渡海 小波津

1,273文字

木とは何か、叙景文を書く中で風景の要素となる木について考えた。
散文的な文体で坦々と書かれている。

 

認識としては森の存在そのものが先行し、その内に木という森を構成する要素を知ることになる。これは物体の認識から物体、分子、原子といった化学的発見が良い例と言えるだろう。

つまり、森を認識した私はついに木というものを知ったのだ。

 

本当に知ったのだろうか。

木を構成する原子から分子を考えたとき、その分子がどんな割合でどのように連結していれば木なのだろうか。どの程度の割合以上から木なのだろうか。構成比 によるのか、分子の総数によるのか、はたして分子を寄せ集めただけで木と言えるのか。有機的循環がなければ死に体ではないのか。木、木とは何か。私はつい 木というものを知った気になるところであった。

 

木を認識することは子どもでも可能である。言葉は知らずとも動物も木とそうでないものに区別はつけられるだろう。木というのはそもそも日本語を母国語とする我々が当てた記号でしかない。treeと言えば英語圏によるものだが、結局同じものを指し示している。

本当だろうか。その実、同じものを指していながらに本質違うところを指してはいないだろうか。ある男性を指してbrotherと言い、また別の男性を指し てbrotherと言ったとしてそれが兄である場合と弟である場合がある。これは簡単な一例にすぎないが、では愛とloveは本質的に同じなのだろうか。 英語圏では少なからず宗教的意味合いが含まれてはいないだろうか。一方で愛にはそれが含まれているかと言えば、些か押し付け的なものであって、人との間の 一感情に留まっていはしないだろうか。

さて、木について話を戻そう。木をただの分子の集まりとして考えてはならない。また有機的循環があるだろ う。細胞や化学的反応があるだろう。光合成には太陽の光が関係しているだろう。そういったものを一度脇に置いておいて、文学的な木について話をしてみよう と思っている。少しは木について何を言いたいか認知して頂けただろうか。

 

木が立っているとする。鳥の鳴く声が時折聞こえるばかりである 森に立っている木である。その声が木の深緑をより深めるようで、一鳴き、一鳴きする度に緑の深さは深淵へと達する気さえしてくるのである。木はただそこに あるばかりで、深淵へと導く声と淀んだ空気と腐葉土から香り立つ温さが混じり込む。その幹のみが佇む森である。木が葉を生み、葉を落とし、葉を腐らせる。 葉で息をし、葉で空気を湿らせる。死した葉と生きとし葉の間に佇む幹のみがただ天井にぶら下がっていて、地の底もろとも大地を鷲掴みにしている。大地から は命が上る脈々と大樹を廻り、葉を裂かぬようにしながら染み出るように、ただ静かに空へと帰っていく。再び大地に戻るときは葉を打ち、地を打ち、深く染入 り根底を抜ける。そんな水の抜け道のごときもまた木であり、森に正立するも木であり、木である。

木を知ることがいかに難しいか知ることに至ることが、木を知ることであろうか。否。

ただ在り、それを認めて木である。

 

2013年4月6日公開

© 2013 渡海 小波津

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