告白

応募作品

諏訪真

小説

11,573文字

自殺未遂者の告白。
破滅派第16号原稿「失われたアレを求めて」

野生の鹿を見たのは初めてで、私は率直にその美しさに驚きました。その時の私の半死半生の様からすれば生命の輝きそのものでした。その鹿が私を見るなり逃げ去ったので、私はついに生命の象徴からも見放されたと思いました。

登るときのことはよく覚えています。不本意ながら初めての富士登山というのもあり印象が非常に強かったですが、何よりいくら登っても森が抜けられなかったのです。十時間かけても山頂どころか七合目まで到達するのも無理では無いかと思いました。

そもそも旅路についても完全に思いつきでした。その時脳裏にあったのは、凍えて死ぬということでした。
自殺の方法について殆ど無知ですが、一番確実に死ねるものではないかと思っていたのです。練炭自殺も考えましたが、必要な機材を集める方法が分かりませんでした。何より、一度富士山に行ってみたかったのです。こういう形で向かうのは不本意ではありますが。

家を真夜中に出て、国道二号線を延々と東に向かっていけばいいだろうというくらいに思っていました。一旦姫路のPAで休むと、そのまま大阪まで進みました。大阪市内を地道で進みつつ、ここから路に迷い始めました。大阪からどう進めばいいのかわからないのです。スマホが鳴るのが嫌なので、ずっと電源を落したままですから、進行方向の決め方は標識が全てです。因みに車にはナビは付いていません。どこかコンビニで地図を買えばよかったと少し後悔しました。大阪から奈良に入った頃、ようやく標識で名神高速に乗り、そのまま名古屋まで向かいました。この時点でもう夜になっていました。正直ずっと地道で行こうと思っていましたが、あの調子ではいつまで経っても静岡まで到着しそうになかったので。

名古屋に入った時の光景はよく覚えています。高速道路が工業地帯の上を走るのですが、工業の夜景を真下に見下ろしながら進んで行きます。個人的に工業地帯の夜景を見るのが好きなのです。人生の最後に見れる光景として、非常に満足していました。そして、豊川でもう一度休息を取ると、いよいよ静岡まで進んでいきました。富士宮市で降りましたが、正直このときまで富士登頂に静岡からだと富士宮道と御殿場道の二種類があることすら知らなかったのです。

私は徹底的に勢いのまま進んできたわけですが、不思議と後悔とか、引き返したいとかという気持ちは、まだ湧いていませんでした。登山道に到着するまでにも色々と迷いました。驚いたのが富士山が巨大すぎて近づくと富士山が見えなくなるということです。迷いに迷ってようやく五合目への道を進んでいった途端、三合目でバリケード封鎖されていました。当然といえば当然です。富士山が開山しているのは七月と八月だけです。私はこのときまで、三合目からでも登れるところまで上っていけばいい、と思っていました。力尽きたところが、そこが私の墓場だと。

富士宮道と御殿場道との連絡路の間は、いくつかレストランが見つかりましたが、何れも休店状態でした。人気も殆どなく、いくつか登山家と思しき人がいるくらいです。連絡路の間を一往復半する間に、PAの近くに狭いですが道が見つかりました。別にバリケードを超えていこうかとも思いましたが、別に山頂を目指すわけでもありません。PAに車を停めるとさっき目についた一番近い獣道から上っていきました。正直頭では理解していましたが、途中で倒木が道を塞いでいてかろうじて下の隙間を潜って初めてここが本来人が通る道では無かったと気付いたのです。覚悟と備えがあればこの道を通り抜けて正規の登山道まで出られたかもしれません。ただそこまで通り抜けられるだけの備えも、正しい見通しもありませんでした。後になって思えばこの時私に最も必要だったものは、病んでいるという確かな証拠でした。獣道の途中で命を絶とうとしたという確かな証拠が得られた時点で、私は旅の目的を果たしたのです。

