渡海 小波津

小説

2,816文字

雨。様々な情景を見せる雨。雨に名前がこれほどまでにある日本の精神の豊かさを省みたい。

 

さようなら。

そう書かれた手紙を握り締めて、塀の四歩手前に私は佇んでいる。通りは小雨が降り始め、私の衣服を序々に湿らせていく。足元を避けるように地を濡らしていく、そんな雨跡に私は目を落としながら先日のことを思い返していた。

私は、友人二人と大学前の通りを歩いて帰る途中だった。この日は、天気も好く、通りに並ぶ家々の合間から、都度都度、西日が右頬を赤く染める。その度に私は右目をつむり、左の友の話に耳を傾ける素振りをするのである。と、言うのも先ほどから、遠目に見える犬が気にかかっていたからだ。

遠目には、一人の女性が何かを抱えながら、犬を追い払おうと、やや怯え気味な様子で立ち竦んでいるようなのだ。

すると、友人の一人も気付いたらしく、

「あの犬、荷物を狙ってやがるな」と言うなり、犬の方へとずんずん向かって行ってしまった。私と残された友人は、やれやれと言いたいところを敢えて言わず、彼の後に続く。

「おい、やめないか。嫌がっているではないか」正義漢のもとへ着くと、犬を説得せんとする彼と獲物を横取りに来たと勘違いする犬と、もう何でも良いからこの事態から解放されたいといった表情の女がいた。中型の日本犬でやや骨ばってはいるが、牙を剥き出し、威嚇する様からは、容易に諦めてはくれなさそうである。女の方は、顔から察するに若いようで、私より二、三下か同じくらいであろうか。淡い桃色の生地の着物に、珍しい若葉色の鼻緒が映える。

私はつま先に転がる小石を拾って、犬にか男にか、どちらかにでも当たれと思った分けではないが、そこいらの方に向かって放った。石は若干の弧を描きながら犬の横っ腹に当たると、突然のことに驚いたようで、男に吠え掛かった。これには男も驚いたようで、わっと声を上げながら、通りの向こうへと走っていってしまったのだ。犬も追うように去ってしまった。

残された女性は、安堵の顔を浮かべてから、私のほうへと歩いてきて、俯きながらにありがとうございますと言うと、頬を染めつつ、とっとと去っていってしまった。日は暮れ、鈴虫の透明な声がどこからかそっと、聴こえてきた。

その翌日、厚い雲に覆われた通り、私も皆と同じ心配をしつつ、傘を片手にゆく。雲は今にも溜め込んだものを降り落としそうだが、いっこうに通りを行く私の視界には昨日の女性は入ってこなかった。

結局、雨も降らないまま私は家に着いた。

 

 

季節は流れ、遠山に千切った綿雲が浮く春のことである。学年も変わり、空気はすっかり温まり、新鮮な空気を胸一杯に吸い込み私は大学へと向かう。

通りには桜が舞う。それを見ると、またいっそう春の最中にあることを深く感じるのである。そんな通りを歩きつつ、ふと一軒の家の前で立ち止まる。

時期の終わった梅の木に、めじろのつがいがおるではないか。チチチチと互いの嘴をついばむようにしている。しばらくそれに見入っていると、鳥のほうが気付いたらしく、恥ずかしげに飛び去っていく姿に、より春らしさを感じた。

塀越しに、その木の先を覗くと、どこかで見覚えのある女性がおるではないか。ああ。確かに、確かにあのときの女性である。あのときの鈴虫の声が鮮明に思い出されるようだ。女は軒先で竿に浴衣を干している。浴衣は落ち着いた深い藍の色で、彼女には些か大きすぎやしないかと思うくらいのを干している。その隣にせまぜまと女性物の柄が並べられる。

ああ――。私は、不思議な気持ちになっていることに気付く。なんだろう。毎年来るつばめが、今年は隣家に巣を作っていたような。はたまた、珍しく張り切った夕食を前に、残業の連絡をもらう新妻のような。否、告白をして、相手に想い人がいることを知らされた男のような感傷だろうか。さきほどまで見ていた遠山の浮雲も、唯一つ空ろ気な様子で漂っていて、桜も白き灰のごとく静かに舞っているのだった。

その夜、縁台に掛け、朧月の空、流れゆく雲の切れ間を眺めながら、月の出るのを待っていた。春といえども、夜はまだ冷える。甕覗の浴衣の袖に手を突っ込み、腕組みをする。やはり風の冷たさを感じずにいられず、月ももう出ないだろうと、私は部屋へと戻った。朧月は雨の知らせだというので、

雨降れば 春も深しと いつしかの 朧の月も 夕日も不可視視えじ

 

などと酔いつつ、推敲などしている間に、眠りについた。

翌朝は曇天。生混凝土を塗りたくった空から地へとべたつく雨が降っている。屋根に落ちた雨は、瓦を伝い、雨どいを流れ、集められる。それが、雨どいに溜まっていた桜の花弁と共に庭へと打ち捨てられる。そんな一連の音を耳にしただけでも外出の気を奪われる陰鬱な朝だ。

傘に重たい雨を打ち付けながら、大学へと向かう。灰色の町は景色ごとセメントで固められてしまったように色もなく、行く者は私一人であった。梅の枝の雨粒を滴らせる庭は、あまりにも静かで、竿も唯々濡れるばかりであった。それを確かめるとやはり、昨日のような重い気分になる私を、足だけが勝手に運んでいく。

講義中、雨は降ったり止んだりしている。窓から見える広場には、学生の姿は一人も見えず、散った桜だけが溜まっている。そのうちの、雨に湿らなかったのだろう数片が時折風に舞う。桜も葉が芽吹きだし、春の浮かれを拭う準備をしているようだ。名残桜。私は懐かしい曲を思い出すと心中で何度かその一節を口ずさむ。

五限が終わり、帰る頃には雨もだいぶ小降りになってきていた。小雨の中、紺の蝙蝠を差して朝と同じ道をゆく。梅の木には、百舌のしわざだろうか、雨蛙が小枝の先に刺さっている。彼女が見たら驚くのではなかろうかと、そんなことを想いながら、雨足の弱まりつつある空を眺めて私は帰宅した。

夜になると雨はあがり、月が出ている。二日月か、か細い円弧が南東に見える。庭土は昼の雨を十分に吸ったために、存分にぬかるみ、隅に群生した草陰から蛙の求愛が聴こえてくる。

私は、その月と蛙の声を花にして、久々の酒を楽しんだ。火照る身体に春の夜風が心地よい。清酒を三杯呷ると昼間の気分も酔いに溶け、蛙の声に打ち消されてしまった。

朝、まだ日も昇る前。薄雲の敷かれた空の中、私は彼女の家へ急いだ。通りは私のみの存在を許し、一切を拒絶し、早起きの鳥さえここにはいない。戸々はまだ、開くことを知らず、どの家も眠りについている。その中を私は、ある家へと近づく。塀の四歩手前。私はそこで足を止めた。手には手紙、前には塀、その先には彼女がいるだろう。頬に雫が当たる。通りは静かな雨を受け入れはじめた。音のない雨。雨は、頬を次々と濡らす。通りからは雨を吸い込む土のにおいが立ち込める。朝靄と霧雨とが混じる。私は始終俯いたまま、四歩から動かずにいる。

――この手紙は、この手紙は誰がために書かれたのか。

さようならと。

2012年8月13日公開

© 2012 渡海 小波津

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