岡本尊文とその時代(二十一)

岡本尊文とその時代(第21話)

吉田柚葉

小説

1,781文字

おまえが、その波をせき止めなくてはならない

其の日の夜は寝つけなかった。蒲団の中での鬱屈とした時の流れに耐え切れなくなった私は、書庫から旧版の谷崎全集を引っ張り出して来、書斎の室内灯は点けず、ライトスタンドで手元を照らし、葡萄酒を片手に、『黒白』を舐めるように読んだ。記憶に違わず不出来な小説ではあったが、今の私にとってこれほど切実な小説も無かった。私の中で宮崎氏は既に死んでいた。

してみると、学部長が私を呼び出したのは、私にアリバイを作らせないためではなかったか。私が大学の会議室で拘束されていた数分間と時を同じくして宮崎氏は何処かで誰かに殺害されていて、其の現場には犯人が私であると断定するに足る動かぬ証拠が残されているのではないか。とすれば、例の刑事たちは私の家から私の髪の毛かなんかを採取するために私の家を訪ねて来たのではないか……。

外は雨であった。それも、毎秒ひどくなっているけはいで、気分を落ち着かせるためにステレオで流した、ジョニ・ミッチェルの『ブルー』が、雨が窓を叩く音の所為で全く聴き取れなかった。

 

 「――一言にして云えば、僕は運命のいたずらで、最も嫌疑を蒙るべき事件の起った瞬間に、全く世間から姿を消すような地位にハマり込んでいた。僕はその時その女からお伽噺の隠れ蓑を着せられていた。強いて憶測すれば、誰かが僕を陥れようとして、その女を道具に使って、……」

「はは、それはあなたの続編に出る影の男の話ですな。あれは民衆者の校正刷りで拝見しましたが、小説の方なら孰れゆっくり本になってから拝見しましょう。」

「あ、そう、そう、水野さんはたいそう痛い目を恐れておられるんですがね。」

と、渡辺が上役の方へ妙な目配せをしながら云った。

「ひどく臆病なたちなんで、痛い目に遭うと直きに白状してしまうッて、自分で云っておられるんですが、――どんなもんでしょう? 試しにちょっと……」

「そ、そ、そんな――……………、そんな卑怯な事ってないじゃないですか。」

水野は急に泣き声を出したが、上役はそれを大きく打ち消すように大きく笑った。

「はっ、はっ、はっ、いや、……ただあなたには良心の呵責がないそうだから、少しばかり外から呵責を手伝ってみるだけですよ。」

「ああ」

と云って水野はデスクに突っ附したが、直ぐに誰かが後ろからその右の手を摑んだ。「少し痛くなりますよ。」

そう云う声が聞こえると同時に、彼は指と指との間へ鉛筆のようなものが挿し込まれるのを感じた。

 

……小説はここで終わっている。水野が発した「誰かが僕を陥れようとして」と云う言葉は、刑事たちには噴飯物であろうが、切迫した訴えとは往々にして噴飯物なのである。しかるにこのような訴えは、どれほどの力も持たない。ここからのハッピーエンドは絶対に在り得ない。小説だからでは無い。村上春樹が、「壁と卵」の隠喩で言った通り、組織と個人がぶつかり合ったとして、万に一つも個人には勝ち目が無い。とすると、巨大な渦に巻き込まれた時点で其の個人の運は尽きたものと考えて好いわけだが……。

私は、ノートパソコンを開き、「警察 拷問」で検索をかけた。

それに依ると、どうやら現在、拷問らしい拷問は行われていないらしい。「警察に何回も捕まってる」と書く人間は、「机を蹴飛ば」すくらいの事はあると書いている。が、なんと言ってもインターネットの情報だ。それに、こんな罪の小さい人間の例を出されても安心など出来よう筈も無い。或いは、拷問は行われないとしても、自殺に見せかけて消されると云う事も……。

窓が音を立てて揺れた。狂った風が横殴りに殴ったらしい。私は、背中にひどい汗をかきながら、どこか落着いた心地であった。これだけ強い雨が降っていたら、私を殺しに来る刺客も、そうそう私の家に辿り着くことは出来まい、とおもった。

風の止み間に、ジョニ・ミッチェルの歌声が届いた。

 

 全部が沈んでゆく

おまえは考えなくてはならない

おまえが、その波をせき止めなくてはならない

 

酸、酒、灰

数え切れぬ針、大量のガン、

飛び散るガラス

そして

知らない奴らの笑い声

 

ほら、

奴らの声が聞こえるだろう……

 

見ろよ

ぬかるんだ道が

たとえしえもなくつづく

この先は地獄だ

なに、考えても無駄さ

 

地獄を見てしまえばいいのさ

 

 

……インターホンが鳴った。

2019年6月12日公開

作品集『岡本尊文とその時代』第21話 (全25話)

© 2019 吉田柚葉

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