昆虫錠剤。

巣居けけ

小説

9,035文字

視界の隅の黒色どもがざわめき始めている……。おれにはゴキブリ飼いの才がある……。朝九時になると、誰かがおれの腹に薬を投げ込んでくる……。

赤いセスナの形をした鳥たちが、列を作って飛行している……。巨大な精神病棟の庭で上空を眺めているおれは、自分が芝生に身体を預けているのか、それとも白いスニーカーで直立をしているのかがわからない……。そもそも、この芝生が本当に庭なのか、それとも床頭台だらけのおれの自室なのががわからない……。さらには、今日の三時間ほどの朝食がおそらくラザニアである可能性には是非目を瞑りたい……。

すると足元に猫が近づいた。彼は灰色の体毛をおれに擦り付けてくる……。おれはそこで初めて、ようやく、自分がしっかりと直立していることを自覚していた。脳が温かい泥のような粘液になる感触が鼻孔を抜けていった。震える素手で猫を抱くと、彼の首に黒い首輪が付いていることに気が付いた。おれは自慢の犬歯で首輪を噛みちぎり、彼に自由を与えた……。
「なあ、猫。猫よ。ニャーと鳴いてみせてくれないか。おれに囁きをくれないか」
(ニャー、ニャー、ニャー)

彼は渋い声で鳴いてから、おれの素手をするりと抜け出した。脱出王のような手際の良さに惚れ惚れしていると、彼は再度鳴いてから、おれの割れている視界ではどうすることもできない暗闇の中へと消えていった。おれはようやく投薬の時間を思い出して歩き出した。素手は、寒さに耐えている子猫のように震えていた……。

 

「病人番号二十三万九千九百四十、ドダー・ペンスター。投薬の時間です」

白い看護師衣服に身を包んでいる看護婦が叫ぶと、ドダーはのろりとした動きで病室から出た。横に広がる廊下はつるりとした床に、木綿豆腐の断面のようながさついている壁で構成されていて、全てが白かった。冷たい床に裸足を付けたドダーは横一文字の唇を震わせながら、彼自身が最も楽な猫背の体勢で差し出されるはずの錠剤を待った。

看護婦はドダーの従順で面倒の無い態度に扱いやすさを感じながら、腰に巻き付けている茶色い革帯にぶら下げた缶の蓋を開けた。ステンレス製のそれの中は十字の仕切りで小部屋が作られており、四つの小部屋は錠剤で満たされていた。ゴム手袋の指で二つの錠剤をつまみ上げた看護婦は、水道水が入った試験管と共にドダーに差し出した。
「飲んでください」
「命令口調じゃないとやだ」
「さっさと飲め!」
「任せろっ」

試験管と錠剤をひったくったドダーはまず錠剤を口に含んだ。水は飲まなかった。ドダーは口内の錠剤をぼりぼりと咀嚼し、粉末にして唾液と共に飲み込んだ。そして食後の口直しと言わんばかりに試験管の水を、喉の音を轟かせながら飲んだ。
「ああ、これは旨い水だな」

空になった試験管を看護婦に返しながら、ドダーは自分から口内を見せつけた。舌をだらしなく出している口内を見下ろすように眺める看護婦は、ドダーがしっかりと薬を飲んだと判断し、無言で次の患者の元へと歩いていった。ドダーはさっさと自室に戻り、並べられている新品の床頭台を避けて、奥のベッドへ倒れるように横になった。

薄い瞼の上下がくっつく寸前、ドダーの鼓膜をゴキブリが羽ばたく音がくすぐった。

すぐに、錠剤が脳に作用するさ……。一階のコンビニエンスストアでは、新作のココアが販売されているはずさ……。便所のゴキブリでおれは倒せない……。両隣りの幻覚好きの統合失調症患者は、いつでもおれに甘い蟲のことを話してくれる……。おれは軍隊に居た頃のことをよく夢に視る……。映画館では味わえない蕎麦の味で塹壕をやり過ごしたことがある……。おれは分隊長じゃない。

