岡本尊文とその時代(二十九)

岡本尊文とその時代(第29話)

吉田柚葉

小説

4,997文字

三次元の世界には存在していないと考えられます。

明くる日の午後、宮崎氏はビジネスホテルの一室で目を覚ました。昨夜あれ程呑んだにも係わらず、久方ぶりの好い目覚めであった。氏は体重をかけると自然とそれに従うベッドの感覚に身を委ね、ほど好い温もりで躰を包む布団と、頭を支える枕の柔らかさを愛おしみ、呼吸をする度、心地好く躰を抜ける冬の日の冷気に己の健康ぶりを確認し……、途端、飛び起きた。窓を開け放ち、外を見やると、眼下に擾々たる下町のけしきが広がった。これは浅草近辺と見えた。すると昨夜、此の辺りの道を一人で歩いた気がして来た。尤も、其の際はこんな風に俯瞰して町を眺められた筈が無いため、記憶は曖昧で、確信は無かった。

何とは無しに、テレビ台の引出を引いた。即座に利用案内のバインダーが覗いた。それに依るとここは「浅草セントラルホテル」と云うビジネスホテルのシングルルームであるらしい。其のホテル名に心当たりは無かった。浅草の下町を歩いた記憶は薄ぼんやりと辺りを揺曳しているけはいであったが、肝心の、ホテルにチェックインした一連の流れは、記憶から全く抜け落ちてしまっているのだ。闇の中を歩き、闇の中に沈み、そうしてこのホテルの一室へと投げ出されてしまったように宮崎氏には感ぜられた。

次に宮崎氏は、自分の服がひどい臭いを放っている事に気付いた。既にして一週間も着替えていないのだから、これは当然と言えたが、それにしてもあまりにドブ臭かった。

宮崎氏はバスルームに入って熱いシャワーを浴びた。シャワーから放たれる湯は、宮崎氏の皮膚を打ち、執念深く氏の躰に張付き続けていた透明な鱗を弾き飛ばす勢いであった。宮崎氏の赤茶けた肩に水が流れ、冷え切った室内に湯気が立上った。宮崎氏は其の心地好い熱さに骨の髄まで感じ入った。……

躰を洗い、バスルームを出、洗面所の前に立つと、鏡に見知らぬ顔があった。形の好い眉毛の下に切れ長の目は爛々と輝き、筋の通った形の好い鼻の下に座り好く一文字に閉じられた口は強く引締まり、湯気の中、細面を白く讃えた此の美しい顔は、紛れもなく宮崎氏の物であった。しかるに、物心ついて以来初めての顔であった。氏は鏡に顔を近付け、其の誰とも知れぬ顔を睨んだ。眉をしかめてみせたり、口角を上げてみせたりした。其の度、鏡に映った顔は普段から見慣れた自分の顔へと近付いて行った。

三分程そうしていると、すっかり尋常の顔へと戻ってしまった。皮膚はイグアナの如く乾き、先程の美青年の面影は失せ、これはむしろ年相応と見えたが、少しく吊り上がった目尻に残った微かな美青年の面影は、苦労を知らぬまま二十歳以降の十年をやり過ごした、宮崎氏の精神的な幼さを体現した風であった。つまり顔全体を総合して見ると、如何にも「子どもっぽい」のである。街で見かける分には、年齢不詳で好いものの、インターネット番組に出演した時等、視聴者の目にはどう映っていたのだろうか。此のような見た目の男が、どれだけ政権を揶揄するような発言をしたとしても、説得力云々以前の問題なのではないか。ともすれば俺は、例の番組では「おもしろ枠」として呼ばれたのやも知れぬ。だとすれば随分と失礼な話だが……。

と、暫時自分の顔と対峙していると、何処からか唸るような音が聞えて来た。いや、これはハッキリ携帯電話のバイブ音であった。宮崎氏は敢えてゆっくりとバスタオルで身体を拭き、冷水で顔を洗うと、歯磨き用のコップに水を淹れて、一気に喉へと流し込んだ。そうして裸のまま部屋に戻り、ハンガーに掛けたスーツのジャケットのポケットを確認した。ランプが青く点滅したスマートフォンがそこにあった。ロックを解除すると、留守番電話のマークが出ている。見ると、知らない番号である。恐る恐る「発信」をタップし、スピーカーモードにすると、留守番電話サービスの音声が流れた。しかる後、くぐもった男の声がした。

