パレード解剖。

巣居けけ

小説

19,102文字

彼らは後に、非常に良好で唯一無二の麻雀人生を歩むだろう……。

雫と共に落下した天候が変わり、精密な人格が変動していく……。静脈の波を超えた医学者たちが、次のレポートに頭皮を燃やして行進を続けている。
「奴はボトルのコーラをただ飲むのではなく、氷を入れたグラスに注いでから一気に飲んだほうが旨いということを、本能で理解しているんだ……」
「なるほどっ! だから奴は父親に教わるよりも先に、グラスにコーラを注ぐことができたのか!」

刑事気取りの科学者二人は、大げさな叫び声と共にレポート用紙を黒文字で埋めていった……。

この、巨大研究所の二階では、赤い体躯を持つ二酸化炭素の解明が進んでいた。地球という医学に体温を注いでいる麻雀戦士が、その多眼に万年筆を刺し入れる日々だった。
「音治ったかな? 大人折ったかな? あの人現場におったかなぁ?」

戦士はいつでも特注の『中』を右手で握りしめながら他人を考えている。彼は他人を医学することに長けていたが、自身の肝臓の中にある卓に気付くことはなかった。
「メイソンジャーを知っているかい? メイソンジャーを知っているかい?」
「あんたは無事に立直することができるのかい?」
「なあ、メイソンジャーを知っているかい? なあなあ、メイソンジャーを、知っているかい?」
「全く……」

田舎育ちのメイソンジャーを知っているかいおじさんは、階段を下る麻雀戦士の背にしつこい声掛けを続けていた。
「なあなあ、メイソンジャーを知っているかい? どうなんだい? メイソンジャーを知っているかい?」

その発言と共に飛び散った唾液の玉は、静寂を保っている麻雀戦士の右の肩を汚く湿らせた。彼の着ている紺の背広の肩に着地した無数の唾液の小粒はじっとりと背広を汚した。その肩の部分は、まるで、ぽつりぽつりと降る小雨によって濡れたかのようだった。

後方で嘶いているメイソンジャーを知っているかいおじさんの様子を、顔だけを動かしてちらりと観察した際に、肩のことに気付いた麻雀戦士は、ついに己の静寂を切り裂いた。
「あんた、どうしてそこまで瓶に執着するんだい?」
「ええ? あんた、メイソンジャーを知っているかい? あんた、どこからともなくやってくる、メイソンジャーを知っているかい?」
「カスタード、パセリにつけて、逃避行」

娯楽のための合言葉を唱えた麻雀戦士は、メイソンジャーを知っているかいおじさんの後方に回り込み、彼の小さな背中を突き飛ばした。簡単に体勢を崩したメイソンジャーを知っているかいおじさんは、悲鳴を上げることもなく階段を転げ落ち、先に広がる一階の床に、四肢をだらしなく投げ出した状態で仰向けになった。光を失った双眼は上を向いていたが、何も視ておらず、彼が絶命したことを物語っていた。麻雀戦士に罪悪の感情は無かった。彼は、メイソンジャーを知っているかいおじさんを突き飛ばす前に娯楽のための合言葉を発していた。彼の中では、その言葉させ発していれば、その後のどんな行動も正当化され、全てが許されるという決まりが存在していた。故に他人を階段から突き落とし、死に至らしめたことに関しても、彼の中ではすでに許されており、一切の責任を感じていなかった。
「いいや、慰謝料は風船だ。確実に」

階段を優雅に下ろうとしていた麻雀戦士を呼び止めたのは、後方の声だった。刑事気取りの硬い声の主は、麻雀戦士が後方を向くよりも先に、素早く階段を下り、前に出てきた。

正体は、山羊だった。しかしただの山羊ではなく、頭部のみが、白い毛並みに包まれた山羊だった。首から下は人間で、黒い作務衣を着込んでいた。また、彼は右手に全裸の弱小人形を持っていた。茶色の短髪でまん丸い目を持ち、そばかすが広がる鼻孔は高く、八重歯がある口はとても小さい、子供に人気の、弱小な人形を握りしめていた。

麻雀戦士を見上げる彼は、真っ当な山羊人間だった。
「なあ、おまえはチーズかまぼこって知ってるかい? ソーセージみたいな見た目をしてて、チーズが入ってるかまぼこなんだけどよ。例えば、陰茎の比喩としてはソーセージが挙げられるだろう? 太くて逞しい陰茎の比喩に、ソーセージはぴったりだなっておれも思うんだよ。そんで、陰茎に付くことがあるあの恥垢の比喩としては、チーズがあるだろう? たしかに、恥垢の臭いはチーズみたいだ。粘ついてるとこも、そっくりだ。だったら、だったらよっ。ソーセージみたいな形でさらにチーズが入ってるチーズかまぼここそ、最高の陰茎比喩食材なんじゃねぇの?」
「私はいつでも『中』を握っているんだぞっ!」

腹に響く低音を発しながら、麻雀戦士は右手に包まれた『中』を山羊人間に見せつけた。小さな長方形の麻雀牌の『中』は赤文字で書かれていたが、麻雀戦士の手垢のせいで全体的に少し黄ばんでいた。『中』を見つめる山羊人間は数秒ほど静止した後に、眼球の内部に違和感を得た。それは眼球という水風船の中に小さな固形が入り込んだような、極めて不快で、無視をすることができない感触だった。頭を振るうとそれに合わせて眼球の中の固形も動いていた。山羊人間はすぐに両目を掻きむしりたい欲求に全身が包まれた。しかし自分の目を傷つけてしまえばどうなるかなどということは、山羊人間はもちろん、赤子にすらでも理解できることだった。故に彼はためらった。眼球の中の固形はそんな葛藤にも知らん顔で、ただ己の存在を誇示し続けた。
「カスタード、パセリにつけて、逃避行」

麻雀戦士は娯楽のための合言葉を囁いた。そして眼前の山羊人間を突き飛ばそうとした。しかし、山羊人間の彼は両手を前に突き出して、それを静止させた。
「なあ、なあなあ、待てよ」山羊人間は黒色の眼球で麻雀戦士を見つめていた。少しだけ潤んでいる双眼には内部の固形に抗えない虚しさのほかに、麻雀戦士に慈悲を乞う感情が浮かんでいた。
「なあ、人間って伸びるんだぜ。それも、縦にな。なら、お爺ちゃんが水飴で奥さんを再現した理由は? 全く、おれは指先が凍るほどだったぜ……」

