摩擦委員会の軋轢。

巣居けけ

小説

10,892文字

私たちは液体公園への行き方を、すっかり忘れてしまったよ……。

熱した鉄で散髪屋を作る。制汗剤で夏をやり過ごす。惑星の列を想って、女児専用の万年筆を作成している。歯車が独りでに動き出し、時計の針で陰茎を演じている。少年の汗で電波を組み立てる技師が、積み木のような生涯に両手で抗っている。闘牛のような中継に、大工の二割が路線を見出している。誰の垢も付着していない白の新品のトゥーシューズや、台所の冷たい吐息が溜まった青の真新しいバレエシューズによって、どこの雀荘にも入らないでぶの三十路を演出することは可能だった。

黄金の筆と、べっこう飴専用の爪楊枝をドバイで信仰している細い一等星を食した指揮者による、ゴム製の前転で、数多の駄菓子が粉砕されていた。刑事が出勤し、女児は見世物の体躯に小銭を渡し、互いに金魚で自身の唾液の色を知る必要がある。教師は鞭のような教科書で男児を圧迫し、長髪をわが物にしている。至極一般的であり、至極寛容的な小学生の性の教育や、冤罪を免れたゴキブリの羽には青い両手がどうしても届かない。朝を願った石焼きに対してのみ支払われた銭の全てが刑事の舌に跳ね返った。夕焼けと共に会議室が落下し、街の全ての硝子に月が反射した。食事の瞬間に蛸を生やすことのある棋士が、いつでも煙草で男児を回転させている。紙幣で作られた傘の上の女児と、猫専用の首輪の紐。しかし、彼らは人間の回転数や回転方法などで殴り合いをすることがまれにある。鎮静剤で城を組み立てる漁師の群れがあった。地下では委員会が作られていた。

誰もが、公園に行きたいと願っている。誰もが、この委員会からの脱出を試みている。しかし、干からびてゴキブリになってしまった、羊が居る……。彼らは摩擦の委員会に収容される。地下では牢獄が重なり合っている。全ては、公園への路地の道を思い出すための、摩擦の仕掛けだった……。

全ての名誉教授は自分の学術的見解に自信を持っているが、同じ席に居合わせた名誉教授の学術的見解には恐れ慄いている可能性が高い。彼らは一斉に喉仏をエベレストの形にすると、山羊は麻雀を打つことができない旨を叫ぶことがある。カフェテリアが、すぐに雀荘に改造されてしまう……。
「仕方がないだろう。ここらの流行りを作っているのは名誉教授の連中だ。彼らが例えば、カレーライスはむしろダイエットに効果的だって叫べば、二日後には商店街がカレーライス屋まみれになって、街中にスパイスの調理方法やら隠し味の匠な隠し方についての書籍の切れ端であふれかえるんだから」
「住民は強烈なスパイスの香りで、嫌気を感じるんですね?」

記者のロクはいつでも父親の形見である万年筆を他人に向けていた。
「ああそうさ。だから連中を上手く操らないと……」

ロクの万年筆は盗品だった。父親の火葬が残り十秒で始まるという最中、父親の右耳の中に突き刺さっているのを、当時は死体監察官だったロクが目ざとく見つけ、中学時代に磨き上げたスリの術を使って抜きとった物だった。万年筆について調べていくと、その盗品が十万を超える高級品であることがわかった。パソコンの液晶画面に表示される文献でそれを知ったロクは、その一日を風船のように過ごした。カフェテリアで食べる蛸の塩焼きに、女児の指とげり、そして淡を混ぜた真のスパゲッティという至極優秀な三品も、海女の身体に粘り付いた烏賊墨の味にしか思えなかった。
「だからこそ、僕は記者としての道を歩むんだっ」

ロクは叫び、依然として取材相手の国語教師に万年筆の先端を刺していた。金色の刃のような万年筆先端は大きく出た腹の肉を貫き、臓器にまで届いていた。激痛を感じているらしい国語教師は、それでも笑みを浮かべていた。

