ヤギ山羊。

巣居けけ

小説

4,437文字

おれは街の住人がじわじわと山羊に変換されていくのをこの目で視ていたんだ……。ゆっくりと薬が身体を回っていくのがわかる……。おれはもうじき山羊になる。

街にはびこる山羊の群れが、雑巾に見えてしまうことがある。街を歩く連中は誰でもそんな経験をしている。ホットドッグを貪るでぶのあいつも、煙草の屋台で一万円を稼ぎ続けるあいつも、夕焼けに照らされた山羊どもの毛並みを見ていると、ふと、その毛並みの全てが使い古された雑巾に見えてしまうことがある。山羊の彼らは路地でもない道の隅に四肢をだらりと垂らし、それぞれが最高だと思う違法薬物の余興に縋っている。彼らは感情の無い瞳で夕焼けを脳裡に焼き付けるが、しかし数秒後には消えかける太陽の美しさを忘れている。彼らの体毛が寒気を感知すると、彼らはすっかり元気になった腹を抱えながら立ち上がる。しかし、堂々とした山羊の四足歩行はすでに珍しい。街日差しが良く当たる道の端で違法薬物を舐めている山羊は、大抵の場合、二足歩行を好む。

闇の中の微小の光をとらえている山羊どもは、無言で路地裏に入っていく。そしてうたた寝を続ける路地裏山羊どもの尻を蹴り上げる。彼らは自分が絶対的な上位になれる相手にのみ『めえ・号令』を使う。人間に対しては必ず『山羊山羊』でやり過ごす。堂々山羊はその半数が人間に憧れている。路地裏山羊は人間に興味が無い。

尻の肉に山羊の足が食い込む痛さを味わった路地裏山羊は、堂々山羊にまず注射器を手渡す。しかしそれらは、使いかけの唾液塗れ注射器である可能性が高い。暗闇の中で大した確認もせずにそれを使うと、堂々山羊は必ず違法薬物の激烈な酔いに囚われてしまう。堂々山羊は、路地裏山羊ほどの違法薬物耐性を持っていない。それは太陽の心地を知っている彼らが、違法薬物を生きがいではなく、一つの娯楽のようなものとして考えている証拠でもある。路地裏山羊は彼らが薄い違法薬物のみを嗜んでいることを十二分に理解している。だからこそ尻を蹴り上げてきた愚かな山羊を試している。警戒心の無い愚かな山羊は、使いかけの汚い注射器を使ってしまう。シリンジ内部に残っている違法薬物と共に体内に入った路地裏山羊の唾液は、すぐに血管や臓器の肉の壁に微小な穴を開け、肉を貫き、出血をさせる。全体の五割ほどの堂々山羊は、そこで初めて自分の血液を視る。路地裏山羊は毎日自分の血液にキスをしている。

萎れた堂々山羊の死骸は次の山羊製薬物の重要な素材になる。冷たい路地裏で静かにゆっくりと腐っていく堂々山羊の死骸の肉を粉末にし、人間のサンタクロースが販売している違法薬物と混ぜ合わせる。すると山羊にのみ流通する薬物が出来上がる。人間がこれを常用すると、二週間で自分を山羊であると思い込む。

山羊は通常、人間には憧れない。堂々山羊は、瞳の奥に憧れを飼って生きている。

 

「君は宙を舞う山羊を見たことがあるのかい?」
「いいや。あんたは?」
「……奴は、トランポリン・チャレンジを器用にこなす天性の山羊だ」
「天性? そりゃあ、この街じゃあめずらしいな」
「奴は、大回転降下山羊だ。高台から飛び降りたと思ったら、真下のトランポリンに接触するまでに、最低でも千回の回転をしているはずだ。トランポリンで跳ねた後は、高台よりも上に飛び上がって、倍以上の数の回転をするんだ……」

 

