷たく硬い銃口が押し付けられた。「こんな原稿で新しい文学が生まれるわけねーだろ」編集Kの冷ややかな口調がわたしの身体をこわばらせ、冷たい汗が背中を伝った。文学の夜明けは遠い――。                                                                <了>

2019年11月8日公開

© 2019 松尾模糊

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