それから白の山羊人間は、やれやれと呟きながら両手で空を払うと、そのまま手持ちの弱小人形を横に縦に伸ばしてみせた。全身が軟質素材で作られている人形は簡単に伸び、愛嬌のあった顔はぐにゃぐにゃになって、わからなくなってしまった。元の大きさの三倍以上にも伸びた弱小人形を丸めた山羊人間は、それを一口で飲み込んでしまった。喉を下り食道を落ちていく人形を最期まで感じた山羊人間は、人形が胃の中で溶けていく瞬間にげっぷを吐き出した。悪臭が辺りを包むほどに強烈な一撃だった。

 

『ミスター・メイソンジャーを知っているかいおじさん』の本名は、瓶詰出居沈(びんづめでいちん)だった。

五階の特殊手術室に運ばれた彼は、医学部の人間の手によって全裸にされた後に、医学長である、優秀名医ペンウィー・ドダー氏の指示で早急な解剖が決定した。

白のワイシャツに薄茶色の背広と白衣という、いつもの医学者らしい出で立ちで手術室に入場したペンウィーは、出入り口付近に直立している今回の助手を注視した。しかしペンウィーは彼の身なりを観察する前に、彼の横にある異物に視線が吸い込まれた。それは手術室に置いておくには相応しくない代物だった。
「おい、おい。君! これはなんだね?」

麻雀卓と、卓の上に置いてある百三十六の麻雀牌を指さすペンウィーは、壁際で直立不動を貫いている女医に問いかけた。
「これはペンウィー名医宛てです」
「私にファンだと? 私はただの名医だぞ?」
「名医だからこそです! さすがペンウィー!」

女医は二度の拍手を放ち、すぐに器具の調節に戻った。薄桃色の看護師衣服を着ている彼女は必要以上の発言を好まない手術準備士だった。

ペンウィーは麻雀卓の綺麗な緑色を二度ほど撫でてから、興味を失くしたようにスッと顔色を冷たくし、隣の今回の助手を注視した。深緑の手術着に全身を包んだ助手は直立不動だった。ペンウィーは身長が高く細い四肢を持った助手を足先から頭頂部までを見つめ、「よろしくたのむよ」と老いた紳士らしく挨拶をした。

それからペンウィーは黒縁の丸眼鏡を人差し指で押し込んでから中央の手術台についた。後方の助手はペンウィーが台についたのを確認してから机の上のカルテを持ち、彼に駆け寄る形で台についた。
「ペンウィー・ドダー名医! まずはどこから始めましょうか!」
「ああ。まずは彼の名前を知りたいね」
「はいっ!」

助手は新米軍人のように勢いよく叫ぶと、さっそくカルテを持ち出した。
「彼の名は瓶詰出居沈。年齢不明、住所不明。職業不明。しかし、自称『メイソンジャーを知っているかいおじさん』ではあります」
「なるほど。ところで彼の名前はなんというんだね」

手術台の上の出居沈を指さすペンウィーは街中で他人に道を尋ねるような口調だった。助手は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにカルテの文字列に目線を戻した。
「はい。彼の名は瓶詰出居沈です」
「なるほどね。いやすまない。君の説明を聞いているうちに、名前を忘れてしまってね。……ああ。私は認知症だからね」

ペンウィーは巨大な公園の隅にあるベンチで一日を過ごす老婆のような口調だった。弛緩している頬の筋肉で構成される表情からは、名医としての尊厳は消え去っていた。
「ええっ、認知症って、本人が自己申告するパターンとか、あるんですか?」
「はがものっ」緩んだ顔を一気に引き締め、名医の顔で短く怒鳴ったペンウィーは助手の後頭部をはたいた。パシンッと軽い音が鳴った。「今のは軽い冗談だ。私はいつでも鮮明な記憶意識の中で生きているよ」
「さすがペンウィー!」

助手は拍手と共に輝いた目線をペンウィーに向けた。その双眼からは、この医学一筋の助手が、ペンウィーの人格を完全に信用していることが十二分にわかった。
「さて、作業を始めようか。今回の目的は、この男がどのようにして死亡したのかを調べることだ。まずは腹の開封から行う」
「しかしペンウィー。彼は見たところ、後頭部を強く打ったことで死亡しているようです。開腹は必要なのでしょうか!」
「ばかものっ!」ペンウィーは短く怒鳴り、助手の頭をパシンと弾いた。子気味の良い音が、手術室に響いて溶けた。
「どんな解剖にも開腹は必須だ。それにプロというものは、初心を忘れないということだ!」

ペンウィーはすでに手にしているメスで助手の頬を切り刻んだ。彼なりの躾だった。五度のひっかきで血まみれになった助手は、横から差し出された女医のガーゼを貪りながら改めてペンウィーの顔を見つめた。
「さすがペンウィー!」明るい声を出す助手は流血で真っ赤な頬で笑顔を作った。天井にひしめいている無数の無影灯が頬の血液をてかてかとさせていたが、傷はすでに自己修復を始めており、すぐに跡形も無く消えるだろうと思われた。
「そうだろう。ひとまず私の云うことは聞いておいたほうが良い。では解剖を始める」

ペンウィーは新品メスを使い、出居沈の腹に円形の線を描いた。学校の校庭に白線で引かれるような、長方形的な円形だった。メスを助手の胸元に刺して放置したペンウィーは、白衣の内ポケットから取り出した新品ピンセットで出居沈の皮膚を剥がした。円形に切られた皮膚は簡単に剥がれ、下の皮下脂肪が露になった。
「おい、君の出番だぞ。そんなものをいつまでも刺していないで、さっさとこの脂肪を熱したまえ」

ペンウィーは助手の胸元のメスを引っこ抜いた。深緑色の手術着を貫通し、助手の身体に刻まれた切り傷からは、ぐつぐつに煮えた血液が噴き出てきた。鮮血のアーチを描く出血は出居沈の皮下脂肪に降りかかった。