山羊が山羊を舐めていたんだ。一昨日の夜だ。路地裏のクラブに入ろうとしたら、すぐ近くの角で、白いのが黒いのの頬を舐めていたんだ。山羊の山羊舐めなんて、めったにないだろう? だからおれは見世物小屋に立ち寄った感覚で近づいたんだ。そしたら白いのが急に立ち上がったんだ。それも、奴は四足歩行じゃなかった。二足だ。白山羊の彼は堂々山羊だったんだ。驚いたおれの懐に入った白山羊は、握りこぶしでおれの頬を叩いた。熱した鉄が顔面に押し付けられたかのような感触と一緒に、おれは気絶した。

そんで、次に目が覚めたら、こんなになっていた。まさか、自分が白の山羊になるなんて、夢にも思わなかったよ。

おそらく、皮膚から薬物を感じたんだろうな。おれはすでに、夜になると、自分の意識とは関係なく薬物を欲してしまう。なあ、わかるだろう?

彼らはどこでもスプレーのような唾液を持っているんだ。おれは彼らの足に追いつかれそうになったこともたくさんある。研究所から出てきた連中が、山羊の舌で三日を過ごしたことも知っている。文書を作りだす暇もなく彼らは増えていくんだ。そして街の隅を占拠するんだ。彼らは堂々とは動かない。確かに日中から街に出てる彼らは堂々山羊と呼ばれているが、しかし彼らはいつでも隅から占拠する。じわりじわりと街を乗っ取る。なあ、もしもあんたの街の市役所職員に山羊が居たら、その街からは離れた方がいい。その街はもう相当な所まで来てる。そのうちあんたの家は彼らの糞だらけになるか、下着が根こそぎ取られるかのどちらかだ。

あんたも、気づかないうちに山羊になっているかもな。

 

「それで、お前は山羊なのか? 山羊じゃないのか? どっちなんだ」

黄色い木製の煙草屋台のカウンターに右腕を乗せて、外の白い山羊に一箱を差し出している店員は、唾と共に問いを吐いた。灰色のカルトンには六つの汚れた五十円玉が置いてあった。
「……おれは山羊だ」

白い路地裏山羊は受け取った煙草箱を片手でくしゃりと潰し、口の奥に含んだ。そうすることで全ての煙草の味を舌に擦り付けることができた。煙草は箱ごとすぐに溶けた。店員の昆虫のような感情の無い瞳を二秒ほど睨んでから、路地裏山羊は歩道を四足で歩き出した。

二日ほど前に山羊になってしまった彼に残された生活は、路地裏での堕落のみだった。夜の闇に街が沈むまでは路地裏で寝ているか、有り余る気力を使って街に出たとしても、こうして煙草屋台にちょっかいを掛けるだけ。そして辺りが暗闇一面になったと同時に、注射器を使って身体を動かす。ぎらついた眼球で他の山羊と、言葉を必要としない会話を続け、朝日が昇ると同時に眠りにつく。それが、それだけが、路地裏に縛られた山羊に許されている生活だった。

新たな路地裏は慣れない四足で歩道を行った。通り過ぎる人間は皆新聞紙とにらみ合いをしていた。この街では電子機器が疎まれていた。
「すみません、貴方は吾間源三郎さんですか? 演歌歌手の」

後ろから右肩に素手を置かれた白山羊は振り返った。そこには警察官が跪いてこちらを観ていた。右手には茶色く汚れた警察手帳があった。紺色の制服に身を包んでいる彼の瞳には冷たい光があったが、大きな唇には温かさがあった。すっかり自分を源三郎だと思い込んだ白山羊の源三郎は彼の様子から、彼が子持ちであることを見抜いた。

源三郎は深呼吸をしながら身体を警察官に向けた。その動作を自身の質問に対応してくれる合図だと解釈した警察官は、すぐに警察手帳をしまい込んだ。

源三郎は演歌歌手らしい低音を喉で作り上げた。
「はい。半分ほど」

実際、白山羊はかつて吾間源三郎の頬を二度ほど舐めたことがあった。薄い塩味を舌で思い出していた。差し支えはなかった。
「では、少々お話をさせてもらえませんか。我々は警察官なのですが、吾間源三郎さんについて、調べているのですよ」
「ええ。この私の、Y字のようなココアの水源でよければ、とてもいいスナックを紹介できますけれどね」