すると、この第二取材室の出入り口が開かれた。ロクは素早く振り返った。最大限にまで開かれた出入り口には、大きな男が立っていた。
「やあ。私が数学保護活動家の、スチンラー・バウン・ダイモーズだよ。インドを愛してる」
「それ、名前?」
「もちろん」

スチンラーは向日葵のような温かい笑みを浮かべながら着席をした。力士のような巨体を覆う藍色の背広からはドバイの香りが漂っていた。宝石店を仕切っている支配人のような、焦りや緊張感とは無縁の人生を送っていそうな、大らかな風貌だった。
「データはすでにコピー機に転送されていますね?」
「もちろん」

答えたのは国語教師だった。ロクも何か言葉を挟もうかと口を動かしたが、スチンラーの岩のような体躯から感じる圧が、口を横一文字に閉じさせていた。
「なら数式の位置情報も」
「すでに入ってます」
「感嘆符を説得する準備も万端だ。さあ取材係のロクくん、君はどうする?」
「どっ、どどどどどうしましょうねえ……」

ロクは緊張から赤面をしていた。圧迫感のあるスチンラーの雰囲気に完全にひれ伏していた。両ひざに置いた握りこぶしに汗が滲んでいた。固唾を何度も飲み込んでいた。
「ああ。もし君が最大限に悩んでいるのなら……」スチンラーは背広の内ポケットから長方形の紙を抜き出し、ロクの眼前に突き出した。
「摩擦委員会に、行ってみるのはどうかね?」

紙幣を一回り大きくしたような紙の中心には、黒文字で、『虎の骨の酒でも飲んどけ。』と書かれていた。

鉄の鋏で三年を描き、銅のしゃもじで雷雨を掬っていた。カカオの木の未熟さや、プラスチックの赤黒い睾丸がもたらす湿り気で性の授業を続けようとする教師が、救急車からの発砲で一斉に駆けていき、人間の砂漠を下りている。また、その際の雀荘とは最後の細い避難所で、床に敷き詰められている、使い古された銅のしゃもじが全ての安全と数式を叫んでいる。

死体の女で一夜を明かした痩せた薬物常用者は、山羊の夢を観ることがある。山羊が大きな口を開いて女児を咀嚼する楽園を、低確率で覗くことがある。
「そもそも、化学物質を噛ませた歯車だけでは、しゃもじの容量を超えることなど、到底できないんですよ。彼らは唾液を孕んではいませんし、窒素のような体たらくで働くことなどできませんから」技師は大型カメラの前で両腕を食らってみせた。

チラシの裏に貼り付いた鉄のトランプカードでは、大学の門をくぐることすらできない。彼らはいつでも、古いテレビのアンテナで尿を打ち消す必要がある……。彼らはマンホールの上を歩くことを何よりも避けている……。
「なあ。あんたの素足の細かな曲線ってのは、やっぱりどこまでもどこまでも黒い廊下で、あんたの祖先はやっぱりぱりインドネシア・コモドなのかい? それとも、ゴキブリの羽のように、どこにも飛ばない油を仕込んでいるのかい?」大麻吸いのカレー屋主人が、新鮮なインド人の皮を咀嚼している。数学を教え込むつもりで、体育の教科書を焼いている。
「いや、おれは竜なんかじゃねえよ」

雄の配達係が女児のボクサーパンツで寝具を作っている……。最も香りの濃い位置を枕にしようとしている……。居酒屋の常連どもは夕日を嫌うと同時に、手ぬぐいに擦り付けた山羊の唾液で食事を滑らせるように流し込んでいる。しかし数秒で針が指を貫通し、体内の阿片の空気を外に流してしまうことに泣き叫んでいる……。
「おれはまた三万を水槽に浸すのか……」パチンコ常連がいつでも財布をすり切らせていた。

大半の昆虫マニアは展示会の最中に発生する赤いバラードを破壊したい衝動で木材を紙幣に戻しているが、逆流を恐れた脊髄によって、彼に宛てられた郵便物はこれから広がる黒い永遠をレース会場で過ごしている。鴉を食らった学級委員と図書の虫が、最期の煙草で女児を回転させていた。連中も必ず紙幣の傘を使う。連中は、萎んでしまった向日葵と刺身の定食屋に四角い学士を乱入させて、花火と共に落花生の賛歌を口ずさんでいた。