助手の血液と混ざり合う皮下脂肪は簡単に溶けていった。その様相は熱に侵された氷が液体になっていく様とよく似ていた。黄色い液体となった皮下脂肪は出居沈の身体から溢れ、出居沈が横たわる手術台を伝って、床にまで到達した。
「なるほど、寄生するタイプの虎か……」
「どういうことですか? 異国のことわざ?」

横からの質問に、ペンウィーは出居沈のはらわたを観察するのを止め、隣の助手を視た。
「ああ、塗炭の苦しみってやつさ」
「確かにそう言われていた時代もあるけれどね」助手は笑顔だった。
「何がだ」

港から水平線を眺める漁師のような清い顔つきになっている助手を一掃したペンウィーは、ついに現れた出居沈の臓物に目をやった。いくつもの赤くぬめりのある管が絡み合っていた。肉の熱が発する蒸気を顔面で感じ取ると自身の下半身が反応し、熱く硬くなっていった。ペンウィーはわざとらしい咳払いをすると、助手から引き抜いたメスを大腸と思われる太い管に突き刺した。ぷるんとしている肉を何度か切りつけると大腸は次第に裂けていった。やがて出来た小さな穴にペンウィーは己の指を入れ、後は腕力で無理やり裂いていった。ぷちぷちという肉の壁が引き裂かれる音が手術室に充満し、横でただ観察していた助手はそのあまりにもいやらしい様に射精をした。強引に裂かれていく大腸はついに真っ二つになった。

ペンウィーは大腸の中を片目で覗いた。それは望遠鏡を使っているような恰好だった。赤い肉壁で作られている管の内部は暗闇に包まれていたが、助手がすかさずペンライトで後ろから照らしてくれた。ペンウィーは目を凝らし、光沢のある内部を見つめた。
「ふむ。これは確かに、腹には何の異常も無いようだな」

吐くように宣言すると、ペンウィーは片手の大腸を出居沈の腹の中に落とすようにして戻した。べちゃりという水の音が鳴り、溶けている皮下脂肪や血液が混ざった液体が飛び散った。
「でしょう。やはり時代の言う通りだったんだ!」

飛び散った液体が頬に付着している助手は、ペンウィーの後方で指を鳴らした。さらに口角を歪ませて笑みを作ったが、その拍子に頬の液体が口の中へと入ってしまった。唾液と混ざり合う液体は不快な鉄の味を与えた。腐った卵を誤って食べてしまった時のような顔をした助手は、喉元を押さえながら後方の空色のポリバケツに駆けた。
「まあ、それが君の役目だったんだよ」

跪いて嘔吐をする助手の背に、ペンウィーは冷ややかな目線を向けていた。助手は、大量の泡を吸い込む排水溝が出すような音と共に、液体の黄色い吐瀉物をバケツに産み落とし続けた。
「ええ? あんた、メイソンジャーを知っているかい?」

それは助手の背を見つめるペンウィーの後方、つまり手術台から聞こえた掠れ声だった。震えてはいるが力強く、必死の思いで吐き出したことがわかる声だった。

ペンウィーはすぐに振り返った。そして、上半身を少しだけ浮かせている出居沈、メイソンジャーを知っているかいおじさんの弱弱しい顔と目を合わせて息をのんだ。
「なんてこった! あんたは生命力を鍛えていたのか!」
「……どこからともなくやってくる、メイソンジャーを知っているかい?」

意識を取り戻したメイソンジャーを知っているかいおじさんの黒色の双眼に、無影灯からの白い光が小さく反射していた。ペンウィーは彼に寄り添って、後頭部に右手を添えてやった。するとそこで、このメイソンジャーを知っているかいおじさんの後頭部がひどく陥没していることに気が付いた。
「……メイソンジャーを知っているかい?」
「私は名医だ! 家具職人ではないぞ、ミスター」
「どこから、ともなく……。メイソンジャーを知っているかい?」
「待っていろ。今すぐあんたにふさわしい頭蓋を与えてやる。私にはそれができる!」

ペンウィーはメイソンジャーを知っているかいおじさんの潤んでいる瞳を見つめながら、彼の浮いている上半身をゆっくりと手術台に横たわらせ、頭を動かした。自身に対して顔部分が向こう側になるように動かすと、後頭部が細かく観察できるようになった。

メイソンジャーを知っているかいおじさんの後頭部は大きくへこんでいた。出血はすでに止まっているらしく、乾いた血液が短い頭髪を巻き込んで固まっていた。ペンウィーはまず張り付いている血液と髪を鋏で剥がした。強引に髪を引っ張り少しづつ切り離すことで患部を明確にした。患部はやはり皮膚が破け、頭蓋が露出していた。しかしその頭蓋も割れ、大きくへこんでいた。ペンウィーは第一に彼の脳がどのようになっているのかが気になった。なので内側に突き刺さっているようにも見える頭蓋の破片を取り出し、穴となった患部から内部を覗いてみた。しかし暗闇で何も見えなかったため、自身のペンライトを白衣から取り出して照らした。普段は助手の人間が行う動作を久々に自分で行っていた。ペンウィーはそこで、今回の助手がまだバケツに顔面を突っ込んで嘔吐をしていることに気付いた。

強烈な光で照らされた頭蓋の内部は完璧な空洞だった。そこには本当に何も無かった。真っ白い骨の壁で作られた球体の空間が広がっていた。ペンウィーはこの事態にまず、後頭部陥没によって脳がぐちゃぐちゃに崩壊し、故に何も無いように見えているだけだと考察したが、どれだけ目を凝らして見渡しても、頭蓋内部には脳の欠片も、脳の成れの果てのような物体も見当たらなかった。やがてペンウィーは新しい考察を展開した。それはこのメイソンジャーを知っているかいおじさんこと瓶詰出居沈には最初から脳が存在していないというものだった。彼は、誰がどんな呼びかけをしても、メイソンジャーを知っているかどうかのみを訊ねることしかできない。それは彼の身体の細胞に、それ以外の動作や発音をする機構が備わっていないからだと、ペンウィーは考えた。つまり彼は、メイソンジャーを知っているかいおじさんになったわけでも、なるしかなかったわけでもない。メイソンジャーを知っているかいおじさんは、最初からメイソンジャーを知っているかいおじさんだったのだ。

