岡本尊文とその時代(二十五)

岡本尊文とその時代(第25話)

吉田柚葉

小説

3,231文字

ルールは、俺の頭上から深い影を落とす、巨大な手だけが知っている。

 

宮崎氏のスマートフォンに脅迫の電話が掛かって来たのは、『はちみつ』で私と待ち合わせた日から更に一週間程遡る。

其の日の朝、宮崎氏は講義のために筑波大学に向かっていた。尤も朝と言っても、宮崎氏が自宅のマンションを出たのは十一時を過ぎての事であった。午後一の講義なので、それで充分間に合うのである。宮崎氏は首尾好く電車に乗込み、十五分程揺られた後、つくばエクスプレスに乗り換えるため、秋葉原駅で下車した。途端、見計らったかの如く携帯電話が震えた。非通知である。宮崎氏は怪しんでそれに出なかった。十五回ほど震えて、切れた。おもった以上にしつこかったため、宮崎氏は躰の芯の冷々とする感覚を覚えた。留守電は入っていなかった。次に掛かって来たら出てやろうと心に決め、宮崎氏は、目の前のホームに滑り込んできたつくば行の電車に飛び乗った。車内は空いていたため、ドア直の席に腰を下ろす事が出来た。宮崎氏が座る向かいの席には、眩いばかりの美人が座っていた。

 

「そんなディティールまで語っていては、話が終らないよ……。」

呆れて私は言った。

「すみません。しかし僕の考では、この女性も相当に怪しい人物なんです。」

 

怪しい、と言うのは、氏がこの女を見るのはこれが初めてでは無かったからである。近頃好く見る……、否、好く見過ぎる顔なのであった。それはここ一ヵ月の事で、頻度としては週に最低二回、例えばふらっと立ち寄った大学近くの小さな本屋や、宮崎氏が住むマンション近くのスターバックス、或いはシンポジウム参加のために大阪に行った際にも梅田駅のホームで見かけた(このときは流石に宮崎氏も心臓が止まりかけた)。其の時々によって彼女の服装は様々であり、この時は、グレーニットにグレーパンツ、その上にカーキモッズコートを羽織っており、膝には仕事用の鞄を乗せていたが、派手な顔立ちのために直にいつもの女だと判った。

目が合った。途端、宮崎氏は目を逸らした。女も目を背けた。ちらりと見えると、女の顔には激しい嫌悪の色が浮かんでいた。これも、いつもの事であった。宮崎氏は、いい加減にこの女性に話しかけてやろうかと考えた。しかし女性が席を立ち、車両を移動してしまったために、それは叶わなかった。

 

「……それは、しかし、話しかけなくて好かったのではないかな。」

と私は前のめりに言った。

「はい。僕も、初めの頃は其の女性を僕のストーカーなのではないかと睨んでいたのですが……。どうも違うらしい。それで僕、これはある種のハニートラップなのではないかとおもうのです。」

私は『黒白』の事をおもった。

「ハニートラップと云うのも言葉は違うが……、ひょっとしたら宮崎さんはその女性にストーカーに仕立てられているのではないか、くらいの事はおもうね。」

 

無論、宮崎氏としても私が指摘したような意味合で「ある種のハニートラップ」と云う言葉を使ったのであった。女性が坐っていた向かいの席を見るともなく見ながら宮崎氏は、其の日の朝に見たインターネットニュースの記事タイトルを反芻していた。即ち、「明石家さんま『ハニートラップから逃れる方法はないねん』」である。この記事の本文を宮崎氏は読んではいなかった。しかるにそれは、今の自分にとって如何にもタイムリーな、身に迫った内容であったため、明確な意思を持ってそれに目を通す事を避けたのであった。

宮崎氏は、明石家さんまに腹が立った。ハニートラップなんぞたかが知れているではないか。そんなもの、一寸注意して相手を見れば、幾らでも未然に防ぐ事が出来ように。なんにしても芸能人はそのあたりの自制意識が低すぎる。警察を呼ばれたとしても金でもみ消せば好いと云う時代などとうに過ぎたのだ。自分が今、監視社会に生きていると云う明確な事実をだな……。

