岡本尊文とその時代(二十八)

岡本尊文とその時代(第28話)

吉田柚葉

小説

4,025文字

事によっちゃ、警察に突き出さなきゃいけないな。

それは「ぬちぐすい」と云う沖縄料理を出す飲み屋であった。宮崎氏はカウンターで呑んでいたのだが、何時からともなく、気付けば隣に「其の客」は座っていた。

「あんちゃん、逃げても仕方無いよ。」

其の嗄れ声で、宮崎氏は「其の客」の存在を認めた。照明の赤黒い光を水面の如く湛えたスキンヘッドと、不自然な程に黒い瞳を有した「其の客」は、「人間らしくない」と云う強烈な印象を宮崎氏に与えたが、兎も角は人間だと云う事にしてしまえば、歳としては六十程に見えた。建築系の作業着に身を包んでおり、其の胸ポケットには煙草の箱が収まっている。それでいて手元にはピンク色のカクテルが置かれているのだから、どうにもチグハグであった。

「逃げる、とはどう云う事ですか。」

宮崎氏はそう問うた。警戒すべき処ではあったが、不眠が祟ってあらゆる事に現実感が無く、幾分かは、妄想に話しかけている心地であった。

「いや、俺はね、知らんよ、あんちゃんの事は。ただ、なんとなくおもった事を口にしただけだ。悪いネ、気にしないで下さい。」

「しかし其の『逃げる』と云うのは、急所を突いています。」

宮崎氏は己に言った。

「なんか悪い事したの。」

男の黒い瞳が氏を射貫いた。宮崎氏は、

「悪い事など何もしていません。少なくとも僕は其のつもりです。」

「なのに逃げているのかい。」

「変な話ですがね。」

「事によっちゃ、警察に突き出さなきゃいけないな。」

と言って「其の客」は、ピンク色のカクテルが注がれたグラスの隣に置いた久米仙のボトルを開けた。そしてそれを宮崎氏のグラスに注いだ。

「呑みなさい。とことんまで呑むんだ。」

宮崎氏は頷いた。

口をつけた。

喉が焼けた。

が、一気に飲み干した。

それは、宮崎氏のズタズタの頭に強く効いた。

「もっと。」

「其の客」の声がする。男の赤い手が視界の隅に入る。もう一杯注がれた。宮崎氏はそれも飲み干した。

「もっと。」

声がして、自動的に宮崎氏のグラスに酒が注がれる。

「兎に角呑みなさい。君に足りないのは、アルコールだよ。」

宮崎氏は其の声に従った。

そうしたやり取りが何回か取交わされた。或いは何十回かも知れなかった。結果として宮崎氏は久米仙ボトルを二本開けた。……

宮崎氏は、「其の客」に連れられ外に出た。宮崎氏は、「ぬちぐすい」で寝てしまうつもりだったのだが、どうした事か、「其の客」の声に従っていた。それは、宮崎氏が酩酊していたためでは無い。では、何のためかと言えば、言語化は出来なかった。

宮崎氏は男と共に雷門をくぐった。

「其の客」は自分の来歴を語り始めた。

男は大学で量子テレポーテーションを研究していた。「其の客」の研究結果は〝ノーベル賞級〟の発見と言えた。が、男の論文が『日本化学会誌』に掲載される事は無かった。それは「ある大企業」の圧力に依るものであった。

暫くして、男の研究室に所属していた女子学生のセクハラ告発のために、男は書類送検された。其のセクハラは男には全く身に覚えの無い事であったが、結句、執行猶予付で男の有罪が確定した。「其の客」は大学を立ち退く事となった。三年前の事である。

「圧力と云うのはネ、もう、どうにもならん事なのよ。『大きな手』が、こう、俺を上から摘まんで、こっちからこっち……、つまり『大学教授』と云う箱から『性犯罪者』と云う箱へとネ、まァ簡単な物ですよ。あちらさんが、そうと決めたらそれはもう、そうなのよ。決まった事は決まった事なんだナ。」

此の言葉を聞くに及んで宮崎氏の躰に異変が起こった。途端、凄まじい重力が宮崎氏を包み、其の場に尻もちを附いて倒れた。オイ、ニイチャン、と云う男の声が壁一枚挟んで聞えた。それはどうにも茫としていた。宮崎氏は、靄がかった頭のまま、

「ア、いや、大丈夫です。」

と、如何にも大丈夫そうに言った。其の声だけが自分の躰から離れて発せられた風だった。立上がる事は出来たが、地球の引力の下に足は覚束無く、三半規管が滅茶苦茶に成っているのが確からしく感ぜられた。「其の客」は宮崎氏に肩を貸した。

そのまま、宮崎氏はどこかへ連れて行かれた。道は少しく下り坂に成っているようであったが、ともすれば、アルコールの所為でそうおもうだけかも知れなかった。

ふとした瞬間、ひどく冷えた夜である事に宮崎氏は気付いた。が、気づいた先から、躰はホカホカと温まり、一向に寒さを憶えなかった。ただ、宮崎氏の顔に、男の酒臭い息が覆い被さった。

数百メートル程行くと、白い光が目にしるく映った。自販機であった。男は、コンクリートの地べたに尻が着くように宮崎氏を座らせ、何か言って、自販機に近づいて行った。

項垂れる宮崎氏の耳に、ガタン、と云う音が入った。数秒後、目の前に「其の客」の顔があった。男はしゃがんだ体勢のまま又何か呟いて、ペットボトルの水を置いた。宮崎氏は、