そして手術室の大きな両開き扉が音を立てながら素早く開かれた。ペンウィーは突き進む弾丸なんかよりも素早い動きで首を動かし、外の廊下の冷たい空気を招き入れている手術室出入り口を視た。

そこには灰色の背広を着た低身長のはげ男が立っていた。また彼は正真正銘の山羊人間の頭部を右手で握っていた。どうやらここまで山羊人間を引きずったようだった。
「なんだと」

開け放たれている出入り口を目撃した際、ペンウィーの全身は焦りと怒りに包まれた。まるで熱湯に浸かっているかのような嫌な心地だった。精密な思考を阻害してくる強烈な激昂だった。
「チクショウ! 今日は厄日か何かなのか! どうしてこうも登場人物がそろっちまうんだ!」

はげ男の顔を睨んだペンウィーは、吐き捨てながら手術台のふちを握り拳で一撃やった。ステンレスが歪む高音が響いた。

出入り口に立っていたのは、警部のボルデインだった。両肩をゆっくりと上下に動かしている彼は、額に浮かぶ大粒の汗を背広の裾で拭いながら手術室に侵入した。
「おい。脳が無いのなら、コイツの脳を使っちまえばいいんだ」

いまだにゲロ吐きを続けている助手の丸まった背を一瞥しながらも、ペンウィーの眼前に一直線に迫った優秀警部は自由研究の題材を発見した男児のような熱のある声色で提案しつつ、右手で掴んでいた山羊人間を差し出した。両目を閉じている山羊人間はボルデインの乱暴な扱いに文句を垂れることがなかった。ペンウィーはこの山羊人間がすっかり絶命していることをすぐに察知した。
「こいつは誰なんだ? あんたの下男か?」
「そこの連呼ジジイを突き落とした本人だ。問題はないだろう、ドクター?」
「そうだな……」ペンウィーは右手を顎に添えながら考えるふりをした。そうすることで、この動作を目撃しているボルデインに自分は知的な医学者であることを印象付けようとしていた。しかし実際、ペンウィーの暗黒の腹の底では議論の余地なしだった。躊躇は微塵も無く、今すぐにこの作務衣を着た山羊人間の皮膚と頭蓋を切り外し、脳を移植したいと叫んでいた。

ペンウィーはわざとらしくにやけると、右手の親指と中指でパチンとやってみせた。そしてボルデインが目を細めるのを確認してから、いかにも知的な学者らしいくねくねとした高音で、「やってみよう」とだけ宣言した。

二台目の手術台に山羊人間を横たわらせた後、ペンウィーは新しいメスを棚から取り出した。新鮮で人工的な無影灯の光を反射する新品メスをペンを持つように三本指で構えると、山羊人間の頭部を一周する線を切り刻んだ。毛深い故に少しだけ手間取ったが、皮膚の強度自体は普通の人間と大差がないため、毛に慣れさえすれば後は布を切るように簡単に進めることができた。一周を描いた後はその隙間に指を入れ、皮膚を剥がしていった。糊付けされた紙を剥がすような硬い感触だった。ペンウィーの自慢の、とても丁寧な引き剥がしは山羊人間に対しても有効だった。彼は一度も皮膚を破くことなく頭部の皮膚を完璧に剥がすことができた。剥がした半球の皮膚はボルデインのはげ頭にかぶせた。

次にペンウィーは片手でも扱える小さいノコギリで、露になった山羊人間の頭蓋を切った。こちらも通常人間のそれと変わらない骨だったため、難なく切込みを入れることができた。外した頭蓋はそういう大きな、半球型の容器にしか見えなかった。助手に差し出すと、彼はまだ続く嘔吐をそこに落とし始めた。
「なるほど。山羊人間の脳とは固形だったか」

ペンウィーは棚からスプーンを取り出した。メスと同様の素材で作られているスプーンは、メスと同様に無影灯の光を反射して輝いていた。ペンウィーはスプーンを山羊人間の脳に突き刺し、その一部を掬い取った。脳には月のクレーターのような浅い穴ができた。ペンウィーは掬い取った脳をメイソンジャーを知っているかいおじさんの頭蓋の中に放り込んだ。頭蓋内部でぺちゃっという音が鳴った。ペンウィーは再びスプーンを山羊人間の脳に突き刺し、再び掬った。一度目のすぐ横にクレーターができた。取った脳をメイソンジャーを知っているかいおじさんの頭蓋内部に入れた。やはり、べちゃりという音が鳴った。
「おい。そんなにちまちまする必要は無いだろう、ドクター」

それまで無言で見守っていたボルデインが、ペンウィーの手のスプーンをひったくった。ちょうどこの動作に飽きていたペンウィーは何も口をはさまずにスプーンの行方を見つめた。

ボルデインは残りの山羊人間の脳を一気にかき混ぜた。脳は半球になっている頭蓋の中でぐちゃぐちゃと音を立てながら形が崩れ、ヘドロのようにドロドロになった。そんな脳をボルデインは大きく掬った。スプーンの上には山盛りのドロドロの脳が乗った。山羊人間の頭蓋の中にはほとんど脳が残っていなかった。ニッと笑ったボルデインは、メイソンジャーを知っているかいおじさんの頭蓋内部にスプーンごと脳を投げ入れた。同時にメイソンジャーを知っているかいおじさんの双眼が開いた。その瞬間彼に駆け寄ったのはペンウィーだった。白衣が翻るほどの高速で迫った名医は、彼の横に向いている頭部を素手で固定した。まだ取り出した頭蓋の破片を付けていないため、頭部を動かされると内部の脳が流れ出てしまう可能性があった。
「おい! 君! 君! 大丈夫かい?」
「ああ。あんたは……」

メイソンジャーを知っているかいおじさんは小さな声だった。夢から醒めたばかりの朝に、消えかけている夢の記憶に思いを馳せているような胡乱な声だった。
「ああ。私は名医だ。君は新しく脳を手に入れたんだ」