空の全ての雲が、植物を這う蟲のような速さで漂って、過ぎていく。薄青色の空に橙が滲んだと思ったら、すぐに紺の闇が全てを覆ってしまう。おれはついに第二診察室の前まで到達していた。おれの病室から最も離れた極地の診察室の戸を引いていく。真白い光がおれを包み、室内の温かさが入室を促してくる……。
「それで、どうしてきみはこんな極地に足を入れているんだい? ここは湯舟ではないけれど」

主治医のはげがおれの顔を覗き込んでくる。酒と錠剤の臭いが混ざった体臭が鼻孔を侵し、おれは作り笑いで自分の病状を訴えた。
「ふむ。おかしいな。きみは統合失調症なんかではないはずだが」
「ならおれは、どうしてここで入院着を着てるんだ?」

主治医はようやく膝に置きっぱなしにしていた両腕を動かし、デスクの引き出しを開けた。
「きみは別の錠剤を飲む必要があるな……」

引き出し内部にはいくつもの錠剤がはめ込まれていたが、おれはその全てがサンプルであることを理解している。だからこそ主治医のふざけた目元に噛みつくことはせずに、自分の失くしたと思っていた両足に力を入れた。腰を浮かそうとしたが、しかし丸椅子から身体は離れなかった。驚いて床を見ると、たくさんの黒点に見えていた幻覚は、それぞれがゴキブリの形を作っていて、群がる連中は必死におれの両足を引き留めていた。痛くなるほどに見開いた双眼で主治医を見ると、彼は引き出しの一番奥にはめ込まれていた錠剤を取り出していた。黄色の上に青いマーブル模様が施されている小さな一粒だった。
「それで? きみはほかに何が聞きたいんだ?」伸びている低い声の主治医は、カメレオンのような長い舌の上に錠剤を押し付けていた。
「では、急速に迫り来る死にたい欲求、および素手から肩に上がって来る皮膚の乾燥についての見解を、どうかお聞かせください」

おれは自分の心臓までもがメスのゴキブリの集合体のなっていく感触に身を任せながら、主治医が錠剤に唾液のぬめりを与え終わるのをひたすら待った。
「ああ、それこそが幻覚だからね。きみには昆虫を飼いならす癖がある……」
「おれは蟲姦マニアじゃない……」

震える声の弁明はゴキブリが喰らい尽くした。そしておれは、主治医の差し出してきた錠剤を舌で受け取った……。
「きみも立派な蟲姦マニアになれる……」

主治医の声が脳で反響し、おれは存在しないはずのベッドに横になる感触と共に、頼りない意識をやっと喪失した……。

やはりおれは、湯舟に浸っているのだろうか。おれは自分の後頭部を眺める生涯に飽きを感じていた。おれは出された錠剤の中から、昆虫の足の先端を見つけることに長けていた。やつらはいつでも馬とゴキブリのメスを連結させる実験を繰り返している。おれは少年時代にカマキリを破壊した経験を語ったことがある。白衣のゴキブリどもはおれに錠剤と空の薬莢を渡してきたことがある。おれは自分だけのベッドの隅で、自分の涙で錠剤を流したことがある。

静寂の夜。月が見えない。おれはむくりと立ち上がった。血で濡れたベッドシーツに別れを告げると、日中よりもさらに胡乱な足取りで自室を出た。廊下の冷気が入院着を貫通して皮膚に刺さった。おれはスリッパを信用していない。見回りの警備員が去ってから、おれは錠剤の女神が待っているはずの庭へと向かった。

庭へと続く鉄の扉を二時間かけて全開にすると、また視界の中心におれの後頭部が映った。おれは見えない顔面を良く見える素手で撫でつけながら、庭の隅の公園に向かって歩き出した。新品高級マットレスのような感触の芝生を踏みつけ、おれは自分を監視している自分に徹した。
「文章はいつだって冷たいからな」
「それを温かくするのが作家?」