学士が消えると教授が増えた。名誉を知らない学問で、頭蓋骨による強襲が始まってしまった。刑事の脊髄を観察していた医学者どもが、新しい文字が刻まれている刀に夢中になっていた。彼らはいつでも中腰だった。しかし彼らは、軍服を知らなかった。彼らは、油を轟かせた紙幣に関心がなかった。ドミノ倒しのような銃の匂いを知らなかった。彼らが知っているのは虻だけだった。しかし彼らは、自分たちが山羊のような瞳で書物に唾液を塗り、ラーメン中毒の老婆のように簡単に腰を折り曲げているとは考えなかった……。
「彼らはどうして油の香りを頭から漂わせているの?」
「自分で自分を見つめる機会が無いからさ」

煙草をふかしている便器清掃係は日誌で鳥の糞を偽装している。医学者がココアのペーパークラフトで、針金の園児に重火器を教え込んでいる。「これは上物だっ」

消化器官で作られた胃液の香りに釣られた家畜の中の小さな蟻が、家のような巨大な足で象の本を描いていた。園児が書物を黙読する際には、必ず銀河系が一つほど滅ぶ。しかし名誉教授らは彼らが振るう指揮棒によって、自分の孫の性器が左右されていることに気付いていた。学長を自称する成金趣味の男が、展覧会の隅で隠された絵画の役割を担い、数学の最先端を気取り始めた。山羊の黒い化石から突き出た赤い箸で、長髪筆者が死んでいた。遺体の七割が薬物で作られている身体と、学問を無視した学長のはげていく頭の喜劇だった。
「まるで注射器みたいじゃないか……」

他人から突き出た肋骨で、医療従事者が死んでいる……。彼は濁流のような生涯をモールス信号で全国に開示した経験を持っていた。彼にとってのトレンチコートとは肌だった。しかし彼は、名誉教授ではなかった。新しい学業形式の中で圧死をした最初の人間だった。腕から生えた黒い文字が、筆者の青い親指から去って溶け、風船のように果てて消えてしまった。他国の風をうちわだけで演出していた。風船が飛んでいた。湯舟が風船になっていた。紐だけが迷子になっていた。道化師が唇を黒色にしてしまうと、山羊の筋肉に顔が貼りつく。他人の過去にばかり嫉妬を感じてしまう道化の長身男が一斉に天井に貼り付いて、世間に山羊の角が降れば良いと願っている。山羊頭の人間が虹を観察して苦痛を訴えている。

踵を知らない列車の惑星が、本屋の埃で呼吸をしている。
「君はどこから来たの?」
「君の脳の中と、図書の宇宙から」

三年ほど前に枯れてしまったチューリップを差し出した。
「なるほどね」

そうして目の前のチューリップを咀嚼し、保護観察官のようにメモ帳を開いた。真っ白なそれに、チューリップの香ばし味を指先の出血で記入していった。
「ええ。評判が落ちずにすむよ。ははは……」

試験管の中での食事に憧れを抱いてしまっている。観察を敷いた食卓に道化の首を置き去りにしている。自動販売機の、同性愛者だらけの園……。「彼はどうして空き缶で国を造ろうとしたのだろうか」
「ところで、ぼくはここの店長をやっている狸ノ川だけれど、名刺交換など、どうかね」
「結構だ」国境警備の男が戦闘帽を投げ捨てた。

