空恐ろしい山羊の瞳と、ゴムのような葉緑体の婚姻。

巣居けけ

小説

4,352文字

彼は自身が山羊であり続けるために、世界を山羊にした。

あらゆる事象が乾燥している唯一の彼の知力によって、巨大な山羊へと導かれていく。擤鼻と地球儀を覆う埃の灰色の曲線が、大陸の位置で必ず山羊を描いている時代。羽毛と後天性の仮病の最中、情報機関の咀嚼を続けている外交官の下着には、数年単位で山羊の毛が転送されているはずだ、と外交官の息子たちは意気込んでいる……。

さまざまな角度からの『めえ・号令』を続けて、すでに三年が経過した。

軍隊を咀嚼した学級理事長が、学生気取りの火炎放射器の実験台として婚約を結んでいた。

しかし、電子工業に五年を使い、後に情報部の機密だけで味噌をこしらえた経験がある、生粋の軍事山羊にとっては、たったの三年程度の渡航では、号令における口の癖も、火薬のような香りを見分けるための脳細胞も、馬のような蹄すらも、少しの衰えを見せることがなかった。受付カウンターにぶら下がっている巨大な地球儀に山羊が刻印されている。全ての銃器メーカーがのろしを上げてコンマを否定している。彼らは滑空で皮膚を削り、皮下の脂肪で熱した親子丼を食らっているため、通常の重火器の反動や細かな釘のしなやかな動きだけでは、街の全ての迷路じみている青色ポストに歴史的な投函を突きつけ、後の警棒合戦への参加申請を速やか且つ静かに終了することができないだろう……。

だから山羊頭の人間どもは医学を否定している。しかし、彼らの舌に乗せられた否定の文字列は、時に肯定を意味している。学生時代に好んでいた体操服姿の女児が、大きな校庭で三周ほど引きずられている姿で、屹立している性器の赤い先端から白濁を放射している山羊頭の阿呆どもの大群……。

軍部はつねに、婚姻届けを見張っている。そしてインスタントラーメンを否定している。歯列に挟まることのあるポップコーンですらもレーザー治療で無に帰すことができると信じている。

トレンチコートで作られた鞭によって、紙幣の香りをステーキにこすりつけている。「彼らは敵兵すらも無視をする!」

巨漢の海獺という異名で知られている砂漠の地の真ん中で、軍曹の専用衣服に尿を掛ける仕事で食いつないでいる裸足の黒山羊は、正午の白い熱の太陽で右目を焼いていた。
「でもよ、あそこのポストだけは赤色だぜ?」
「殺人現場だからな。女同士の」

そうして警察官の二人、長身のトレンチコート警部とロン毛のスーツ巡査は、足元の虫の死骸のような吸い殻を踏みつけた。
「なら、あそこで射精をしてもよろしいですか?」腰に両手を忍ばせながら、秘書のような高音を出したスーツ巡査。
「駄目だ。あれは証拠だから」

再度、赤色ポストに目をやると、上空から差し込む夕暮れの光が、その全身を斜めに切っていた。そして、その背後に潜んでいるは闇だった。夕焼けなどものともせずに漂っている闇は、ありとあらゆる光と生命力を無に帰していた。
「やつはとても慇懃だ。慇懃無礼だ」

トレンチコート警部は二本目の吸いかけ煙草を放り投げ、警察署に向かって歩き出した。
「いや……」スーツ巡査は警部が捨てた吸いかけを再び右かかとで踏みつぶし、彼の大きく揺れ動いている背中を見つめた。「慇懃無礼は違うでしょ」

人の影にも夕暮れが落ちたが、すでに蟻のような闇に汚染されている警察官の素手だけでは、分厚い暗黒に光を灯すことができていなかった。

最小限精神科医では少年の治療が盛んだった。それは近年急速に流行り出した山羊どもの薬物事情と何かしらの関連があると噂されているが、いわゆる『メンツ』を潰されることを最も恐れている警察組織は、山羊や路地裏と少年の精神病との関係性には一切の発言をしていなかった。