ペンウィーは事務的な声で宣言してみせた。するとメイソンジャーを知っているかいおじさんは、眼球を動かして自身の主治医を視た。
「……あんたは、七対子を知っているかい?」
「なんだと。おい、君はいつから麻雀戦士の弟子を名乗っているんだ?」ペンウィーは肩眉を上げて疑問を口にした。そしてすぐ横のはげ刑事の顔を覗いた。「警部、彼の事情を知っているかい?」
「刑事に事件以外の訊ね事をするな」
「なるほど。なら君は……」

ペンウィーは彼の双眼の瞳を覗いた。そこには確かに麻雀牌の『中』が、それぞれ二枚ずつ浮かんでいた。ペンウィーは彼の耳元に乾燥でがさついている唇を添えた。
「放射状角膜切開術を受けろよ。ここではないどこかで」
「でも、おれは眼球に未練なんて無い……」
「ならば白内障手術を受けろよ。ここではないどこかで」
「でも、おれは医学とそこまで仲良くは無い……」
「ならば……」ペンウィーは記憶の中を探り、次に彼が受けるべき施術の名前を探し、発しようと口を動かした。しかし、それと同時に後方で轟いた爆発音のような大きな音が全てを遮った。

爆発音が、静寂を作った。ペンウィーもボルデインも、口を開かず動きもしなかった。

二秒後、一つの乾燥した声が静けさを破った。
「おいあんた! さっきからそれらしい医学用語を並べやがって!」
「なんだと……?」

ペンウィーはメイソンジャーを知っているかいおじさんの耳元から口を離し、振り返った。
大股でペンウィーに迫っていたのは助手だった。ずいぶんと痩せ細った彼の口角には黄色い吐瀉物がべっとりと付着していた。それは垂れているというよりはその位置に貼り付いているように見えた。また、彼の後方に置かれている空色バケツには口角のと同色の吐瀉物が溢れるぎりぎりまで注がれていた。さらにバケツの横にはさきほどペンウィーが手渡した山羊人間の半球の頭蓋が放置されていた。こちらも卵焼きのような薄い黄色の吐瀉物に塗れていた。

助手はペンウィーの眼前まで迫った。吐瀉の酸っぱい悪臭がペンウィーと横のボルデインの鼻孔を襲った。
「どんだけ頭良いヤツだって思われたいんだ! あんたは!」
「おれは歯磨き粉なら、三年ほど前にすでに終えているんだぞ!」

ペンウィーは甲高い声で叫んだ。発狂したオペラ歌手のような鋭い怒号の後に、助手の頬に素早く一撃を食らわせた。皮膚と肉が弾ける音が鳴り、助手の口角にあった吐瀉物が吹き飛んで手術室の隅にへばりついた。

助手はペンウィーに攻撃された右頬を押さえながら彼を睨んだ。冷たい憎しみと熱い怒気が混在している尖った眼だった。
「あんたの医学者気取りにはうんざりだ! この詐欺師め!」
「詐欺野郎はどっちだ!」

横からのボルデインの硬く重い一撃が助手を襲った。刑事の激烈な打撃は頭蓋を軋ませ、脳を震えさせた。目眩の中の助手は、この世が高速で回転し、自分はその回転に簡単に置き去りにされてしまう幻覚に捕らわれながら倒れた。熱い頬に床の冷たさが触れ、極楽の心地の中で助手は意識を喪失した。
「しまった!」世界征服まであと一歩というところで最大のミスに気が付いた科学者のような声を上げたペンウィーは、素早く助手に駆け寄った。跪き、助手の身体を抱きかかえた。そしてペンウィーは独学で手に入れた、自分自身だけの特別な身体検査を始めた。まず唇を奪い、次に眼球に舌を這わせ、彼が存命かとうかを調べた。

検査はすぐに終了した。しかし、右の眼球から舌を離したペンウィーは、検査の結果の宣言をしなかった。じっと、助手の動かない顔を見つめていた。

そんなペンウィーを不審に思ったボルデインは彼と同様に跪き、白衣の肩を叩いた。「おい、ドクター、どうした」
「……とんでもない事態を引き起こしてしまったよ。警部」
「とんでもない? 人工呼吸器が必要か?」
「いいや……」

ペンウィーは助手の開いている両瞼を下ろしてやった。彼の顔はすでに青ざめていた。

結果は、良くないものだった。

唇にも眼球にも、生命体らしい微小な振動は感じられなかった。それはすなわち、完全な絶命を意味していた。舌先でそれらの事実を解き明かしたペンウィーは、すでに亡くなった助手に対する敬意の心で脳が満たされていた。身体の全てが悲しみに震えていた。ペンウィーは、彼はもう戻っては来ないが、しかし彼のこれまでの医学者としての功績は、自分がいつまでも覚えていようと本気で思った。
「さて警部。彼を、ええと、瓶詰出居沈の施術を再開しようか……」

助手を床に寝かせたペンウィーはスッと立ち上がった。その目にはすでに悲しみが無かった。元の、ただ医学の道を進む無機質な双眼に戻っていた。
「べつに良いけど。あんた、大丈夫なのか?」ペンウィーを追って立ち上がったボルデインは助手を指さしていた。その分厚い皮の人差し指は、微かではあるが震えていた。
「まあ、それが彼の役目だったんだよ」

ペンウィーはすでに手術台を視ていた。台の上のメイソンジャーを知っているかいおじさんは、ペンウィーが動かした頭の位置をずっと保ち続けていた。
「さて、彼には他に何が必要なのかな。警部」
「刑事に事件以外の訊ね事をするな」
「なるほど。なら君は……」ペンウィーはメイソンジャーを知っているかいおじさんの後頭部を指さした。拳ほどの大きさの穴から見える内部には、灰色の脳が充満しているのが確認できた。「君には蓋が必要だ。そう、君には新たなる後頭部が必須だろう」

語り掛けるような口調だった。隣で聞いていたボルデインは、そんなペンウィーに熟練の修道女の面影を見出していた。
「新しい頭蓋だと? なあドクター、この手術室に替え用の頭蓋なんてあるのか? ここは都市にある高級な研究機関だったのか?」
「待てよ警部」突き刺すような声を放ちながら、ペンウィーはメイソンジャーを知っているかいおじさんの後頭部に向けていた人差し指をボルデインに向けた。「ここはおんぼろの安い研究所にすぎない。しかし替え用、つまり、人工的な骨を使う必要なんてないだろう? あれは確かにこの部屋の棚にしまってあるけれど、カネがかかるし、何より、この患者のためにならないだろう?」
「じゃあどうするっていうんだ? 強盗か?」
「簡単な話さ……」ペンウィーは自分の顔の横で右手の人差し指をピンと立てた。その表情は淀みの無い全能感で満たされていた。輝く自信の権化となったペンウィーは床で倒れている助手の死体を指さした。
「彼の骨を使えばいいだろう。正確には、そこで死に倒れている人間の骨を調達し、この新たなる麻雀戦士の後頭部にすればいいだろう」
「さすがペンウィー!」