炎天下で、秋刀魚が出来上がっていた。四角形の歩道の橋と、その下の赤い坂で、三つ編みの女児が笑顔になっていたが、右から迫る戦闘帽で歯列が乱れてしまった。

青少年の逆立ちで街が作られていく。ホログラムのように、立て続けに再生していく。刑事が一人の歌手を追っている。熊のような見た目のラーメンマニアの連中が、気管支炎で消えていく記者の数を片手だけで数え切ろうと努力を重ねている。彼らは夕暮れの甘味や、台所で光っている包丁がどうして出刃なのかを知らない。鉄の掬いで油だけを弾いていくマニアは、床に貼り付いたゴキブリを見つめる作業だけで三日を使い果たしてしまうことがとても頻繁にある。国境を食らったラーメン屋台に陳列されているカクテルに心を射すくめられたラーメンマニアの大半は、いずれ数学科の教鞭を握る毎日に飲まれてしまう。体操選手のような三日月の横顔に、赤のクレヨンや小切手で亀裂を入れようとしている同性愛者の蟻が一列で並んでいる。カメラマンが新幹線の比喩で列を撮影している。しかし蟻にはラーメンを啜る権利が無く、三日の不動を続けたマニアの足の下敷きになって、その生涯を終えてしまう。
「山を駆け上がるつもりでいるの?」
釣りの装備を掲げている登山家に声を貼り付けている少年。「山に、水分は無いけれど?」
「ああ大丈夫。私はどこまでも土煙を弾くことができるんだ。君の瞳の中の土煙もね」

少年は夕暮れを知らなかった。狼の瞳の中で生きていた。登山家はどうしても船を降りるつもりが起きなかった。使い古した布団の、ちょうど真ん中に蟻の標本が落ちていた。少年は空き缶で酒を造り始め、職人を名乗って国境を憎んだ。
「名前を呼ばれるだけでつらいんだ……。でも僕は、曇りなんてものは知らない……」少年は昨日の朝に発生した学級集会を思い出していた。万年筆を気取っているクレヨンで体を刺された経験を脳裡に起こしていた。大量の丸刈りの児童と、それを監視する教育者が群がる中、壊れかけているスピーカーから自分の本名が流れる度に、少年はどうしようもないほどの恐怖を感じていた。ナイフの切っ先のような鋭く無類の緊張だった。少年はすでに眼窩の中の鼠を飼っていたが、それでもスピーカーからの本名連呼には耐えることができず、小刻みに震える脳が両足の動作を不能にした。速まる心臓が、他の臓器に吐瀉物の作成を命じていた。

気づけは保健室の第三仮眠個室の中に居た……。
「だから名前連呼は辛いんだっ」
「それが君の潮時なのかもね」

登山家は必死に数学科専用の教鞭を握っていた。ステンレスのそれは釣り竿のようによくしなるが、釣り竿のような他の生命体が好む餌の香りは無かった。「君には学級が向いていないのかもしれない」
「ぼくはどうすればいい?」

すると登山家は数学科専用教鞭を手のひらほどの大きさに縮めると、それをひょいと口の中に刺し入れた。どうやらそこが教鞭の元々の収納場所だったらしく、教鞭は唾液と共にすぐに口内の環境に馴染んだ。
「君は、摩擦委員会に行くと良い……」

低音が少年の脳の中で反響していく……。登山家はいつの間にか、右手に長方形の紙を握っていた。紙幣を一回り大きくしたような紙の中心には、黒文字で、『虎の骨の酒でも飲んどけ。』と書かれていた。
「摩擦委員会?」
「あそこは楽園さ……」

登山家は少年の頭髪に口づけを行った。少年の震える素手の中には、いつの間にか長方形の紙があった……。

坂道とは、いつでも人生の反対に貼り付いている。そして、人生を歩く生命体が、その人生に疑問を感じてしまった瞬間に眼前に現れる。まるで、隠されていた文明の遺跡が砂煙の下から這い出てくるように、ゴゴゴッという音を立てながら表れて、生命体に下ることを無言で示してくる。

山の購入に於いて必須である肺のパイプを、五つほど仕入れていた。

海の波を完璧に予測できる人間は、四割ほどしか滞在していないが、その四割が山羊の毛に気持ちの良い感情を抱いているのかは別の問題であり、管轄外である。

教授は船に乗ることができないが、船の内部に自分のフィールドワークを作り出すことは可能だった。重火器と人工培養のブルドーザーや、野生の純正ブルドーザーの人体実験に関する書籍を洗っていると、三日月の形を模した錠剤が独房の片隅に届けられた。囚人はいつでも、雀荘の夢か山羊の夢を観ているはずだった……。

