玄関の電気を点け、ドアの鍵を開けようとサムターンをつまんだ瞬間……、再び私は先程の妄想を繰返した。ドアを開いた途端、コルトナイフの切ッ先が私の腸を抉ると云う可能性も完全に消えたとは言い難い。私の負の妄想がそう云う現実を「引き寄せる」のである。
さて私は半ばまでやけっぱちの境地であった。来るものが来てしまったら、もうその流れには逆らえないのだから、委ねてしまうより仕方ないのだ。
後になっておもえば、私のこんな考は、件の『「気」に合わせる』にある、次のような記述から生成されたものだと言えそうであった。
世界は、偶然で成り立っているのか、必然で成り立っているのか……。
しばしばそういった議論が交わされます。しぜん、この世には世界偶然説と世界必然説の二つが存在することになります。しかし、この二つの説の根本のところは通底しており、世界にあることのうち一つでも偶然であれば全て偶然、世界にあることのうち一つでも必然であれば全て必然、ということになります。突き詰めて考えれば、ビックバンが偶然的に起こったものなのか必然的に起こったものなのか、という命題に突き当たるでしょう。「神」というものが無条件に信じられていた十九世紀的な結論で言えば、世界は必然。「神」に「科学」がとって変わった二十世紀的な視野に立って言えば、世界は偶然、ということになります。
私は世界は必然で成り立っていると考えています。その方が自然なのです。
タイムスリップについて考えてみましょう。
よく人は、「もう一度あのときに戻れたら、同じ失敗は繰り返さないで済む」とか、「あの時に同じ決断を迫られたら、そのときお付き合いしていた人とは別れない」とかいう風に考えます。しかし、その人がもしその任意の時点に戻れたとしても、違う決断を選ぶことはあり得ないのです。
たとえばあなたは今、この本を読んでいます。今日の昼にこの本を買って今日の夜に読んでいるかもしれませんし、一ヵ月前に手に入れてはいたのだけれど、なかなか時間がとれず、今日の夜になってやっと表紙を開いたかもしれません。ですが、あなたがたとえ一ヵ月前に戻ることが出来たとしても、全く同じ行動を繰り返し、今この瞬間、この本のこの頁に目を通しているはずなのです。これって、必然とは言えませんか?
だからと言って、あなたが絶望する必要はまったくありません。
人生とは、川の流れなのです。その流れの方向と行く先は決まっており、その流れに委ねてしまえば、人は自然に「楽」な方に運ばれるのです。我々が人生に苦痛を感じるのは、その流れる方向とは正反対の方向に、自らオールを切ろうとしているときなのです。
辛いときは、立ち止まって下さい。そして、そこに流れる川の音に耳を澄ませてください。自分が運ばれている方向に、気づいてください。あなたが望むと望まざるとに関わらず、そして好むと好まざるとに関わらず、あなたが本当に望んだところに、あなたは常に流されているのです。
……正直、この世が偶然だろうと必然だろうとどうでも好い事である。そんな議論は、横光利一の「純粋小説論」を例に出すまでもなく、これまでに幾度となく哲学領域で、或いは文学領域で議論されてきた事だ。しかし哲学領域に肉薄するような思想的な「文学理論」が流行り、とりあえずは一段落して下火になった昨今、シンプルに、且つ明瞭に、「世界必然説」を提唱した猪原(尊文?)氏の右のような記述は、青天の霹靂……、私にとっては、起き抜けに顔に浴びせられたビールのしぶきの如く、テキメンに効きまくった。殺されるのであれば、其れだけの事である。其れ以上でも其れ以下でも無い。
私は震える右手を左手で押さえながら、ロックを外した。
カタン、と云う音が響いた。が、扉は開かれなかった。どうやら私が開けねばならぬらしい。
あちらから開けないと云う事は、まだ私に選ぶ権利があると云う事である。もう一度サムターンを摑んで、鍵を閉め直すと云う選択肢も私には残されている。……しかしその選択肢があるからと言って、何なのだ。まどろっこしさを上積むだけではないか。全てがコント染みてきた。この辺で幕引きで好いだろう。私は、ドアを開けた。
しかるに、そこに立っていたのは、紛れもなく宮崎氏であった。雨にずぶ濡れたコート姿は、私が想像した「暗殺者」そのものと言え、ギョッともしたし、大袈裟に言えば、心臓の止まる感じさえしたが、
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