この時宮崎氏は、己の考えの裡にゾクリとするものがあるのを感じた。どうやらそれは「監視社会」と云う一語であるらしかった。

宮崎氏は、ギョッとして周りを見渡した。フラッシュが焚かれたような気がしたからだ。しかしそれは、急に照り出した太陽の光が電車の窓から射し込んで来ただけであった。もとあの女性が座っていた席の隣には、女子高生が坐ってスマートフォンに熱中している。更に三人分開けて、アロハを来た中年男性が坐っている。彼も、スマートフォンを胸のあたりまで上げて、右手の人差し指でぎこちなく操作している。或いは、車両全体を見渡してみても、まばらに坐っている乗客は誰も彼もスマートフォンを手にしている。それは見ようによっては、スマートフォンのカメラレンズをこちらに向けているのだと言えぬ事も無い風情であった。宮崎氏は自分のスマートフォンの中に「無音カメラ」と云ういかがわしいアプリケーションが入っている事をおもった。これは、カフェ等で本を読む折、メモを取っておきたい頁にあたった際に音を立てずスマートフォンで写真を撮るためにグーグルストアからダウンロードした物であった。既にこのアプリケーションには何度もお世話になっており、一切音が鳴らないのは実証済みである(ちなみに「無音カメラ」で撮影された写真は「隠しファイル」と云うフォルダに移動させる事が出来る。なんのために開発されたアプリケーションなのかは考えるまでも無い)。

……国民総パパラッチ時代。

宮崎氏は胸の中でひとりごちた。絶望的な響きであった。

例えば、だ。この内の何人かが、何らかの組織に雇われ、その理由も言い渡されずに、ただ俺の写真だけを撮る業務を任ぜられているとすれば、どうだろう。ある日突然、例の女が声を上げ、俺を訴えると言い放ち、ストーカー容疑が俺にふっかけられたとして、それに連動するかの如く俺が女をジッと見つめる写真がインターネット上の掲示板にアップロードされる……、そんな未来が絶対に来ないとどうして言い切れる。一応俺は大学に勤め単著もありオンライン番組で解説に呼ばれたりもする人間だ。裁判になった瞬間、それは俺の社会的な死を意味する。この時、法廷に於ける勝敗なんぞは問題でない。ストーカー云々のごたごたが数日の間、社会を賑したと云うその事実さえあれば俺の抹殺なんぞそれで事足りるのだ。……

この考に至り、宮崎氏は激情に駆られた。猛烈に、この車両にいる人間全員のスマートフォンを確認して周りたくおもった。無論、そのような行為が許される筈は無い。もし仮にそんなような事が出来たとしても、例えば宮崎氏が誰かのスマートフォンを確認している隙に、他の誰かが、こっそり宮崎氏を撮影した写真を、雇い主のアドレスや自宅のパソコンのアドレスに送信して、しかる後に元の画像を削除してしまう、と云う操作だって出来ない事は無いのだから、これはどうしたって調べ尽す事は不可能であった。

宮崎氏は、自分が今、ボードゲームのボードに立たされていると感じた。それはどう云ったゲームともつかないが、ルールなんぞ云う物は俺と云う個人に知らされる筈も無い。ルールは、俺の頭上から深い影を落とす、巨大な手だけが知っている。或いは、その手こそがルールを掌っている。其の手は、自分の考えた手順に従って、自らのタイミングでコマを打つ。其の手の反対側の席にプレイヤーはいない。其の手がおもえば、俺を指で弾いてボードの向こうに落してしまう事だって出来るのだ。

居ても立っても居られず、宮崎氏は次の新徒町駅で下車した。氏は、ホームに設置されたベンチに座り、煙草に火を点けた。先月末から目下禁煙中であったが、カバンの中には三本だけ入った煙草の箱が奥の方に仕舞ってあった。久方ぶりに味わう煙草の味は、如何にも金属質であった。しかし経験上、次の一本が極上に旨く感じる事を宮崎氏は知っていた。くだらん女の所為で俺の禁煙がおじゃんになった、と感じた。そして次の瞬間、宮崎氏のジャケットのポケットが、猛烈に震えたのであった。

2019年6月26日公開

作品集『岡本尊文とその時代』第25話 (全32話)

© 2019 吉田柚葉

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