蕎麦屋の息子は黄色のシャツを泥で汚していた。
「うん」

薄桃色の入院着のドダーは、この深夜の公園で唯一ブランコの解体方法を知っていた。一人の女性に向けられた複数の怨恨が弾け飛び、花火を作り出す……。そして少年はブランコの片端で前転を繰り返した。体育の授業の嘲笑が鼓膜を不快に震わせ、少年は臓器の全ての胃カメラが貼り付けられたような感触に倒れた。

泥を全身に擦り付ける少年は、砂利のような声を放った。
「ううっ! 僕はどうしてもっ、SNSを始めたいんだっ!」
「待てっ!」深夜のドダーはブランコから飛び降り、砂場で横たわる少年に駆け寄った。体育の授業の汗を全身に流している少年の体は蒸れており、黄色のシャツが体躯にぴっちりと貼り付いていた。
「その手のコンテンツに晒すのは、性癖だけにしておけ!」

ドダーは二回目の投薬で公園を信じるようになっていた……。
「なら大人って、どんなことをいうの?」少年は駄菓子屋で購入した棒アイスを舐めている。
「おそらく……」ドダーは蕎麦屋での作法を知らなかった。「誰も信じない人のこと」

爆弾処理班は始まった灼熱の爆発の止め方までは知らなかった。少年は精神病棟での投薬の儀式の作法を知らなかった。警部では巡査部長の悩みを理解することができなかった。

おれはすでに五回の投薬と歯科検診を終えている。主治医の顔面に貼り付いたゴキブリを舌で舐め取る歯科検診だった。一週間後の起床をすると、視界が後頭部と目線で行ったり来たりを繰り返していた。おれは千鳥足で洗面台に向かい、ゴキブリを嘔吐した。そして蛇口のゴキブリをひねると、ゴキブリの水でゴキブリの顔面を洗った。ゴキブリの鏡を見るとゴキブリの目がゴキブリを睨んでいて、次のゴキブリにはゴキブリの後頭部がゴキブリ視界に現れた。ようやく後ろから、看護婦の声が聞こえてきた……。

十回目の投薬がすぐそこまで迫ってきている。ゴキブリの音が聞こえる……。ゴキブリの声と錠剤の末路が、おれにははっきりと見える……。
「病人番号二十三万九千九百四十、ゴキブリ・ペンスター。投薬の時間です」

白い看護師衣服に身を包んでいる看護婦が叫ぶ。ゴキブリのドダーはびくりと両肩を揺らしてから後ろを向いた。ゴキブリの顔面の看護婦が立っていた。ドダーはのろりとした動きで病室から出た。

横に広がる廊下はつるりとした白い床に木綿豆腐の断面のような白い壁で構成されてはいるが、やはりゴキブリがひしめいていたざわめきを立てながら蠢いていた。ドダーは構わずに冷たい床に裸足を付けた。すると自分の足元からゴキブリが引いていった。ドダーの薬漬けの身体から香る錠剤の香りから避難しているようだった。床の真の姿である白色が見えた。足を中心に半径五センチほどの円形だった。ドダーは横一文字の唇を震わせながら、彼自身が最も楽な猫背の体勢で差し出される錠剤を待った。

看護婦はドダーの従順で面倒の無い態度に扱いやすさを感じながら、腰に巻き付けている茶色い革帯にぶら下げた缶の蓋を開けた。すると中に潜んでいたゴキブリが一斉に飛び出し、床や壁のゴキブリと合流を果たした。じっと眺めていたドダーはその光景に微笑ましさを感じ、その瞬間だけ、自分の純粋無垢なゴキブリになってみたいと思った。看護婦の持つステンレス製の缶の中は十字の仕切りで小部屋が作られており、それらは錠剤で満たされていた。もうゴキブリが這い出てくることはなかった。錠剤の香りを好むゴキブリは少数だった。

ゴム手袋の指で二つの錠剤をつまみ上げた看護婦は、ゴキブリの水が入った試験管と共にドダーに差し出した。
「飲んでください」
「命令口調じゃないとやだ」
「さっさと飲め!」
「任せろっ」