半分の源三郎は自分がひどくみじめなことをしているという自覚の上で口を開いた。そしてついに自分の身体を二つに分割してみせた。長身の警察官に二秒ほど断面を見せつけるとすぐに戻し、あとは柔軟な身体を右曲がりにして質問を待った。

警察官からの質問は、それから五秒後に降り注いだ。
「実は昨日の深夜、路地裏で殺人事件が発生したのですよ。被害者は男性と女性の中間に位置する人体で、どうしようもなく疲弊している。凶器は木製のナイフです」どうやら事前に用意した質問内容を必死に思い出しているようだった。

警察官は胸のポケットから一枚の写真を取り出して源三郎に見せつけた。ブルーシートの上に置かれた木製ナイフは先端が赤黒く染まっていた。
「こんな木のナイフでも、人を殺めることができちゃう」源三郎はよく足を運ぶバーの店主の口調を無意識に真似ていた。殺人事件の話をすると必ず出てしまう彼特有の癖だった。「人が脆いのか木が強いのか、わからなくなちゃうわねぇ」
「ええ。そうですね」警察官は右手を頬に当てながら答えた。源三郎の無駄な雑談が非常に気に食わない様子だった。「それで、どうですか? この木製凶器については」
「えっと、ネガキャンってあるじゃないですかあ。あれって、どういう意味かわかりますか?」
「いや、知りませんが」
「『願ったりきゃなったり』の略称ですよお」
「ああ、なるほどね」

その呟きが空気に溶けたと同時に、警察官は顔面から感情を削除した。それは、今まで番組を映していたテレビの電源が急に切れ、液晶が一瞬で暗闇に染まったかのようだった。源三郎はすでに白山羊に戻っていた。そして白山羊は作り笑いをさっと引いて、警察官の瞳を覗いた。そこには職務に対する諦めがあった。警察官を志した数年前の情熱などはとっくに去り、現実にもまれたことで冷めきった劣等だけが浮かんでいた。無気力さだけが漂う双眼だった。
「あの、どうかしましたか? 私は白山羊ですが、源三郎さんには世話になりましたが」
「もう……。いいや……」

警察官はどこも見ていなかった。顔と双眼は白山羊に向いていたが、山羊のことを捕えてはいなかった。そのうち警察官はゆっくりと立ち上がった。警察官特有の勤勉さを感じることができない、ゆったりとした滑らかな直立だった。弛緩した頬の筋肉からは、自身の体重すらも鬱陶しいものとして感じていることがわかった。警察官は前方に顔を向けながら直進した。しかし、それは意志を持って前進しているというよりは、何かに引き寄せられているような胡乱な足取りだった。警察官は数十メートルをそのまま進んだ。白山羊はどうしてか気になったので、警察官の丸まった背中を追った。

警察官は歩道の先に繋がる横断歩道にたどり着いた。十メートルほどの横断歩道にはしっかりとした信号機が取り付けられており、現在示しているランプは赤色だった。

警察官に、赤色ランプが見えている様子はなかった。
「おい! 赤だぞ!」

警察官が赤色であるにもかかわらず横断歩道に侵入しようと一歩を踏み出したと同時に、白山羊が後ろから声を掛けた。無視をして警察官が轢死するのを眺めるのも悪くはなかったが、やはりどうにも気になってしまった。白山羊に呼び止められた警察官はビクリと両肩を震わせて静止した。その瞬間に大型の茶色いトラックが横断歩道を横切り、壁のような風圧が警察官と白山羊の身体を打った。
「いいや。……ちゃんと止まるべき信号は現実の信号だけだよ。ゲームの信号なんて、そんなの、無視してこそだよ……」
「いやこれゲームじゃねぇって!」

警察官は一歩を踏み出した。同時に、高速で迫る赤色スポーツカーが横断歩道に侵入した。

2022年6月12日公開

© 2022 巣居けけ

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