ボルデイン・ニッパー警部。

巣居けけ

小説

2,129文字

彼は本当に優秀なのか? 彼は本当に殺害のみを担当してるのか? 彼は本当に、医学の切れ端を熟知しているのか?

「なあ、おれはどうして吐血をバケツの真上で続けなかったんだろうな。それにプッチン・プリンのプリンを食べた後って、残るのはプッチンだけだろう? なら、あの透明な容器は全てがプッチンってことになるのかい?」
「それでもアンタの腹はふさがらないけどね」
「おれは刑事だぞ?」
「それでもアンタの腹はどうにもならないけどね」

医学で脳を浸しているペンウィー・ドダーは灰色のカルテを投げ捨てた。すでに彼の脳には、目の前のボルデイン警部の身体の患部の調子やそれらがたどる未来の道筋などが予測できていた。彼は寝たきりのボルデイン警部の両肩を掴み、ぐいっと顔面を近づけると、勝ち誇ったようなにんまりとした笑みで「おれはあんたとは違うんだ」と囁いてから、颯爽と血まみれのメスを放り捨てた。鋭いメスの切っ先は薄い青色のタイル床に三センチほど突き刺さった。直立しているメスを見下ろすペンウィーは腰を曲げ、メスの尻に鼻先を近づけた。血にまみれている両手は天井に一直線に向けられていた。
「ああ。ミスター、国外産のものではこれが限界なんだろうなあ」

ペンウィーは軍人のような素早さで直立に戻ると、自分の役目は完了した、と言わんばかりに堂々と手術用の深緑色の薄いエプロンを脱いだ。そして開腹手術の途中のボルデイン警部を放置し、さっさと手術室から出ていってしまった。
「おれは刑事なんだがなあっ!」

数秒後に無影灯の電源が落ちた。機材調節室に入っているペンウィーが、大窓越しに再び勝ち誇りのにんまり顔をボルデイン警部に向け、去った。

ステンレスの冷たい手術台に取り残されたボルデイン警部は暗闇の中で天井を見上げた。
「ああ、もし枕で窒息死を狙っているなら、事前に枕を湿らせておいた方がいいんじゃないかな? とてもぐしゃぐしゃに。ひどく湿っぽく」

天井のタイルが破損するほどの勢いのある怒号を出すと、すぐに室内の放送用スピーカーから電源が入れられた金属音が鳴った。どうやら誇りの無い医師ペンウィーが、警部の怒号によって機材調節室に戻ったようだった。数秒後にはペンウィーが息を吸い込む音が聞こえ、同時にボルデイン警部は耳を塞いだ。
「そうねっ! うふふっ。私は恋人を殺した時、その死体と一緒に彼の両親を墓に埋めたことがあるの!」

女のような高音を演出しているペンウィーの声が室内に充満し、ボルデイン警部の脳を圧迫した。素手を通り抜けて鼓膜をガタガタと震わせてくるペンウィーの声は警部の聴覚神経にこびり付き、それは開腹手術の途中だったボルデイン警部が自身の腹を自身で治療し、灰色の背広と黒の外套、白い靴下に黒の革靴を着た後に、麻酔でくたくたの身体を引きずりながらなんとか手術室を出るまで響いていた。

手術室の外の廊下は、光源の電源が落ちた手術室と同様に薄暗かった。設置されている窓からの光のおかげで前進するのに支障は無かったが、それでも、しんと静まり返っている病院が暗闇に飲まれているのはどこか不気味だった。

ボルデイン警部は無表情で廊下を進んだ。薄暗い廊下は不気味ではあったがわざわざ警戒するほどではなかった。身体を動かせば動かすほどに体内の麻酔はその効力を喪失していくらしく、力強く一歩を踏み出す度に自身の身体が自分の物として再起動をしているような感覚になった。

前方に、人影があった。それは廊下の壁際に設置されている薄桃色のソファーに座っていた。ボルデイン警部は人影を無視して進んだが、人影は素早く立ち上がり、警部の横顔に声を掛けた。
「なあ、アンタ刑事だろう? なら押収したヤクがあるんじゃないか?」

その男は三万円札を差し出していた。札束を掴んでいる素手や腕は、骸骨かと見間違えるほどに痩せていた。

ボルデイン警部は立ち止まり、男に見せつけるように面倒くさそうな態度でため息をつくと、刑事らしい疑い深くて鋭い眼で男を睨んだ。廊下が暗いせいで顔はよく見えなかったが、体躯同様に痩せこけていて肉がほとんど無かった。とくに目元は本当に肉が無いようで、皮膚が眼窩に貼り付いて浮き出ていた。
「お前は山羊の唾液ではなく、例えばアフリカオオヤスデの分泌液なんかで一晩をやり過ごそうって考えているんだろう?」
「ああ、そうさ。だから」

男が語尾を強めながら右手の三万札をボルデイン警部に押し付けた。すると警部には衣服越しに男の体温が伝わってきた。それは氷だった。しっかりとした冷凍環境で作られた正真正銘の氷のような、小細工の無い無情の冷たさが男の素手にはあった。
「アンタは駄目だ」ボルデイン警部は男の素手を身体を揺らして弾いた。男はその衝動でバランスを崩し、後ろのソファーに落下するように座った。
「それにおれは、麻薬取締の人間じゃない」

男の顔を一瞥すると、ボルデイン警部は今までよりも強固な足取りで歩行を再開した。それは自分が麻薬取締官なんかに間違われた苛立ちと、自分はあんな連中とは違い真っ当な法の番人を務めているいるんだという逞しい決意の表れだった。

ボルデイン警部がそのまま五歩ほど進んだ時、男が不意に立ち上がり、「じゃあ何なんだよっ! 刑事なんだろう?」と遠のいていく警部の背中に投げかけた。
「殺し担当」

ボルデイン警部は振り返らずに答え、進んだ。

2022年5月9日公開

© 2022 巣居けけ

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