性欲を自認している蟻が居る。彼らは自分たちの尻に極上の酒を作るための液体が染み込んでいることも理解している。だからこそ、彼らは人間用の風俗店などでも対等に戦うことができる。豆の開封を手助けした不老長寿に唾液を預け、子供には、正常位だけでははげになるぞという法螺を吹き込んでいる。すると蟻はたちまち巨大化し、そこで初めて自身の精液の色を知る。背広を食らうことはないが、酒の臭いで昇天しない保証も無い。穴に落ちた女子高生のような危機感の中でこそ、蟻たちの性欲の粘り強さが試される……。
「お前の伴侶って、理路整然なオーマイパスタだったんだな」

煙草吸いであり生粋の漁師のケラは、六十という年齢特有の大らかさを感じさせない毅然とした態度で、何度も何度もうなずいていた。しかし彼の両腕はすでに豆腐ですらなかった。鯵の開きを食べた経験すら、至高の貧乏人のケラにはなかった。彼は両親の兄弟で味噌を作り出した経験を、さも武勇伝かのように語ることだけに特化していた。伸びきった輪ゴムか、使い古されたバネのようにくたくたに地面に広がり、だらけている両腕が彼の唯一の自慢の獲物だった。

ケラの両腕の惨劇は、すでにこの街の漁師市場が山羊人間どもに席巻されていることを濃く物語っていた。

ケラは、どうしようもなく弛緩したゴム製の手足で坂を上がっていた。彼はどこでも丸い眼鏡を掛けていた。それが自身にとっての名札になっていることを自覚しているため、彼は銭湯に立ち入った時も、決して丸い眼鏡を外さなかった。水滴が貼り付いたケラの丸い眼鏡はやがて自我を持ち、ケラの器用なモリ捌きに若者のような苦い口出しをするようになった。しかしケラは怪異の類と山羊だけを疑って生きてきたので、自我持ち丸い眼鏡の戯言を自分の二つ目の人格の叫びであると解釈していた。

週一の感覚で精神科医に通っているケラは、薬剤師に自身の漁師としての生き方を読み聞かせることで、自己の肯定感を高めていた。
「なあケラさんよ。あんた、ここじゃあなくて、委員会に向かった方が良いぜ」
「ええ、委員会だって?」

円形椅子に腰を下ろすケラは丸い眼鏡を押し付けた。途端にケラの脳内には、ケラの顔面に押し込まれたことによる圧迫感に苦しむ丸い眼鏡の悲鳴が響いた。
「ああっ……。ダメだ……。ダメだって、言っている……」
「なあケラさん」前かがみで苦しみだしたケラを、主治医のペンウィーは快く抱きしめた。「あんたはやっぱり委員会に向かったほうが良い。摩擦委員会だ」

そして優秀医師のふりをしているペンウィーは、白衣の胸ポケットに指を忍ばせた。取り出した、紙幣を一回り大きくしたような紙の中心には、黒文字で、『虎の骨の酒でも飲んどけ。』と書かれていた。
「ああ。ワシにはそれが……。楽園への切符に見えてしょうがない……」

ケラはそこから大部分の脳を鼻水として放出し、棺桶に入れられた遺体のような穏やかな心中で診察室から出ていった。

ガタン。という出入り口が閉まる音が響いた。溶けて鳴り止んだと同時に、ペンウィーは医師机の隅に置いたタンブラーを手に取った。中の無糖珈琲を舐めるように飲み、後方で直立をしていた専属看護婦に疑問をぶつけた。
「なあ、やつは筋萎縮性側索硬化症なのかい?」吐き捨てながらカルテの一部をゴミ箱に投げ捨てた。辣腕を持つバスケ選手のような投てきは、正確な音と共にカルテをゴミへと帰還させた。
「いいえ。彼はれっきとした、トロフィーです」