「ありがとうございます、大丈夫です、大丈夫です……。」

と虚ろに言って、キャップを外した。水を飲むと、余計に早く酔いが回る事は宮崎氏も知っていたが、何か縋るようなおもいが宮崎氏の胸に去来した。宮崎氏は其の甘美な水を口に含んだ。

途端、暴風が来た。狂った風が宮崎氏の右手からペットボトルのキャップを奪った。

視界の端がチカチカと赤く点滅した。それは、今しがた氏の目の前を泳いで行った狂った風の、尾ひれの残像と見えた。

視界はモノクロームに覆われた。先ず左目の視力が失せ、次に右目の視力が失せた。最後に、赤い点滅が血の滴る如く視界の隅に残った。宮崎氏はブラックアウトした。

――急性アルコール中毒。

宮崎氏の脳天を其の言葉が貫いた。宮崎氏は落ち着いていた。「其の客」に殺されたとはおもわなかった。目の前に「こちら側」と「向こう側」の堺が見え……、しかしそれは、ただ踏み込めば直ちに「向こう側」へと移行出来ると云う物でも無いと感じた。宮崎氏が感じたのは、自分の躰が茫漠たる闇へと溶けて行くと云う感覚、ただそれだけであった。最早そこには重力と云う物が無かった。「こちら側」から引きはがされるけはいも無かった。浄化された精神だけが確たる「芯」を保ち、躰と云う「物質」が沙漠の砂の如くサラサラと風に攫われて行くのであった。此の時確かに宮崎氏は、「中庸ニュートラル」を体現したと感じた。……

其の感覚は五分程も続いた。だがそれは、宮崎氏の感じた処に従ってはじき出された算段に過ぎない。実際は、一分にも満たないだろう。次に「こちら側」へと帰還した時、宮崎氏は自分と云う物が全く変わってしまっているのを確認した。宮崎氏の感覚として、「こちら側」は全く現実感を失っていた。一瞬前、自分を俯瞰して眺めた経験が、己のDNAに深く刻まれ、後ろを振返れば、直ぐそこでもう一人の自分が視線を送っていると感じた。そうして二重になった宮崎氏は、「見る自分」と「見られる自分」の間に、「世界」……、或いは「宇宙」が、急激に圧縮され、同時に、押し止めようも無く広大に広がって行くのを感じた。此の時「宇宙」とは紛れもなく「自分」であり、「宇宙」が広大であるように「自分」も広大であるし、「自分」がちっぽけであるように「宇宙」も又ちっぽけであった。宮崎氏は、ただ、豊穣と云う事をおもった。

次の瞬間、宮崎氏の視界が上昇した。要するに、氏は立上がったのであった。目の前に男の顔があった。街灯に照らされた男の顔には、イエス・キリストのおもかげが走った。とは言え、男の顔はキリストのそれとは似ても似つかぬ物であった。なんと言っても、スキンヘッドであるし、顔の作りも、これはどうあっても東洋人のものであった。だがそれは、イエスをおもわせる顔のパーツをひとつひとつ丁寧に避けていると云う事に他ならず、ひとつずつずれた其の向こうに、イエスの存在が色濃く映っていると見えた。

「大丈夫かい。」

男は言った。否、言ったとおもわれた。男の口が僅かに開き……、其の声は大気中を伝う事無く、直接宮崎氏の頭に響いたのであった。

「大丈夫です。」

宮崎氏は、何度目かの其の言葉を吐いた。「其の客」は宮崎氏に歩けるかと問うた。宮崎氏は是と答えた。

だが宮崎氏には、歩ける自信が無かった。今正にこの世に生を受けたばかりの宮崎氏は、赤子も同然であり、果たして自分は歩き方を知っているのか、知っていたとして其れを上手く実行に移す事が出来るのか、甚だ心許無いのであった。だが「歩ける」と言った以上、歩けない筈が無いともおもった。寧ろ、歩けない事は在り得ないとさえおもった。

宮崎氏は、男が差し出した掌を乱雑に振払い、先ず一歩、踏み出した。コンクリートの地面は、宮崎氏の酔いのために、グニャリとした感覚を氏の足の裏に与えるかと見えたが、踏み込んだ先はいっかな宮崎氏の体重にびくともせず、頑として其の強固さを誇った。氏は、其の事に意外の感を覚えると共に、仄かな感動に胸を打たれた。「受入れられた」と感じた。踏み込んだ足を取込んでしまわぬ地面の「現実らしさ」は、世界と云う物の揺るぎなさに他ならないと氏はおもった。それは、拒否では無く肯定であった。それは、生まれ変わった宮崎氏の出来しゅったいへの、宇宙からの祝福であった。宮崎氏は、完全に自分の物と成った其の地面に、一歩、そして又一歩と足を踏み込み続けた。

 

「……それで、『其の客』とは結局どうなったのですか。」

と私は言った。宮崎氏は、「判りません。」と言い、

「気づくと僕は、男と別れていました。」

と続けた。

「記憶が無いのか。」

私は唖然として言った。一体これは何の話なのだろうとおもった。

「そんなにがっかりしないで下さい。」

「……がっかりはしてないが……。」

私は時計を確認した。時計は殆ど動いていなかった。どうやら私は、宮崎氏の語る物語中の宮崎氏と同化していたらしい。闇へと溶けて行く「其の客」の姿を、確かに私は「見た」とおもった。

「しかし次の日、奇妙な事に気が付いたのです。」

と、宮崎氏は言った。

2019年7月6日公開

作品集『岡本尊文とその時代』第28話 (全32話)

© 2019 吉田柚葉

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

"岡本尊文とその時代(二十八)"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る