ボルデインは拍手と共に輝いた目線をペンウィーに向けた。その双眼からは、この刑事一筋のボルデインが、ペンウィーの人格を完全に信用していることが十二分にわかった。
「さて、作業を始めようか。今回の目的は、この男から後頭部の頭蓋を取り出すことだ。まずは腹の開封から行う」
「しかしペンウィー。彼は見たところ、心臓が止まったことで死亡しているようだ。果たして開腹は必要なのか!」
「ばかものっ!」ペンウィーは短く怒鳴り、ボルデインの頭をパシンと弾いた。子気味の良い音が鳴り、余分な脂肪が多いボルデインの頬はブルンと揺れた。
「どんな解剖にも開腹は必須だ。それにプロというものは、初心を忘れないということだ!」

ペンウィーはすでに手にしているメスでボルデインの頬を切り刻んだ。彼なりの躾だった。五度のひっかきで血まみれになったボルデインは、横から差し出された女医のガーゼを貪りながら改めてペンウィーの顔を見つめた。
「さすがペンウィー!」明るい声を出すボルデインは流血で真っ赤な頬で笑顔を作った。天井にひしめいている無数の無影灯が頬の血液をてかてかとさせていたが、傷はすでに自己修復を始めており、すぐに跡形も無く消えるだろうと思われた。
「そうだろう。ひとまず私の云うことは聞いておいたほうが良い。では解剖を始める」

ペンウィーは新品メスを使い、まずは助手の衣服を切り刻んだ。深緑の手術着はメスの研ぎ澄まされた切っ先によって簡単に切れていった。露になった助手の腹に、ペンウィーがかつて付けた刺し傷はなかった。どうやら顔の切り傷と同様にすっかり修復されているようだった。ペンウィーは助手の腹に円形の線を描いた。学校の校庭に白線で引かれる長方形的な円形だった。それから白衣の内ポケットから取り出した新品ピンセットで助手の皮膚を剥がした。円形に切られた皮膚は簡単に剥がれ、下の皮下脂肪が露になった。
「おい、君の出番だぞ。さっさとこの脂肪を熱したまえ」
「へい! 今すぐに!」

花火職人の弟子のような掛け声を上げたボルデインは四つん這いになり、助手の皮下脂肪を舐め始めた。その様は二日ぶりに餌にありつけた犬とそっくりだった。犬のボルデインは通常の人間よりも大きな舌をベロベロと高速で動かし、皮下脂肪に唾液の光沢を付けていった。すると脂肪は徐々に溶けていった。その様相はまさに唾液に侵されれ溶けていく飴のような様相だった。
「おい! この男の皮下脂肪はどんな味だい? 警部!」
「へい! 錆びた鉄のような味です! ドクター!」

やがてボルデインは全ての皮下脂肪を舐め終えた。助手の内臓が露になったが、それを見下ろすペンウィーとボルデインは次に出すべき言葉を完全に見失っていた。

五秒の静寂の後、ようやくペンウィーが動いた。ボルデインが皮下脂肪を舐める様を立って観ていたペンウィーはしゃがみ、目を見開いて助手の腹を見つめているボルデインと並んだ。
「彼が、どうして私の助手を続けられていたのかがわかったよ」

ペンウィーが独り言のように呟いた。
「彼は、今回が初めてじゃなかったのか?」

ボルデインは刑事らしい声だった。
「彼は今回が三回目だった。私の助手を志願する者は多い。でも続けられる者は一握りだ。そんな中で、彼は難なく二回目、そして三回目をすることができた。私は彼に私のような特性、名医の特性があるんだと思っていた。でも、違った」

ペンウィーは右手を伸ばした。そして助手の腹の中に添えた。助手の腹の内部は冷たかった。そして硬かった。助手の腹の内部には赤色は無かった。ぬめりもなかった。漂う鉄の香りは、腐ってなどいなかった。錆びてなどいなかった。
「彼は人間でなかった」
「一介のサイボーグだっ」
「私の助手だっ!」

右手でボルデインの頬をはたいた。パチンという打撃音と共に、脂肪の多いボルデインの顔面がブルンと震えた。

ボルデインは痛みに顔を歪めなかった。泣くこともなかった。隣のペンウィーの横顔を、じっと見つめているだけだった。
「……本当に、惜しい奴をなくしたな」
「頭蓋を摘出する」
「了解だ」

表情の無い二人は同時に立ち上がった。

 

ペンウィーは助手の後頭部をハンマーで叩くことで、無事に頭蓋の欠片を手に入れることができた。鉄で作られたハンマーは助手の頭を簡単に陥没させ、中の脳を垂れさせた。助手の脳は山羊人間の脳とは違い、いちごジャムのような赤色が目立ち、ヨーグルトのようにドロドロとしていた。試しにボルデインが舐めてみると、彼は丸い顔を歪ませながら、「中年の頬のような味がする。おそらく医学の進歩とは無関係だ」と感想を述べた。
「なるほど。ならば、いくら舐めても問題はないな。警部、味をしっかりと記憶するために、もっとたくさん舐めておいたらどうだ?」
「おれは過剰な塩分が怖いんだ」
「ろくでなしだな。あんたはどこまでいっても、医学者にはなれないだろう……」

嫌な顔をしていたボルデインだったが、その後、彼は、さっさと頭蓋を取り付けようとするペンウィーに脳の味見を進めた。
「あんたこそ、今後の医学に発展を願うのなら、他人の脳を吟味しておくべきなんじゃないか?」
「……私は自分の舌を大切にしているんだ」