煙草を吸わない若い看護婦は、診察室出入り口の小窓から、ケラの電信柱のような背中を眺めていた。

注射器の先端に、女児の食べ残しチョコレートや唾液を塗り込んだ経験のある細身の看護婦と、酒飲みの黄色い集団……。軍服を仕事の衣服だと言い張っている、どうしようもない執刀医の姉妹たちが徒党を結成し、いつでも主治医連中の首や医薬品の発火作用を放棄できると脅している……。彼女らは、どうにかしてカフェインで赤飯を閉じ込めようと熟考している……。廊下を進む患者の尻に女児の手垢が付着した黒い万年筆を突き立てて、硝子の職人たちの顔を階段状に並べている……。
「それはどこで拾ったんだ? あんたの特注の獲物なのか?」
「取材室で、拾いました」
「なら、良しっ」軍人気質の敬礼で、全ての看護婦の負担を憂いている。

薬物常用者たちは幻覚の生成方法を熟知している。しかし、彼らが他人にその方法を喋ることはない。たとえ共同で一つの注射器や針を使用する、いわゆる薬物常用者としての兄弟や姉妹に対しても、自分の薬物常用生活の中で編み出した幻覚の作用の全てを吐露することは決してない。
「おれは、カップラーメンという食べ物に於いて、人生には二つの場面があると思うんだ……。一つ目は、『食料が無いため、仕方なくカップラーメンを食べる時』。そして二つ目は、『他の食料に関係なく、カップラーメンが食べたいからカップラーメンを食べる時』だ。そして、いまは、圧倒的に後者なんだ」

カフェテリアを寝床にしている粉末マニアのアルインは、いつもの調子で専属調理係に吐息を漏らしていた。
「しかし、しかしなっ。今のおれは、別の問題と対峙してるんだあ……。なあ相棒、わかるかい? ええ?」
「わかりませんね。どうして薬物常用者のアンタが、カフェインの香りだらけのここに、嬉々としてたむろしているのかが、全くもって。ええ」

専属の調理係は全ての大学生や名誉教授、そして人間喰らいの山羊のための珈琲を淹れる作業に入っていた。そうすることでカビだらけのコートを着ているアルインの戯言から逃げようとしていた。発光しているようにも見えてしまう珈琲豆を鉄のスプーンで掬うと、黒色の珈琲生成装置に流し入れていた。

アルインは、この場が深夜の居酒屋かのような雰囲気を一人で出していた。豪快な笑い声をひとしきり上げると、カフェテリアを通常方法で使用している大学生たちから身体をじろじろと観察されていることには一切触れずに、ガラガラな声を続けた。
「おれはなあ、元々醤油味のカップラーメンを食べようとお湯を沸かしたんだが、棚を見てみると醤油味以外にもう一つ、別の味のカップラーメンがあったんだ。どんな味か、わかるか?」
「コカイン星人味ですか?」
「ちげえよ。コカイン星人は架空の生き物だろう?」アルインはかつての薬剤師らしい眼力で調理係を睨んだ。画鋲の先端のような極小の鋭い光があった。珈琲生成装置にお湯を注いでいた調理係は両肩を跳ね上がらせ、両足に鳥肌を作っていた。
「あれは、沖縄風そばだった。いやなんだよ、沖縄風そばって。気になるじゃねえかよ。沖縄風そばって。なあ?」
「そうですね」
「沖縄っていう県名が入っているだけで、強烈な好奇心を抱かせるから、恐ろしいんだ。パッケージの青々しい色合いを見るだけじゃあ、具体的な味を舌の上で予測することができないのが、もどかしいんだ。……でもなあ、おれは昨日の晩から決めてたんだ。どういうことかって? まあ聞け。昨日の話なんだが、夕食を終えたおれの腹は、さらなる食事を求めたんだ。具体的には脳裡と舌が醤油味のカップラーメンを要求してきたんだ。だが、時刻はすでに二十四時。早朝からの予定が詰まっている明日を控えた今、夜食と称してカップラーメンを食べている暇など無い。そうだよな? だから明日、朝食として食べようと心に誓ったんだ。誓いながら眠りに落ちたさ。ああ、良い眠りだったね。間違いなく。だから今日、沖縄風なんていう曖昧で抽象的な名を冠するカップラーメンに気を取られている暇なんて、おれにはないんだよ。どちらも食べてしまえば良いっていう、悪魔の囁きが腹の奥から聞こえてこないでもないがよ、今日は、必ず醤油味を食べなくちゃあいけない。おれは道を歩いて、いくつものドアを開けて、走って、また歩いて、休憩と称して粉を吸い、女を買う妄想で白いアーチを描いて、ついでに公園の隅の水を飲み干して。他人から胎芽の描かれてる旗と鎧を奪ってから、ようやく例の委員会の本部の戸を叩けるんだ。なあ、わかるよな? ええ?」
「え、ええ。……ええ」