道を登っている間、誰かの足跡が雪の中に残っていました。最初は登山客だと思っていましたが、登山客が果たしてこの時期に獣道など通るだろうかと考えてみるとこの足跡の主の顔が少し見えてきた気がしました。かろうじて人の痕跡が見つかったことに少しの安心を覚えつつも、死ぬところを誰かに見られるのは少々面倒だという気もしてきました。靴さえ防寒のものではないので、雪が溶けて染み込んできて非常に不快な冷たさと痛みを感じながらのぼっていきました。

野生の鹿に逃げられ、しばらく獣道を進んでいくと、ついに足跡が途絶えました。私はその足跡の人に勝手にシンパシーを抱いていました。この時期に富士山の三合目の、しかも獣道に足跡を残す人など、私と同じ目的以外にあり得ましょうか。私は勝手にその人を同志と思っていました。その同志の足跡がついに途絶えてしまっているのです。私は彼の人の無念を背負って更に先へと目指すべきだったでしょうか。ですが私も無念にももう足が凍るように冷たくなっていました。もうこれ以上進むことは難しかったでしょう。

右手には開けた場所があり、まだ踏まれていない雪が積もっていました。彼の人の痕跡が残っていないということは、恐らく左手側の崖に身を投げてしまったのでしょう。私は道中で買ったマットを敷き、横になって規定量以上の薬を飲みました。
その時私はもう多くのことを考えるのを止めていました。死ぬということは思考も止まるということです。死ぬことを受け入れるには、思考を徐々に減らすということです。実際この時私はもう仕事のことも家族のことも、先に逝った足跡の主のことも、もう殆ど頭には残っていませんでした。

後はもう時間が解決してくれるはずでした。後数十分か、長くて数時間後には凍死体になるのです。私はその間ひたすら背中の凍るような冷たさや外気に耐えていました。ここでもひょっとしたら私にはまだ打算があったかもしれません。過剰な睡眠薬を飲み、富士山に行き、登れるところまで登りついに横になって死を迎えようとした、という行動までは起こした、と。

結論を申しますと、非常に恥ずかしい話ではありますが結局のところ私は自殺をやり遂げることは出来なかったのです。用意が甘かったというのもありますが、本当にやりきることを考えていたのなら、もっと上の方の、七合目や八合目まで目指す用意をすべきだったでしょう。この時期の富士登山はまず死にに行くようなものだという覚悟が余りに足りなかったといわざるを得ません。

なのに降りる時のことは殆ど覚えていないのです。ろくな準備も無かったとはいえ、三時間以上かけて登った道をかすかな記憶を辿っても三十分程度しかかからなかったような覚えがあります。

あるいはただ単に薬の作用で朦朧としていたからかもません。そもそも夜の山というのは恐ろしい所です。足下も殆ど見えていなかったはずです。今にして思えば、本当に登ったかどうかすらも怪しいところさえあるのです。

元々死にに行くのに、どこか打算があったと思います。正直に言いますと私はあの逃避行はある種のパフォーマンスの面もあったのです。ここまで突拍子の無いことをすれば、もう元の生活には戻れないだろうという最低の基準を超えていればいいものでした。死ぬというのも一種のパフォーマンスだった側面はあります。そんなに簡単に死の決断が出来るものではありません。

 

淳一の告白を石川医師は黙って聞いていた。叱責よりもまず無事に戻れたことを喜んだ。

「貴方は一人で富士山にいったのでしょうか?」
「そうです。一人で決めて誰にも知られずにそうしました」
「それはいつ頃から考えていましたか?」
「その日の真夜中です。突発的に思いついて」
「浩二さんがいなくなったことについて心当たりは?」
「いえ、全くありません」
「そうですか……。なにはともあれ貴方が無事で幸いです。浩二さんのことは警察に任せてゆっくり休んでください」

と淳一を送り出した。それでも淳一は帰宅する間中、弟のことが気にかかっていた。

 

淳一は突発的に出奔した一方、彼の弟の浩二は入れ違いになるように行方不明になっていた。帰宅してもやはり弟は戻っていない。
家族にとっても一人でも戻ってきたことを喜ぶべきなのかもしれないが、家を出る前と出た後で淳一の大して扱いが変わらなかったことは彼にとっても不快なものだった。だが淳一にとってもっと気がかりなことは、弟の不在と自分の突発的な失踪が相互に関与しているのではという疑念だった。何れ正式な診断書のために数日後にもう一度通院の必要がある。