骨と骨を連結させるための道具の準備をしていたペンウィーは、ボルデインが持つスプーンの上の液状の脳を一瞥した後に背を向けた。取り残されたボルデインは、手元の脳を一度に飲み込んだ。痺れる味が舌の全体に広がり、脳が侵されている感覚に陥った。それから彼は、悶死していく女児のような声を上げた。
「味に捕らわれてしまうなんて、馬鹿な男だ。そんなんだから、警部止まりなんだ」

至極冷静なペンウィーは、四肢を震わせるボルデインを横目に、さっさと装置の準備を進めた。
「おい……。それはアイロンなんじゃないか?」

悶絶から回復したボルデインが、棚から装置を取り出したペンウィーに疑問を投げた。ペンウィーは、確かに両手でアイロンのような巨大な装置を持っていた。しかしペンウィーからすれば、手元のこれは衣服をどうこうするための庶民的な装置などではなかった。
「これは、骨と骨同士を熱で接続するための装置だ。市販のアイロンとは、もともとこの装置から始まったんだ」
「そうなのかい? 骨と衣服とじゃあ、まるで分野が違うように見えるが」
「分野を跨ぐほどの素晴らしい装置だということだ。少なくとも、この街ではね……」

ボルデインに鋭い目を向けたペンウィーは、装置の準備に戻った。ボルデインはまだ訊ねたいことがあったが、ペンウィーのわざとらしいせわしなさが質問を許さなかった。

 

底面が台形の大きな装置は片手で持つと、ずっしりと重く、棚から取り出した後に本体のみを専用の台座から取り上げるだけでひと苦労だった。ペンウィーは大きな持ちてを右手で握り、左手では装置の隅についているケーブルと、それの先端にある専用のプラグを持った。壁についているコンセントにプラグを刺し込み、持ちてに付いている電源スイッチを親指で押し込んだ。すると底面の鉄板がブルリと震えた。それは底面に灼熱が溜まっているという合図だった。
「さて、準備は整った。警部、この骨を彼の後頭部にあてがってくれないか? 私はコイツを見ていなくちゃあいけない」
「了解だ。ドクター」

ペンウィーが白衣のポケットから取り出し、差し出した骨の破片を、ボルデインは、右手でしっかりと受け取った。真白い骨は緩やかに曲がっており、割れた皿の破片のようにも思えた。ボルデインはそんな骨をメイソンジャーを知っているかいおじさんの後頭部に当てた。人差し指と親指で骨の隅を押さえると、後頭部の穴よりも骨の方が大きかったため、穴を覆う形になった。
「ドクター! ドクター! 装置の方はどうなんだ!」
「へい! 今すぐに!」

花火職人の弟子のような掛け声を上げたペンウィーは装置を持ち上げて駆け込んだ。
「出居沈。少しばかり後ろが熱気で騒がしくなるが、問題はないだろう?」
「ああ。……ところで君は」
「知っているさ!」

ペンウィーはメイソンジャーを知っているかいおじさんの言葉を遮り、装置の底面の銀色を、ボルデインがあてがっている骨の上に押し付けた。空気が抜けていくようなシューという音が鳴り、骨が溶けていく臭いが素早く室内に充満した。
「ところで、警部」
「なんだい、ドクター」
「君は指を喪失することに抵抗はあるかい?」
「へ?」

ボルデインはそこで装置を押し付けているペンウィーの顔を初めて視た。ペンウィーの口角は上がっていた。頬がぐにゃりと歪曲し、黄ばんだ歯列が視えていた。
「あんた、煙草吸いだったのか?」
「あんたは?」
「おれも吸う。捜査詰めで頭が回らなくなった時」
「ならこれからは、煙草一本を吸うのにも疲れてしまうだろうな」

ペンウィーがすでに歪んでいる口元をさらに歪ませて笑った。そして手元の装置をさらに押し付けた。その瞬間、呻き声を上げたのはボルデインだった。
「ペンウィー! 貴様あっ!」

彼は指から全身に走る激痛に顔を歪めたが、すでに憎しみの塊になっている双眼は、目の前のペンウィーの、悪魔のような下劣な笑みを視ていた。ペンウィーの装置押し込みによって、骨の破片を押さえていたボルデインの指までもが鉄板の熱によって焼かれていた。指の皮膚や肉や骨すらもが簡単に溶け、破片と一体化し、その破片は後頭部と一体化していた。

メイソンジャーを知っているかいおじさんの問題の穴は完全に塞がれた。中に入れた脳は完璧な臓器として機能し始めていた。平らになった後頭部は頭髪の一本も生えておらず、骨の白色だったが、骨の破片を押さえていたボルデインの指を巻き込んだため、一部が赤かった。それはボルデインの指の肉の色だった。また、ボルデインはまだ後頭部に繋がれたままだった。人差し指と親指の第一関節までが溶けて取り込まれたが、残りの指や身体は無事だった。
「さあ! 余分な物を切除しようか。余分な余分な、ボルデイン警部を切除しよう」

ペンウィーは素早く棚からメスを取り出した。装置を押し付けていた時の下劣な顔のままだった。ペンウィーはボルデインの怒号を無視し、メイソンジャーを知っているかいおじさんの後頭部に生えているボルデインの、人差し指の根本にメスの刃を添え、一気に切り込んだ。ひやりとする痛みが走ったボルデインは甲高く叫び、何度も床を蹴りつけた。しかしペンウィーはそれに一切介入せず、自分の役目を遂行した。刃を指の中に押し込むようにすると、まず皮膚が簡単に裂き、ぱっくりと割れ、血が流れた。流血は後頭部を赤く染めた。ペンウィーは刃を指の肉の中に押し入れた。鋭いメスは簡単に切断し、やがて骨が見えてきた。切っ先を骨に当てたペンウィーは、そのまま骨を軸にしてメスを時計回りに動かした。また切れていない肉に刃が当たり、簡単に切り進んだ。そうして一周をすると、全ての肉を裂くことができた。

ペンウィーは親指にも同様のことをした。柔らかい親指を切る感触は、ウインナーを切る感触に似ていた。また、大量の流血はボルデインの意識を朦朧とさせた。彼は何度か気を失いかけたが、その度にペンウィーは彼の脂肪の多い頬を引っ叩いた。ブルンと震える頬に挟まれた小さな顔は、肌を伝わっていく痛みによってすぐに意識を取り戻すことができた。