「……エー、イイダさんのお電話で間違いありませんでしょうか。浅草セントラルホテルのフロントの者ですが、既にチェックアウト時間を過ぎております。至急、ご連絡下さい。」

これを聞くに及んで、宮崎氏は躰中の力が抜けて行くのを感じた(イイダと云うのは、ここの処、宮崎氏が方々で名乗っている偽名である)。スマートフォンのパネルを確認すると、十二時を十五分ばかり過ぎていた。氏は折返し電話を掛け、もう一泊する旨を伝えた。そうして電話を切り、今一度、ジャケットに目を移した瞬間、宮崎氏は如何ともし難い違和感に襲われたのであった。

 

「違和感とは。」

珈琲の入ったカップに手を伸ばして、私はそう問うた。で、一口含んだ。宮崎氏は、

「ジャケットのポケットが、なんだか変な形に膨らんでいる気がしたのです。」

と言った。

「気がした? 実際に膨らんでいたのではなくて?」

私は少し意地悪にそう言った。

「実際に膨らんでいました。」

宮崎氏はこともなげに言った。私は苦笑した。そして、「なるほど、ね。」と、意味の無い事を呟いてみた。

宮崎氏は、構わず、

「それで、実際に膨らんでいたのですが……。」

と語り出した。

 

始め、その膨らみはポケットティッシュかとおもわれたが、それにしては、角ばった処が見られた。宮崎氏は警戒した。文庫本かともおもわれたが、一週間共にしたジャケットである、そんな物が入っていたらとうに気づいている筈だ。宮崎氏は、ゆっくりとジャケットに近づいて、上からポケットを覗き見た。

札束であった。

自分の躰の影に成ってどうにも見え難かったが、間違いなくそれは札束であった。

宮崎氏は、勇んで其の札束を手に取った。見た感じ、百枚はあった。氏はそれを机まで持って行き、ライトに当てて、自分の財布から出した一万円札と照合してみる事にした。宮崎氏の裸の上半身には、冷たい汗が粒を作って輝いていた。

束になった一万円札は、全てピン札らしかった。角に折目の一つもなく、ツルリとした手触りがした。上から二枚目を引抜き、机の上に置き、自前の一万円札と並べる。自前の一万円札は、二つ折りの財布に入っていた所為で中央に深い折目が刻まれており、そうでなくても明かに草臥れていて、一目瞭然に、何年もの間、人から人へ旅を続けて来た事が窺えた。眺めて、心を動かされるのは寧ろ自前の一万円札の方であった。

しかしそれ以外は、これと云った違いは見られなかった。つまり本物の一万円札の束であるらしかった。

そうと決めつけてはみたが、未だ宮崎氏の胸のざわめきは治まらなかった。無論、このような物が知らぬうちに己のポケットにつっこまれていた、と云う恐怖に依る処も当然あったが、それとは別に、これら札束そのものに対する不信感がとりわけ強く宮崎氏を揺さぶっているのであった。端から端まで見比べてみても、幾度透かしを確認してみても、自分の生理が、これは贋札だ、と主張して来るのである。で、ふとした瞬間、福沢諭吉の目尻に小さな黒子を見たような気がしたり、「10000」の「0」が一箇多いようにおもえたりするのであった。そしてそのように見えた次の瞬間には、そうした間違いが、花びらの真似をして景色に溶ける蝶の如く、さっと姿を消し、元の「間違いの無い一万円札」に擬態するのであった。そんな事を、宮崎氏は、二十分程も続けた。

 

「……その札束と云うのは、今も持っていらっしゃるのですか。」

キナ臭くなって来た氏の話に動揺しつつ、私はそう問うた。

「持ってます。……あの、コートのポケットに……。」

私の脳裏に、雨にずぶ濡れ、強風に煽られながら、家の前に棒立ちに立っていた宮崎氏のコート姿が浮かんだ。私は、あのずぶ濡れたコートを受取り、この手で洗面所のハンガーに掛けたのである。当然、其の時は、ポケットの膨らみなんぞ気にも止めなかった。……いや、本当に気にも止めなかったのだろうか。コートを二つ折りにして抱えたとき、腰の辺りに何かごつごつとした物がぶつかったのを、確かに感じたのでは無かったか。

宮崎氏の強い視線が飛んでくる。

「持って来ましょうか。」

そう言うより仕方無かった。宮崎氏は頷いた。

 