淳一の弟、浩二は彼が戻ってきた日の一週間前、つまり淳一が出奔する三日前から失踪していた。書き置きも痕跡もなかった。帰宅後の夜、その事で淳一は母屋に呼びつけられた。

「本当に心当たりはないんか?」と父は聞いた。

「知ってたら、お前より俺が先に行動している」

淳一はいつもの通りに憮然と答えた。一昔前に父とやり取りしているときよりも、こういう言葉が意識的に吐けるようになった。

「警察に届けを出すことを考えとるんじゃけど、お前はそれでええね?」

「寧ろなんでまだ出してないんだよ」

普通だったら淳一に確認する前に、行方不明に気づいた段階で警察に届けを出しているはずだが、わざわざ淳一に確認しているということは言外に淳一の関与への疑義、それも何らかの犯罪的なものがないだろうな? という圧をかけていることに他ならない。もはや家族からも容疑者扱いされることすら、淳一は諦めていた。

ふと父を真正面から見た。心なしか父は前にあったときよりやつれ、白髪の本数が増えていたような気がした。以前の淳一なら、そんなことすら気づくことも無かっただろう。父の心配事は淳一の病状よりも、浩二の失踪の方であり両親にとってそれが一大事だった。この家の中での問題は昨日今日始まったことではなかった。だがそれに気づいたのは帰郷してから漸く経ってからだった。

 

淳一への扱いの変化は、一年前に出戻った時からより顕著だった。帰郷した時から旧宅から出てくるなと本家から叩き出され、それ以降母屋で一人で住むようになった。淳一は母屋から本家の明かりがついているのを見る度、ある境界が引かれているのを感じた。
あの家庭の中には数年前には確かに自分も弟もいて、そしてもう自分はその中に入れないのだ。

およそ淳一は自分の外の事柄に対して観察と考慮に関しては人並み以上に出来る反面、内省というものに非常に疎かった。家族との間の軋轢も、帰郷後のコロナの疑いによる隔離という名目がなければ、恐らく死ぬまで気付かなかっただろう。

両親は淳一が大学を出た後に勝手に家を出たこと、県外から一円も実家に入れることもなく、結婚もせずに勝手に生きることを快く思っていなかった。そもそも淳一と父とも反りがあった試しがない。淳一の甘さは、心のどこかでまだ家族に受け入れられていると思っていたことだ。それが全くの自分勝手であることを、この間の帰郷で思い知らされた。

元々東京にいたときも、軽い不眠症の徴候があった。内科で軽い睡眠導入剤を処方されていたが、帰郷してから不眠症が悪化してきた。東京では孤独は珍しいものではない故に、孤独との付き合い方の方法はそこら中に転がっていて見様見真似である程度対処できた。

だが、戻ってきてから目の前に幸福そうな家庭がある。しかもそれは数年前までは確かに自分がいたところだ。これほど対処の難しい孤独に直面したことはなかった。

日に日に投薬の量が増え、いつしか薬なしで眠ることは出来なくなり、夢を見ることもなくなった。

先日の出奔の際に大量に薬を飲んでそのまま眠りながら死ぬということは、それは成分的に不可能ではあると頭では分かっていても実行してしまった。戻ってきてからまだ一度も薬を飲んでいない。何が原因での錯乱だったのかは不明だが、薬に何かしらの原因を求めずにはいられなかった。

 

それから淳一は薬を飲むのをやめている。初めの二日は離脱症状に非常に苦しんだ。体中の神経という神経が昂り吐き気が続いた。
コーヒーを何十杯も飲んだかのような感触だが、四日目にしてようやく落ち着いてきた。軽い昼寝のような睡眠なら出来るようになった。眠れるといっても脳を動かすのに必要なエネルギーを残らず使い切った頃合いに気絶するように意識を落とすような眠り方だった。

ある変化が起こり始めた。昂り続ける脳は、見たことないようなリアルな景色を脳裏に映し出した。夢とシンプルに呼ぶにはあまりに映像が鮮明で、どんな高解像度の映画よりもはっきりと見えた。