試験管と錠剤をひったくったドダーはまず錠剤を口に含んだ。口内に広がる感触はゴキブリだった。小さかった錠剤が口内で高速で分裂し、それぞれがさらに素早くゴキブリに変化して暴れていた。細かい手足がざわざわと蠢いていた。水は飲まなかった。ドダーは口内のゴキブリ錠剤をぼりぼりと咀嚼し、粉末にして唾液と共に飲み込んだ。そして食後の口直しと言わんばかりに試験管の水を飲んだ。ゴキブリの水とは小さなゴキブリの群れだった。こちらもやはりゴキブリの感触がしたが、どうにもみずみずしいので舌の渇きが一瞬で潤った。
「ああ、これは旨い水だな」

空になった試験管を看護婦に返しながら、ドダーは自分から口内を見せつけた。舌をだらしなく出している口内を見下ろすように眺める看護婦は、ゴキブリの顔面の中心から人間らしい頭部を露出させ、開いた双眼でドダーがしっかりと薬を飲んだと判断し、それからは無言で次の患者の元へと歩いていった。ドダーはさっさと自室に戻り、並べられている新品の床頭台と巨大なゴキブリ・クッションを避けて奥のベッドに倒れるように横になった。自分の頭髪の一本一本がゴキブリの触覚に置き換わっているような感覚と共に、途切れる意識にとどめを刺した。

 

ドダーは、白衣が鉛のような冷たさで赤飯を孕んでいるという噂を、何の疑いもなく疑い始めた。昼食時に血管が聞こえ、就寝の三分前には数字カウントされているような機械音が脳を震わせていた。しかし学士志望の彼の鼻は長かった。嘘のような虹色を天候変化の一種であると結論付けた父親の髭を噛みしめ、中華料理で未来を予測してみせた。褐色肌のドダーはそれだけで日銭の半分を稼いでいた。
「軍人が言う『理由は無い』は大抵の場合、『自分じゃ理由がわからない』の言い換えだ」
「そうかい。ならそれの理由は?」

昼食時のドダーはラズーンに訊ねていた。白昼夢のようなカフェテリアには他の患者も多く、雑音と昆虫図鑑のページをめくる紙の音でまみれていた。また彼女は、自身が幻覚型の統合失調症であることを熟知していた。
「これに理由などないわ」
「はい?」

ラズーンはやはり小さなゴキブリが散乱している蕎麦を啜っていたが、ドダーにはそれが赤色の泥にしか見えなかった。髭のある科学者が、被検体に尻もちをついていた。彼はナイフで人肉を裂く競技に生涯を捧げていたが、彼の顔面に最も似合う下着は女性のものでなかった……。
「もう三十人も死んでるんだ……」髭のある科学者は自分だけの実験室に横たわる死体の群れに唾液を落としていた。ドダーとラズーンは海老反りをしている彼を自分の席で眺めていた。
「そうか……。もう三十人も死んだのか……」
「ああ。えっと、伯爵? あんたは確かにいつでも人体を愛していたけれど、そこにあるのはどう見てもゴキブリなんだけど?」

ラズーンは次の蕎麦を啜りながら訊ねた。ドダーにはあの日の公園で邂逅した少年の衣服の香りを思い出していた。
「いいや、少女よ……。私にはやはり人体に見えるがね。ええ、蕎麦をすすりなされ。そうすれば、いつでも錠剤を飲みこめる……」科学者はメスを引き出しにしまい、閉じた。そしてすぐに引き出しを開けると、メスだったものがどろどろに溶け、五粒の錠剤の形に変動した。
「それはゴキブリ薬だ!」ドダーが指差しをしながら叫んだ。「あんたは昆虫博士なんかじゃなかった!」両手で自分の頭を抱えると、もう三日も切っていない爪で頭皮を傷つけ始めた。しかし、ふけとして零れ落ちるのは微小のゴキブリだった。「おれはゴキブリに侵されている!」
「ああかわいそうに……」科学者は自分の実験室からカフェテリアに侵入し、ドダーの頬を撫でた。「これではまともな遊戯もできないじゃないか。さあ、これを飲むがいい……」