しかし依然として、事実として、街の全ての精神科医は少年であふれかえっていた。定期診断のために訪れる常連の中年や山羊どもが、「おいおい、ここは小児科かよ」と文句を垂れながらも、結局は薄桃色の衣服と黒いガスマスクを装着した長身でくびれのある女医どもの警棒によって隅に追いやられてしまうほどだった。また、同じように定期診断に訪れる中年や山羊の中で、違法薬物を常用している連中が、少年でごった返している病院内を持参した新聞紙越しに睨みながら、「ああ、ここは精神病院ではなく立派な小児科だったのか」と呟きながら好みの少年のうなじに唾液を垂らし、「ではおれは新たな薬物を仕入れるとする……」と踵を返してしまうという事態が発生し、それが原因で増加した街の違法薬物の流通率と、彼ら彼女らによる犯罪率に対しては、警察組織だけではなく名誉教授らにも打撃を与えていた。
「おばけは悪い人の前にしか現れないんだよ」間欠泉から噴き出ることのある、くたくた脳みそを加えた液状山羊たちの使命と診断書。
「そうさ。だから全ての人間の前に現れる」山羊の擤鼻。山羊の便器を舐めている、オーバーホールの女たち。大脳新皮質の体現者密告中。

火曜日の二日前、太陽を演じている円柱時計に、対人恐怖症の女が下痢を貼り付けることがある。週末へと向かっている蒸気の列車が、糸電話のように園児を舐めている。
「軍人特有の気迫が頬にめり込んだだけだ! ぼくは太陽病なんかじゃない!」背もたれの無い円形回転椅子の上で、熟練盆踊りのよう暴れを披露している少年。「真っ当な学徒だっ!」
「いいや、それでもね、少年」主治医のガウルマンはいつでも右手に患者の心電図を書き留めている。しかし同性愛者ではないので、目の前の少年の心電図を舐めることはなしなかった。

彼は先月陸軍大佐から下贈していた金色の万年筆で少年の右の眼球を突き刺した。熱のある強烈な痛みが少年の脳を崩壊させ、怒号のような悲鳴が診察室に響いた。しかし主治医は「よくあることだ。君の使命でもある」と冷静に発し、つぎに少年の潰れた右目に、ちぎった自身の右親指を押し入れた。ゴム製のそれは眼球を潰し、眼窩が内側から圧迫されていく不快な感覚が少年を襲った。真っ赤になった顔には、涙のほかに鼻水やよだれがぐちゃぐちゃに垂れていた。

主治医はそれから冷静に、機械のような声で治療終了を宣言した。

全ての他人の脳を震えさせ、液状になってしまったものを鼻孔から噴出させるほどの勢いで泣き崩れている少年は、必死に受付女から強奪したパインの飴をしゃぶっていた。
「おい貴様、パインの飴を舐めているな?」主治医は床に崩れている少年に対してしゃがみ込み、うなだれている顔を下から覗き込んだ。「うむ。確かにパインの飴を舐めている」

確認宣言を終えた主治医は自身の左耳に小指を入れ、蝸牛内部に保管していたココアの飴を取り出し、少年の腹を蹴りつけた。黒い革靴の先端が腹の奥にまでめり込み、少年になかなか癒えない嘔吐感と窒息感を与えた。

四畳ほどのとても狭い診察室の唯一の出入り口に勢いよく背中からぶつかった少年の顎を掴む主治医は、舌の上のパインの飴を舌で取り上げると、同じように舌でココア飴を少年に与えた。