その映像の中で、浩二は確かに淳一に富士山へ行って死ぬことを打ち明けていた。それに対し、淳一は浩二を送り出すことを承諾していた。そして二人で山中を上っていた。そこで見た景色は、自分が覚えている光景と全く一致した。ただ一つ違うのは、淳一の前方を浩二が歩いていた。淳一の記憶では誰のかもはっきりしなかった足跡の主が、浩二であると告げていた。そして淳一がもう歩けなくなった頃合いで、浩二が振り返る前に彼を崖に向かって突き落としていた。

そこで夢は覚めた。淳一は涙を流していた。この世で最も罪深い懺悔を他人事のように聞き流すつもりで、しかし途中から感情移入せざるを得なくなったかのような没入だった。かつてこれほどの悪夢を見たことがあっただろうかと。素人判断で無茶な薬の飲み方や断薬などを勝手に決めるから、こんな天罰のような仕打ちを受けたのだという罪悪感が襲ってきた。裁かれていると思い込みたかった。この期に及んでまだ他人事である証明が欲しかった。

だがあの光景と自分の記憶のほとんどの一致は、無視するには鮮明すぎた。ここから恐るべき疑念が沸き起こった。この旅路は淳一が突然思いついたものなどではなかったのではないか。もともと浩二が抱えていた苦痛だったのだ。そう思えばあの出奔中の他人事のような無責任さが、すんなりと腹落ちした。あれはどこまでも浩二の計画だったのだ。だが、それでも一点全く理解できないことがあった。何故自分が弟を殺したのだ、と。

このことを石川医師に相談するべきか悩んだ。彼は弟共々非常に世話になっている人だ。打ち明けるには他に最適な人がいない。だがこれは全く殺人か自殺幇助の告白に等しかった。彼が宗教家なら打ち明けていたのかもしれない。だが淳一が心のなかで最も求めていたのは、この夢の真相を解き明かすことだった。直接見たわけでもなく、ただの過程としての話なら突飛すぎて上手く切り出す話題をどう切り出すか思いつかなかった。

 

数日後、診断書を受け取るために通院した。

「診断書、ありがとうございます」

「浩二さんのことは、上手く警察には説明しておきます」

「ありがとうございます」

迷いに迷ったが帰り際にふとこう打ち明けた。

「本当におかしい話なんですが、弟もひょっとしたら私と同じようなことをしたんじゃないのかなという気がしたんです」

石川医師に打ち明けるために最終的に下した方法は、あくまで他人事を装うことだった。

「どういうことですか?」

と石川医師は全く笑うこともなく、寧ろ声色は冷たかった。

「いえ、全く根拠はないです」としか答えられなかった。帰ろうとした時だ。「飯島さん」と呼び止められた。

「本当に、浩二さんは何も言っていなかったんですか?」

石川医師が今まで見たことのない表情をしていた。

「いえ、本当にありません」とだけ答えた。

「変なことを聞いてすみません。ですが私は本当に心配しています」

帰り際になってようやく気付き始めた。自分はあの時尋問されていたのだと。

淳一の退室後、石川医師のPCには、以前淳一が供述した内容の文字起こしされた文面が映されていた。

「彼の人の痕跡が残っていないということは、恐らく左手側の崖に身を投げてしまったのでしょう」

この一文とその前後の足跡の主について供述している箇所を凝視していた。石川医師はしばらく考え込んだ後、その一文を削除した。

 

しばらくの間は在宅中に特に変わったことは起きなかった。処方された薬も規定量服用し続けることで、規則的な生活を維持することが出来た。あれから特に浩二が夢に出てくることはない。そもそも眠りが深くここ一月は夢さえ見ることがない。元々戻ってくるまでは一人暮らしに慣れていたこともあり、寧ろ旧宅の待遇は違和感がなかった。

やや冴えてきた頭で家族のことを整理し始めた。三十数年生きてきて家族との人間関係に疎かったならば、それは同時に弟に対しての自己評価も改めざるを得ないことを、漸く気付き始めた。