科学者が差し出したのは例の錠剤だった。しかし彼の手のひらに乗っているのはたったの三粒だった。ラズーンはハッとして実験室の引き出しを見た。残りの二粒は液体のように溶けていた。小さな池のようになっているそれからは、小さなメスのゴキブリが這い出てきていた。
「ねえ伯爵、その薬を飲むと、どうなるのかしら」

ラズーンは引き出しを見つめながら訊ねた。
「救済が降り注ぐ」

科学者は海老反りをしながら答えた。

科学者が海老反りから戻ると、ドダーは自分から三つの錠剤を飲んだ。それはやはりゴキブリの感触と、醤油のような味の邂逅だった。食道を下り胃にまで到達したところで錠剤の感覚は消えた。代わりに腹の奥がゴキブリで満たされている感覚が上がってきた。それは嘔吐の前兆だった。ドダーはラズーンが握っているそばつゆの入った容器を奪い取ると、その中に嘔吐した。黄色に青のマーブル模様が入った粘着性の強い吐瀉物が茶色のつゆと混ざった。
「ちょっと! 何するのよ! 味変なんて聞いてない!」
「これは国家問題になるぞ……」科学者は海老反りをしながら茶色くごついカメラを両手で構えた。
「サプライズです」

ドダーは高級料理店勤務の誠実な男のふりをして、そばつゆ容器をラズーンに差し出した。

ゴキブリが踏みつぶされる軽い音が鳴り響き、二人を激しいシャッターの閃光が包んだ。

 

二日目の祭壇は良好だった。おれの前に出入りしていた清掃係の青年は、その面長で丸眼鏡を手放さない身なりからは想像もつかないほどに仕事に対して積極的だったらしい。鏡の如く磨かれた大理石の床を見たとき、おれは自分の角膜が、どこからか湧き出る衝動で震えているのを感じた。なにせ、その床にはゴキブリが一匹たりとも張り付いていなかった。羽が擦れ合う音も聞こえなかった。おれは試しに後ろを向いてみた。横に続く長い冷たい廊下の白い床と壁には無数のゴキブリが張り付いて、ひしめき合っていた。次におれはそんな廊下に吐き気を感じながら大理石の床を見た。やっぱりそこにはゴキブリなんて居なかった。おれは深呼吸を二度ほどしてから、丸眼鏡の神々が行った『完璧な清掃』が完了している教会室に入った。

後ろ手で観音開きの茶色い扉を閉める。この教会室はおれが入院している病棟の地下一階からさらに階段を降りてたどり着くことができる。ここのことを地下二階と表現する者も少なくはないが、地下二階には教会室しかない。だからおれはこの病棟に地下二階なんてものは無く、地下一階の下に教会室があるんだと認識している。

教会室は正方形の部屋だ。学校の教室二個分ほどの大きさの室内は真ん中に青い絨毯が敷かれていて、その両脇に六つの長椅子がある。出入り口から正式に入ると、すぐに青絨毯を踏むことになる。おれももちろんそうだった。そして入場者は必ず真正面の十字架に驚くと思う。おれはここに入るのが三回目だが、今回もやはり十字架の迫力にやられてしまっている。十字架には圧がある。十字架は奴特有の気配のようなものを持っていて、その気配とは教会室に誰かが入った時に、教会室の全体に行きわたる。だから入場者は迫り来る気配に驚きを隠せない。そうして注目を集め、さらには信仰すらも得ようとしているガメツイ精神を十字架は持っている。おれはそんな奴が嫌いじゃない。

