叙景なり

渡海 小波津

1,071文字

叙景文とは存在しうるのか。

情景とは感情を風景に乗せて描く描写である。感情を捨てた描写もまた無感情という一つの心の状態を表していることにならないであろうか。――ここに一枚の写真がある。これを私は、手渡す。受け取った君はまずこう言うだろう。

「これは君の故郷かい? 田園が綺麗だね。遠くに見えるのは何ていう山だい」
と。ここで考えて欲しいのは、君がこの写真を渡されて視界に入れたのが全てであっても、関心をもったのは田園と山だということだ。

ここで君の心が入ってくる。

 

この写真を撮ったのは、昨年の五月であっただろうか。久々に帰った故郷の写真でも撮って帰ろうとデジタルカメラを構えたのだ。見慣れた景色の中で何を撮ろ うかと少し迷った末、いつも眺めていたこの田園を、と決めたのだ。カメラを構え、一番田園が美しく映るバランスを探す。青と緑の比率にこだわり、シャッ ターを切った。

ここで私の心が入ってくる。

 

田園だからいかん。人が作りし風景など所詮人工物にすぎぬのだろう。山だ。森を撮ろう。木々を撮ろう。雑木林なら人の手によらぬところだろうか。いや、日本の森はたいていが一度人手の入ったものである。雑木林とてその成れの果てではないか。松林、竹林、杉林、とてとて。

では川なら、では海なら、では湿地帯なら、と考えたとて人、人、人。ではでは、この世界をすべて破壊し無に帰して、そこに自然とできる森や川を……、とて帰すに人手加わりければ、同じなり。

人手が入る故に、それを描く際、撮る際に心が入るのだろうか。いや目によるものかもしれない。絵を一度に、写真を一度に見たとて、眼球はくるくるとそれを見渡す。そして特徴付けるように意識に上る部分を見つけて心を入れるのだ。

漠然とあるまでが叙景。意識して情景。叙事とて等しからずや。

 

ここに一枚の写真がある。これを私は、手渡す。受け取った君はこう言わねばならないだろう。

「これは写真だね。風景のようであった」

と。ここで君がこの写真を渡されて視界に入れたのが全てであって、関心をもったものが何一つあってはならないということだ。

これが叙景である。

 

この写真を撮ったのは、昨年の五月であっただろうか。久々に帰った故郷の写真でも撮って帰ろうとデジタルカメラを構えたのだ。見慣れた景色の中で何を撮ろ うかと少し迷った末、いつも眺めていたこの田園を、と決めたのだ。カメラを無作為に構え、そのままシャッターを切った。

これが叙景である。そこに田が映るか否かに因らず叙景となる。

 

何と恐ろしいやりとりであろうか――、と私の心が入る。

2013年2月11日公開

© 2013 渡海 小波津

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