淳一と浩二の間に確執がなかったわけではない。コロナ以降で失業中だった浩二に伝を辿って仕事を紹介したのはいいが、浩二にとって向いている仕事ではなかった。淳一への面目もあり仕事を辞めるにもやめられず、次第に浩二は心身を病んでいった。石川医師を紹介したのは、せめてものフォローのつもりだった。この時の浩二の内心を慮ることも出来ないが、決して良好というものではなかったと今だとはっきり分かった。

ある日銀行口座の入出金の履歴を見てみると、とあるフリマサービスからの入金履歴があることに気付いた。そのサービスの名前は知っていて登録もしているがほとんど利用した記憶はない。淳一には何のことか記憶が定かではなくサービス自体放置していたつもりだったが、久々にログインしてみると自分のアカウントから出品した経歴があった。

内容を見ると、自分が処方されている睡眠薬だった。何のことか全く身に覚えが無く、何より何故こんなことになっているのか訳がわからなかった。アカウントの乗っ取りを考えたがそれらしい記録はない。

 

その晩ずっとフリマサイトと夢の事を考え続けていた。確実にいえることは、淳一は記憶を失っている。おそらく原因は富士山に行った時だ。覚えている原因らしきことは、規定を遥かに上回る量の薬を飲んだことだが、果たしてここまで副作用があるものだろうか。

不可解なことはそれだけでは無かった。記憶を失っているといっても、何も出奔以前のことを全て忘れた訳では無い。家を一度出たこと、そしてまた戻ってきたことなどは鮮明に覚えている。だが、突然記憶が不明瞭に名あるのは戻ってきた後の淳一自身の事だ。
そもそも何がきっかけで心療内科に通い始めたかもよく覚えていなかった。最初の頃の記憶として、サイトで適当に探した時、院内のアンティーク調の雰囲気が良かったというくらいしか覚えていない。長く続いた理由としては担当医師が石川だったということ以外にはない。

失われた過去がどうしようもなく気になり、淳一は再び薬を飲むのを絶った。再び不規則になった生活の中で、白昼夢に再び浩二が現れた。彼は淳一に、ある事を告げていた。
「自分が死ぬのを手伝って欲しい」と。

当然の如く、淳一は訝った。そんな馬鹿な話に乗れるかと。だが浩二は言った。「これは石川先生の指示だ」

淳一はもう夢の内容を疑わなくなっていた。何らかの理由で記憶を失っていて、そして石川医師は浩二の出奔に関わっているという確信があった。

石川医師との面談を最終の時間に強引に取り付けた。

「何か変わったことはありませんか」。

ある意味定型の挨拶のようなもので、彼は特に訝る様子もなくいつもの様にPCのカルテに記録を付けていた。

「色々と思い出すことがありました」

まだ彼は特に難色も示していない。

「弟のことと、あの日の山に登った時のことです」

石川医師はPCの画面から目を離してこちらを凝視した。

「どんなことです?」

これは医師としての質問と異なる、ある種尋問とも呼べるもののように思えた。

「どっちから説明すればいいですか? 弟のこと? それともあの日のことですか?」

石川医師の反応を待った。淳一としても石川医師の腹の底が窺い知れなかった。

「あの時、実は弟と一緒にいたんです」

単刀直入に言った。

「それは、前の供述は嘘ということですか?」

「誓って言いますが、嘘をついたとか騙す意図があったという訳ではありません。本当に弟のことを覚えていなかっただけです」

「それを証明する手立てはありますか?」

「ありません……。私としては意識が朦朧としていたから、としか言いようがありません。薬を大量に飲んでいたからかもしれませんが、その副作用かもしれません」

「貴方に処方した薬にそんな副作用はありません」と一言返された。続けて石川医師はこう言った。

「私は正直貴方の供述を疑わしく思っています。浩二さんの失踪も、正直申しまして貴方が強く関与していると思っています」

これは本気だと思った。失踪だけではなく、それ以上のことを疑っている節がある。

「逆に私から聞きたいことがあります」

「何ですか?」

「弟が急に富士山に行くと言い出すからどういうことか問い詰めたら、石川先生の指示だと聞いたのですが、本当ですか?」

「そうです」と、あまりにあっさり答えた。正直、内心では慄きつつも、石川医師ならこういう返答をするだろうということを期待していた。淳一は考えている限りで、最も恐ろしいことを聞いた。