私は、洗面所に足を踏み入れた。白のワイシャツが目の前にあり、其の隣がハイネックのインナーシャツ、さらに其の隣に緑のズボンがかかっていて、その奥、丁度影に成って見えないが、湿器の真上に件の漆黒のコートが揺らめいている筈であった。洗面所は、加湿器を稼働させていた事もあり、ひどく蒸されており、緊張もあって私は、脇の辺りが汗ばむのを感じた。

ワイシャツを潜り、洗面台の前に立った。目の前には鏡があり、既にそこには、例のコートが映り込んでいた。私の背後に並んだ、干された洗濯物の中で、ただそれだけが、左右に小さく揺れている。私は、何と云う事もなく蛇口を捻り、掌に水を汲んで、口をゆすいだ。そして顔を洗った。鏡を確認しながら、背後にかかったハンドタオルを一つ剥ぎ取って、顔を拭いた。すると、ガサガサになったタオルの感覚の他に、鼻の頭に、何かむず痒く、熱を持った感覚が走ったのを感じた。ハッとして見やると、真っ白の布生地に、真っ赤な花が咲いていた。鏡を確認すると、案の定、滂沱たる鼻血が流れているのが判った。頭に沙漠が広がった気がした。

暫くジッと鏡を見、我に返ると私は、手元に置かれたボックスティッシュから何枚か取って、鼻に詰込んだ。すると、それは直に赤く染まった。で、それを鼻から抜いて手元に置くと、又何枚かティッシュを取り、同じように鼻に詰めた。それを四度繰返すと、鼻血は止まった。鏡を見ると、鼻の頭に血の染みが付着していたので、それも拭き取った。そうこうしている内に、まったく自分は何をやっているのだろう、と云う気が起った。ふと宮崎氏の話は全て嘘なのではないだろうかと云う考が起こった。再び鏡を見ると、なるほど、コートの右のポケットの端から、札束の端の処がはみ出しているのが見えた。振返り、其の札束を抜いて手に取った途端、私の右耳の上の辺りに、何か硬い物がぶつかったのを感じる。それは宮崎氏が私に向けた拳銃の銃口であった。……

そうした事を考えて私は、陰鬱な心地になった。全くの妄想である。宮崎氏が私に銃口を向ける理由など何も無いし、そもそもどうして宮崎氏が拳銃を所持しているのか……、我ながら、大凡文学研究者とはおもえない、貧弱なイメージである。では、これをナイフに変えてみたらどうであろうか。なに、同じ事である。どうしたってこれは、C級の自主制作映画に違いない。だが、その話の筋がC級であろうとD級であろうと、現実に、私に向けられた凶器がその役割を全うしてしまえば、私の命は無い。死んで、それで終りである。それを喜劇と呼ぶのも悲劇と呼ぶのも、残った者の自由である。私は精神生命体と化して、それで終わりなのだ。

精神生命体。

何故私は今、そんな妙な語彙を使ったのであろうか。……いや、何故も何も無い。これも又、猪原の入知恵である。奴が、何だったか、そんなような事を例の本の中で書いていたのだ。

 

  完璧な中庸ニュートラルというものがあるとして、そしてそれが実現できたとして、その人は喜びを感じるものでしょうか。おそらく、喜びも悲しみも、感じなくなってしまっていると思われます。それこそが、「自然=中庸=ニュートラル」だからです。ですから、そうなってしまった人はもう、三次元の世界には存在していないと考えられます。中庸ニュートラルを体現した「精神」はおそらく、肉体を離れ、五次元の世界に完全に移行してしまっているのではないでしょうか。こうしたことを、これまで人は「死」と呼んできましたし、わたしたちの言葉で言えば、「精神生命体になる」、と言います。あくまでわたしたちは、人生を「快楽」として楽しまねばなりません。もちろん、それが悪いと言いたいわけではありませんが、ともかく皆さんが生きるべきは、「今・ここ」ですので、完璧な中庸ニュートラルを目指す必要はないのだということを、今一度強調しておきます。

 

私は、この文言を一字一句暗唱する事が出来る自分に恐怖を感ずると共に、その言葉に勇気付けられている自分を発見した。それに不愉快を感じるものの、湧き上がった勇気は確かにそこにあった。私は振向き、コートのポケットに手を突っ込んで、札束を手にした。

2019年7月10日公開

作品集『岡本尊文とその時代』第29話 (全32話)

© 2019 吉田柚葉

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