調理係は二つの珈琲を作り終えた後に、それらに自分の永久歯を植え付けた。茶柱のように沈んだ永久歯は静かに溶解し、珈琲を赤色に染めた。それは、調理係が他国の戦闘兵になることが決まったことを知らせる色だった。調理係の脳裡に、火薬の轟音と共に発射されていく弾丸が映った。足元をちらりと覗くと、空の薬莢がカフェテリアの床を埋めていた。驚きながら二、三度足踏みをすると、幻覚だった空薬莢は消え去ったが、鼻孔にこびり付いた煙硝の香りは、珈琲の臭いを嗅いでも消えなかった。

ため息を吐いた調理係はアルインの瞳を覗いた。森林の中にひっそりとできた洞窟のように、深く光の無いアルインの瞳の中に、薬剤師のような凛とした雰囲気は無かった。まさに薬物常用者のそれだった。再び三度のため息を吐いた調理係は、自身が着ている青い調理用衣服のポケットから紙を取り出し、アルインに差し出した。
「カップラーメンを食べた後にカップラーメンを食べる。すると腹の中でカップラーメンとカップラーメンが重なり合って、即席ではないしっかりとしたラーメンになるバグがある」
「うそつけ」

大手ゲーム製作企業社員のような顔つきを作るアルインは、調理係から紙を奪い取った。その瞬間に限り、はげの彼は自分の黒色の頭髪が七三分けになっているものだと思い込んでいた。瘡蓋だらけの指で抜きとった、紙幣を一回り大きくしたような紙の中心には、黒文字で、『虎の骨の酒でも飲んどけ。』と書かれていた。

脳に、熱湯を注がれていると思い込んでいる……。身体が内側から入浴をしている……。肺が他人のための湯舟に指定されている。錠剤が転がり落ち、ラクダの上でアルカリ電池が二極化している。
「最低の罵倒で貶されているって思っていればいいんだよ。そうすれば実際に見た時、何にもなくて拍子抜けすると同時に、安心するから」

自分に言い聞かせた教訓が、シャワーヘッドの中で反響していた。

居酒屋の店員は必ず、老婆の脳と熱燗を混ぜ合わせる必要性で卒業論文を執筆しなくてはならない……。だからこそ海軍の老人とホテル街に消える。そして他人の精液で満たされた万年筆を握る。かつての記者は自分だけの万年筆を持っていたが、他人の万年筆で仕事をしている記者も居た。しかし、そういう記者に限って、委員会に招かれる。そういう記者に限って、万年筆を武器として使ってしまう。

古代の帝国で使われていた文字の書き方をそのまま真似ている大学生は、その大半が性行為で教授からの課題をこなしている……。

言葉を聞くと、人は必ず想像してしまう……。臓器を見ると、人は必ず射精してしまう……。熱燗の中の小さな脳を、肺の中で血液に溶かしている。極上の錠剤を手に入れてしまった薬物常用者は、時に、令状をぶら下げている警察官よりも手ごわいゴキブリになることがある。

事例に載った経験のある連中は皆、福笑いを失敗している。薬物常用者を匿う病棟の階段を駆け上がったり、逆に下ったりを繰り返す少年の頭は二進法で剥げていく。カスタード・クリームの女医をしゃぶっている老人には関節が無く、テレビの中のニュースキャスターに恋をしてきた中年のでぶは、ベレー帽で国家を作っている。味噌の職人のような手つきでハンバーグを食べている。主治医が私有地で、尿を垂らしている。
「さて、そろそろ地震から地球を守る必要性が、じわりじわりと出てきたかな」

委員長は、独りきりの委員会室で腕を組んだ。

2022年5月16日公開

© 2022 巣居けけ

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