「それは、弟に自殺しろと指示したということですか?」

「貴方にそれを疑われるのは、本当に心外です」

と、心から落胆したように答えた。だが淳一としては彼の弟への悪意を払拭することが出来て安心した。ここからは純粋な興味としての質問だった。

「兄としてあんな突拍子もないことをおとうとに言われる方が心外です」

「ではなぜそういう指示をされたか、浩二さんから聞きましたか?」

「いえ、そこまでは聞いていないです……」

「何故ですか? 普通理由を聞くでしょう?」

「正直に言いますと、弟が富士山に行くと言った時に先生がそうしろ、と言ったことを思い出したということです。理由についてまでは思い出せません」

「つまり、貴方にとって弟さんのことですらもう殆ど覚えていないということですね」

そう言われて返す言葉もなかった。

「これは医師としてではなく、私個人としての意見ですが」

そう前置きして、石川医師は語り始めた。

「貴方が来院した時から現在に至るまで貴方を患者として見たことはありません。ただの取引先です。しかも取引先といっても、貴方が薬を横流ししているのではないかと疑っています」

これは全く予想していなかった。犯行現場を逐一観察されていたかのような恐怖感を覚えた。もはや完全に被疑者の気分だった。

「貴方は最初にここに来た時から異様に要領が良かった。何かを利用することに躊躇したのを見た覚えがありません。何より貴方の自己申告に対して患者として見た時の症状が余りに健康的過ぎた。あの症状であの処方は実際は多すぎるのです。なのに貴方はあれでやや足りないという。実際に調べてみるとフリマサイトで売買されている形跡がありました。だけどここでは正直どうでもいいことです。貴方も私を利用し、私も貴方から利益を得る。そう割り切ってしまっているというだけの話です」

もう完全に医者と患者という間柄での会話ではなかった。取引先が取引の停止を通告しているかのような、そんな呼吸すら凍りつきそうな現場の只中にいた。石川医師はまだ続けてこう言った。

「ただし浩二さんは別です。本当にあの人はどうにかしないといけない程の病状です。なのにああいう人ほど、快癒から遠ざかることをする。治りたがらない患者ほど手に負えないものもないですが、そういう心情の人ほど私の患者として適性が高いというのは本当にこの仕事をやって嫌になるところです。でも彼の場合は彼の周囲の環境の問題も多分に含まれる。彼に休職を勧めても周りの状況がそれを許さないから、と言って聞きません。なにより彼が彼自身を大した病だと思っていないのです。大したことがないので休みようが無いと本気で思っているのです」

「だから私はアドバイス、いえ、これは入れ知恵ですね。発狂したふりをするのです、雪山にでも行って自殺しようとした、と。そこまで突拍子のない行動をすれば医師としては絶対に休職を指示せざるを得ませんし、それに従わない事業所には法的な対処も可能だと」

「貴方はそこまで聞いていましたか? いないでしょう。浩二さんは貴方をそこまで信用していなかったということです」

「山から帰ってきた貴方は確かに何かが変わった。私は浩二さんと貴方の中身が入れ替わったのかと思ったくらいです。だけどそれがポーズなのか本当なのか断定はできません。私は貴方が富士山で何をしたのかは分かりません。疑っているといえばそうですが証拠がないものにそこまでこだわる気もありません。もし罪悪感があるというならそれは貴方が処理する問題であって、私はあくまで医師であり宗教家ではないのでそこまで首を突っ込む気もないし、貴方に反省を促すような義務はありません。またこのことを警察に伝えることもしません。私も私でやったことは医師として褒められたことでもない」

淳一は沈黙するしかなかった。それは罪の重さよりも無知に対する謙虚のつもりだった。実際に現時点で確信に迫ることについて何一つ知り得ることがない。

「そういう意味で私は共犯です。ただ、もし本当に死にたくなった場合は、その時にまた来てください」
淳一は礼を言いつつその場を退室した。懺悔とも呼べない、あるのかどうかすら分からない罪の告白がしたくてしょうがなかった。