二本の指の肉を切ったペンウィーはメスをしまった後に両方の指を片手で掴んだ。そして九十度動かした。すると小枝が折れるような音が鳴り、ボルデインが叫んだ。彼の頬には大量の汗が浮いていた。ペンウィーの手の中の、ボルデインの二本の指の骨はしっかりと折れていた。

ようやくメイソンジャーを知っているかいおじさんの後頭部から解放されたボルデインは尻もちをつき、自分の無くなった二本指を眺めた。彼は涙を流しながら薄い笑みを浮かべていた。カタカタと笑い続けるボルデインのシワが浮いている頬を透明な涙が下っていた。ペンウィーはそんな彼を見世物小屋に立ち寄った中年のような顔で見下ろした。どうやら彼は強烈な痛みとありえない喪失によって情緒が狂ってしまったようだった。
「警部! 安心したまえ! たった二本だけだ! 何の問題も無いはずだ! そうだろう?」

ペンウィーはいじけている男児に問いかける男性保育士のような柔らかい低音でボルデインに手を差し出した。その手はすぐに握られた。ペンウィーはボルデインの身体を引き上げ、彼の丸みのある背中に手を添えた。さぁ、と紳士らしい口ぶりのペンウィーは、ボルデインに、ついに目覚めたメイソンジャーを知っているかいおじさんの顔を覗くように促した。

メイソンジャーを知っているかいおじさんは、やがて両目をぱちくりとさせながら、上半身を持ち上げた。ペンウィーが行った開腹によって腹の皮膚は完全に無くなっていたが、メイソンジャーを知っているかいおじさんは問題なく身体を動かしていた。腹の中はすっかり乾いているらしく、固まった血液と液化した皮下脂肪が赤と黄色のマーブル模様を作っていた。メイソンジャーを知っているかいおじさんは、二人を見つめた。その目にはやはり麻雀牌の『中』がそれぞれ二枚ずつ浮かんでいたが、彼の瞳の輝きはこの長い施術を施す前よりもよっぽど良いものになっていた。希望をそのまま双眼の中に入れ込んだような、清い煌めきのある目だった。
「さぁ出居沈。いいや、メイソンジャーを知っているかいおじさん。ほら、この警部の手を取って……」

ペンウィーはメイソンジャーを知っているかいおじさんに促した。すると彼はゆったりとした動きで左手を突き出し、ボルデインの右手を握った。人差し指と親指の先端を喪失した警部の手は、ペンウィーからは一回りほど小さく視えたが、メイソンジャーを知っているかいおじさんは構わずしっかりと握った。互いの手汗が交換できてしまうほどに密着させていた。ボルデインはその瞬間に、メイソンジャーを知っているかいおじさんの熱量を感じていた。彼の熱は生きていた。能動的な灼熱だった。それが素手を通してボルデインの体内に入り込み、全身のいたる箇所で渦を巻いていた。新しい熱は新しい希望となって、指を喪失した悲しみが消えていなかったボルデインの背を押した。ボルデインはメイソンジャーを知っているかいおじさんの手を握りしめ、彼がしっかりと床に足を付けることができるように支えた。無事に彼が直立した瞬間を目撃した警部は、すでに二本の指の先端との完璧な別れを終え、乗り越えることができていた。

ボルデインの手を放したメイソンジャーを知っているかいおじさんは、二人の顔を交互に視た。二人とも、輝いた顔つきだった。それは大きな仕事を終えた達成感からくる勲章の光だった。
「お二人とも! ありがとう! 私は貴方たちのおかげで、この場に再び足を付けることができている!」
「いやいや、礼には及ばないさ。私は名医で、彼は警部。互いに自分の役目を全うしたまでだ。なあ、警部」
「ああ! そうとも!」
「さすがペンウィー! そしてボルデイン!」

メイソンジャーを知っているかいおじさんは拍手と共に輝いた目線をペンウィーとボルデインに向けた。その双眼からは、この完治患者の瓶詰出居沈が、ペンウィーとボルデインの力量を完全に信用していることが十二分にわかった。
「さぁ! さぁ! お二人! 私はお二人にしっかりとした礼をしなくてはならないのです!」
「い、いや、出居沈君。だからそれはっ」
「いいえ待って! 聞いてくれ、名医。私、いや、我々はそういう所属なのです。我々、麻雀戦士は」
「麻雀戦士だと?」飛び抜けた声を出したのはボルデインだった。「お前、麻雀戦士なのか?」
「はい!」メイソンジャーを知っているかいおじさんは明るく力の籠った返事を出した。「私は一介の麻雀戦士です。そして、麻雀戦士として貴方たちに麻雀の礼をしなくてはならないのです!」

メイソンジャーを知っているかいおじさんは、ペンウィーとボルデインの後方に人差し指を向けた。

二人は操られているように後方を見た。

そこには麻雀卓が置いてあった。卓の上には百三十六の麻雀牌が、綺麗に並べられていた。いますぐにでも麻雀を始めることができるセットだった。それはペンウィーがこの手術室に入った時、名医だからという理由で送られた品だった。
「なるほどな」

最初に頷いたのはボルデインだった。彼は室内にいくつもあるパイプ椅子を三つ持ち出すと、麻雀卓を囲むようにそれぞれを置いた。作業を終えると椅子の一つに、どっこいしょ、と息を吐きながら座りこんだ。
「良いですね! 貴方たちとなら、きっと良い勝負ができます!」

メイソンジャーを知っているかいおじさんも席に着いた。ボルデインの向かいの席だった。座り込むなり彼は、眼前の綺麗に並べられていた麻雀卓を両手を使ってぐしゃぐしゃにかき回し始めた。

緑色の卓の上で乱雑に回っていく無数の麻雀牌を眺めていたボルデインは、まだ座っていないペンウィーを見上げた。ペンウィーは、自分とは全く違う生活様式を持っている異星の生命体に向けるような好奇な目を二人に向けていた。
「ほら、ドクター。さっさと座っちまえよ」

ボルデインの大きな声が、優秀名医ペンウィー・ドダーの脳を、ぐしゃぐしゃと震わせた……。

2022年6月30日公開

© 2022 巣居けけ

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