青絨毯は新品のマットレスのような感触だった。もしかしたらおれが絨毯だって勝手に思っているだけで、本当は絨毯じゃないのかもしれない。深く沈む感触を一歩進むごとに、そんな疑惑が脳内で膨らんでいた。六個の長椅子には誰も居なかった。ふと、ここの光源のことが気になった。床の大理石と同様に灰色の壁には窓がなかった。ステンドグラスもなかった。答えは天井にあった。そこには無数のゴキブリが張り付いていた。

天井のゴキブリどもには光沢があった。どうやら連中自体が発光しているようだった。黒色のつるりとした身体から放たれる白い光が室内を照らしていた。天井自体の色はわからなかった。それほどの大量のゴキブリが張り付いていた。床や壁に一匹も見えなかったのは、天井に全員が集合しているからだった。おれはさっと目を離した。眺めていると自分の脳がゴキブリの集合体になってしまうような気がした。反射している大理石の床をちらりと覗いてみると、実際におれの頭髪は全てがゴキブリの触覚になっていた。おれは頭を左右にふった。頭蓋の中の脳がころころと音を立てていた。頭を制止させるとかさかさと蠢いていた。やはり脳がゴキブリになっていた。おれは構わずに十字架に接近した。

十字架は真白い全身を持っていた。横の棒と縦の棒が合わさる位置に耳を付けてみると、腹の奥に響く打撃音のような振動と、液体が高速で流れる音が聞こえてきた。この十字架は確実に生きていた。白い体躯をよく見ると、白色の下に薄青い線のようなものが無数に浮かんでいた。おれはそれが、それこそが十字架の血管だと思っていた。十字架は誰か職人のような人物が専用の石から取り出したものではなく、どこかの地で生命を受けた生命体だった。おれは生きている十字架に跪いた。右足を立て、左足は完全に青絨毯に置いた。目線は十字架の足元だった。絨毯の上に立っている十字架の、最も下部を睨んでから、おれはこの世のゴキブリの殲滅を強く願った。

数秒間、おれの身体は動かなかった。それは自分で静止を選んだというわけではなかった。どこかから他の力が働いて、身体をこの場に引き留めているというわけでもなかった。おれの身体から、動くという機能が消失していた。おれの身体は目の前の十字架のように、ただ生きているだけの塊になってしまった。しかしそれも数秒の間だけだった。長いような短いような数秒を抜けると、首だけは自由に動かすことができるようになった。おれはすぐに見上げた。すると十字架の先端がおれの方にぐにゃりと曲がっていた。故におれは十字架の天辺の面を見つめることができた。まるで、先端がおれの身体を見下ろしているように思えた。次の瞬間天辺の面に十字の線が入った。しかしそれは十字架のような直線の縦線と横線による十字ではなく、掛け算の記号のような二つの斜め線による十字架だった。おれの身体は相変わらず首だけが動かせた。口や瞼も動かせなかった。だからおれは十字の線に沿って外側に裂けていく十字架の天辺の面を、誰よりもしっかりと観察することができた。それは口だった。十字架の先端は十字に裂ける口だった。そのふちには円錐型の白い歯が一周していて、歯列にはおそらく唾液によるぬめりと光沢があった。口内の奥には闇があった。どこまでも続いていそうな暗黒が広がっていた。おれはそこでようやく自分が捕食対象になっていることを自覚した。自覚すると同時に口内の闇が高速で迫ってきた。思わず目を瞑ろうとしたが、最後まで瞼が下りることは無かった。

生暖かいどろりとしか感触の中で、胸元にちくりとした痛みを感じた。身体が引き裂かれていく感覚を最後に、おれは意識を喪失した。

 

ドダーは湯舟の中に子宮を感じていた。腐った鉄の香りにまみれた彼は、肯定とは停滞のみを産むということを、子宮の温かい肉の内部で熟知した。
「多分我々人間は。他人から否定されていたほうが成長できる……」

黒の背広に身を包んだ彼の、剣先のように鋭い眼差しの先には、ついに地上に姿を見せた肯定嫌悪大学の城のような煉瓦の建造が映っていた。

2022年6月1日公開

© 2022 巣居けけ

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