 

もう起きていても、徐々にではあるが出奔の日のことを思い出しつつある。富士山に向かった日の浩二のある行動が気がかりになっていた。浩二は淳一のスマートフォンで何かを撮影していた記憶がある。何かしらの証拠として残すつもりか、あるいはそれ以外の理由があったかもしれない。浩二の乗っている車はカーナビもついてないので、基本的にスマートフォンのアプリをナビの代わりとして使っている。浩二は連絡が来ると嫌だからと浩二のスマートフォンは電源をオフにしているので、淳一のスマートフォンを使用していた。

だが今淳一の手元にある本体のストレージには、その時撮影したと思しきファイルはない。何らかの理由で浩二か、あるいは淳一自身が削除したのだろう。復元することは無理そうだが、クラウドサービスにバックアップがないか、契約していたいくつかのオンラインストレージを探してみたら、そのうちの一つにその時撮影したと思しき動画ファイルがいくつか同期されていた。

一番新しいファイルは、今まさに獣道を突き進んでいっているところだ。浩二が先頭を進んでいるので、基本的に前方の光景しか見えない。途中で淳一の記憶にもある通り、野生の鹿がこちらを見ると一目散に走り出していくところまでを映し出していた。動画ファイルをさかのぼっていくうちに、一番日付的に古いファイルを見つけた。再生すると、移動中の車内の様子だった。高速に乗る前の、地道を移動していたときに撮影したと思われる内容だった。大阪の町中だっただろう。二人で他愛のない話をしていた。その中で淳一がこんな事をつぶやいていた。

「お前もし死ぬんだったら、その時は保険金の受取人は俺にしておいてくれよ。あ、自殺だから保険金降りないか」

冗談のつもりで言ったんだろう。だがそれを改めて他人事の目で見た時、強烈に引っかかるものがあった。もし家族間で亀裂が入るとすれば、間違いなくこれがきっかけだろう、という確信めいたものがあった。

だが、一つだけ未だに確信が持てないことがあった。あの後浩二と自分はどうしたのだろうか、と。今ぼんやりと予想していることは、きっと浩二が目の前で身を投げたのではないかという予感があった。それを見送った時、自分が取りうる行動として、前に石川医師に対して行った告白が最も違和感がなく、そして自然のことにように思えた。

 

淳一はその晩、再び静岡を目指して家を出た。もし仮に崖の下で待つのが浩二の亡骸であっても、後悔することはないだろう。今の苦しみは、猛烈な吐き気がするのにえずくだけで何も喉の奥から出てこないようなもどかしさだ。罪を問われているのに罪の記憶も証拠もない。だから今淳一に必要なのは確実な罪かもしくは潔白の証拠だった。もし罪を犯していたならきっと新しい聞き手を探すだろう。潔白ならその時は戻ればいい。それが見つかるまで、石川医師に会うことはもうない。

 

再び神戸を過ぎ、今度は大阪の乗り換えに迷うことがなかった。富士宮で降り富士山の威容を前にした時、既に三合目から獣道への道筋を在々と思い浮かべていた。

2020年10月18日公開

© 2020 諏訪真

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"告白"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2020-10-19 06:25

    確証は持てませんが、時々、所々、あえて読みづらくさせているような印象の部分があり、道で例えるなら大きくカーブしている箇所があり、そこでスピードを落とす必要があり、それ故にぞくぞくとさせてくるし、あとしっかり確認して飲まないといけなくて、まるであれです。服用です。この話は服用剤、内服剤です。

    • 投稿者 | 2020-10-20 19:46

      今回から初めてプロットから本文を起こすことを試したんですが、プロットを突き詰めてやってみたら初めて上手くいった事例でして。(それまでプロットのようなものは書いてても結局脱線し通し)
      ただところどころプロットを立てる前に本文から起こした箇所もあってひょっとしたらそれが引っかかる箇所なのかなという気が自分でもします。因みにその箇所は手書きでやってたりします。何故か手書きでやりたかった箇所です。

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