――松は実に渦鳴りの昼遠くなりぬ――
徳島出身の俳人である今枝蝶人が渦潮の音を山上で聞いている内に忘我の境地へと至ったことを歌った一句。鳴門海峡に架かる大鳴門橋の袂にある鳴門公園で、この句を記した石碑に目が留まった。蝶人に限らず、吉川英治や演歌歌手の伍代夏子などこの地に所縁ある著名人は多い。『NARUTO―ナルト―』の主人公うずまきナルトが世界中を席捲した事実を鑑みても、鳴門海峡が人々に影響を与えた歴史は実に多様だ。彼らの人生はこの地に引き寄せられた。渦巻く潮にあがなう術を持たないわたし達がただ、その中に飲み込まれていく様に。わたし達はぐるぐると回り続けるように生きている。どんなにその軌道から逃れようと外縁に向かって懸命に進んでも、けっきょく中心点に引き戻されてしまう。人間をミクロに構成する遺伝子だって螺旋状である。宗教的に考えてみてもいい。ブッダは輪廻という概念を唱えた。キリスト教は復活というサイクルで世界に広まった。ムスリムは聖地という中心に向かって祈りを捧げる大きな渦を成している。わたしたちは渦だ。渦自体であり、渦を成す流れの中に存在する。なめくじが嫌悪されるのは、蝸牛と違って彼らが渦を持たないように見えるからだ。しかし、人間が渦を持つように見えないのと同じで、彼らもどこかに渦を抱えている。わたしたちが頭頂に旋毛を持つように。こどもの頃、旋毛の数を数える遊びが流行った。わたしには一つしかない。二個あれば何故かテンションは上がったし、三個なんて見つかった時には一躍「渦中の人」だ、文字通り。嫉妬を覚えたわたし達は、旋毛が多い人は将来禿げるんだと揶揄した。でも、一個でも禿げる人は禿げるし、三つあっても禿げない人は禿げない。それは遺伝という、ヒトの再生産のサイクル的要素の方が大きい。年老いたわたし達は朝起きて歯を磨く時に目にする鏡像を両親と見紛う驚きの中で気づく。あるいは、バスルームの鏡の前で、シャンプーで泡だった髪を逆立て遊ぶ我が子にデジャヴを感じる瞬間に。再び中心に戻っていく、その渦中にいることを感じるはずだ。その引力に歯向かうように飛び出したあの頃から、外縁にだけ目を向けて進んでいたつもりだったのに。人生は渦になって飲み込まれていく。
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