満足げな主治医は立ち上がると、髭に付着した自身の脳を舐めとった。

浴する泥の最中なのか? 少年は最近の塊の右手で眼窩を摩っているのか? 航空技術の発展によって、園児の展覧会での炎天下を揚げることができるのか?
「木曜日の直前の画像で、翌週の金曜日を描いているのか?」煙草を捨てている路地裏山羊どもが、一斉に新聞専門の配達係を蹴りつけている。顔面が粘土のように崩壊している配達係は、ゼリーのようになった眼球で壁に必死に母親の顔面を再現している。
「ああ、母様。母様。わたくしは……」
「あらゆる事象が、彼の知力によって山羊へと導かれていくのか?」
「しらない、しらない……」
「ならば土曜日は? 土曜の配達を知っているか?」
「しらない、しらない……」
「そうかい、ならばさっさと盲目になるがいいさ」

山羊の一人が右足を引き、勢いよく配達係の右目を蹴り上げた。ゴムボールが弾けるような音が鳴り、配達係には痺れるような激痛が走った。皮膚が弾け、頭蓋が震えているのがわかった。また、後頭部を壁にぶつけたことで、眼窩から垂れさがっていた残りの眼球が全て飛び出し、目の前の山羊の体毛にどちゃりと付着した。
「おいおい。さっさと舐めてもらわないとな」

下品な笑みを浮かべている山羊の一人が配達係の頭を鷲掴みにし、眼球だった赤黒い粘液が付着している右足に口元を近づけさせた。配達係は言葉にならない情けない呻き声を出しながら舌をチロリと出し、粘液を舐めとった。
「へへへ、塩辛い鉄の味かい?」

舌が這う温い感触に、山羊は快感の鳥肌を立たせていた。

豊かな官能性を必死にくゆらせる煙草吸いの老人。真新しいスポンジのように、全ての唾液を吸いつくす山羊。瞳の内部に分厚い闇を抱えるどうしようもないほどに数学を愛しているしゃぶり上手な青い山羊。日曜日の朝日で眼窩を拡張している少年の雨。

全ての警察官が山羊の死骸に無遠慮な視線を投げていた。警視庁に出入りしている警察官の中で、トレンチコートを年中無休で着用している警察官は、その下に山羊関連のシャツを着ていることが多い。山羊の顔面がプリントアウトされている赤いシャツや、山羊の体毛で作られている乾燥した悪臭が漂うワイシャツなどが一般的ではあるが、観察眼で全てを勝ち取ったトレンチコート警部は、その舌に山羊の肉で作られたコルセットを着用しているという噂が立っていた。新たなは月曜日が眼底の住みやすさを説いていた。伸び切った黒いバネのような閃光が、普通の死体と何ら変わらない。

特別強い恐怖の中で死んだことを覗けば、その死体は人間の形をした肉塊だった。

しかし問題は、それの下半身にあった。スラッと伸びる美しい曲線の両足の太ももの部分には、数多の痣のようなものが付いていた。赤く細長いものが横に列を成しているのを見ると、太ももの部分を強く握られていたことがわかった。

そこで次に見るのが、死体の性器。

少量の陰毛がある性器には、いまだに水気を持った精液が滴っていた。

男はゴム手袋を装着すると死体の股を開き、性器に顔を近づけた。お世辞にも良いとは言えない精液の臭いが鼻孔を脅かし、男に重い不快感を与えた。それでも男は死体の性器をじっと見て、ゴム手袋の指で穴の中を覗いた。どうやらかなり乱暴に、さらに大人数に使われたらしく、膣の壁はどこまでも白濁でぬめりがあった。男は強烈な臭いに顔をしかめながらも、部屋の隅にあるホースを手に取った。ホースが繋がっている水道のハンドルをひねると、ホース先端から透明な水が流れた。緑色のタイル床にびちゃびちゃと跳ねながら濡らしている水を死体の性器に向け、中の精液までもを洗い流す作業を男は行った。ゴム手袋の指を性器の穴に突っ込み、精液をほじり出すようにしていくと、死体の性器はすぐに綺麗になった。

2022年4月29日公開

© 2022 巣居けけ

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