橋の下で

諏訪真

小説

3,321文字

母の見舞いの途中、ふと昔を思い出した。

「大の大人がやらなければならないことは、我慢ではなく自己管理だ。危険ならさっさと病院に行くのが大人だ」

母を病院につれていくのにようやく説き伏せる事が出来たのはこんな言葉だった。診察を受けた結果は、既に大腸癌のステージ4で、既に肺や肝臓、リンパへの転移も認められた。長い闘病生活が予想されると医者から聞いた。腹の上から触っても感触があるほどに放置していたのだからそれは予想のうちだった。

すぐに入院の手続きが始まった。手術日まで二度の病室の移転があり、手術を迎える前に個室に移動された。腹にマーカーを入れられているのを見せられた。ほぼ下腹全てを囲っていた。

大腸は全摘だった。手術の間俺は何を考えていたのか、正直良く思い出せない。自室にいたが、眠って待っていたような気がする。眠らなければ恐らく嫌な想像で押しつぶされていたのではなかったか、あるいはそのときにはもう不安は諦観へと変わっていたかのどちらかだっただろう。

数週間後に母は退院した。大腸を失った後の生活は、初めは体質の変化に慣れなかったが、やがてそれも時間が解決した。それからしばらくして、抗癌剤治療が始まった。胸に埋め込んだCVポートに薬液を通す形で投薬が行われた。見る間にやせ衰えていった。

俺は病人に共感できない。頑張れとも、辛いだろうねとも言えなかった。仕事が終わった後に見舞いに行くようにしていたが、行けば必ず帰るときに非難された。なんで家族はもっと来ないんだ、とか寂しいとか、泣き言を漏らしていた。

 

やがて母の癌は肝臓にも転移し、手の尽くしようがなくなってきた頃に終末病棟に移され、その頃にはもうモルヒネによって意識をほぼ失っていた。終末病棟に行くと、職員は皆俺たちを特別扱いしてくれる。実際にここにいる人は特別なのだ。だが俺は別に特別ではないし、その特別待遇も、既に意識のない母と会うのも耐え難かったが、何より受け入れ難かったのは、時折遭遇する他の見舞客の、理不尽を受け入れ納得しかけているような表情だった。寺社の祭壇に勝手に祭り上げられたような気分だ。何の御利益もないのに、手を合わせられているような感覚が耐えがたかった。

 

休日の見舞いから帰る途中、ちょっと寄り道でもしようかと思い、何も考えず車の進路を南に向けた。どこまで行くかも考えずにただ走らせていると、鷲羽山わしゅうざんまで来ていた。今思えば、何故瀬戸内海の方面に向かったのか良く覚えていない。病院かあるいは通勤時の駅で鷲羽山のリゾート関係のチラシ、若しくはポスターを見たからだった気はするが定かではない。はっきり覚えているのは、この頃は家の中にあまりこもっていたくなかった。

 

話を戻す。ここは県の南端の瀬戸内海に面した公園だ。春の終わり頃だった。よく晴れた展望台から、瀬戸内海を見下ろしていた。緑色の波が、四国から緩やかに運ばれてくるような、穏やかな光景と涼しい風が吹き渡る居心地のいいところだった。

海に向かって右手前方に瀬戸大橋が見える。帰るときは橋の方面からにしようと思い立ち、橋の下まで車を走らせた。橋の下まで来ると、そこには公園があり、ふと昔のことを思い出した。併設された駐車場がありそこに車を止め、公園まで歩いた。何故ここが気になったかというと、中学時代に一度ここまで来たことがあったからだ。その時は自転車で来た。二時間位はかけた気がする。

 

中学時代に最も時間をかけた趣味というと、バスケットボール、野良サッカーに次いで釣りだったのではないかと思う。何故釣りの記憶が鮮明かというと、釣りに行くときはいつも早起きをしなければならず、釣り場へは一時間はかかるほどに遠かったからだ。移動が伴う記憶は、最も印象が残るのだろう。その意味でこの瀬戸大橋の真下まで来たときのことは、鮮明に覚えている。

 

確かいつものようにメンバーを募ったが、当日の朝やってきたのが俺とKだけだった。このKというのがクラス一のアホだった。成績もさることながら、地頭がとにかく悪い。サッカーをやっているのに石を投げてきて妨害するのとボールを相手にぶつけるのとのルールの違いもわからない程に頭が悪い。ただし、頭が悪いだけで人間的には愛すべきアホだった。そんなKと二人だけのメンツでどうしようかと言っていたら、いっそいつもの釣り場よりもっと南の下津井しもついまで行かね? という話になった。どちらがいい出したかまでは覚えていないが、ひょっとしたら俺だったかもしれない。とにかく、あの頃はどこか遠くへ行きたくてしょうがなかった。自分の力で行けるところの限界が、そこだったのではないかと思っていた節がある。

 

いつもの釣り場へ行くだけで大きな坂を二つ超えるほど大変なのに、更にそこを通り越して坂を三つほど超える程に道中は険しかった。途中で本当に引き返してしまおうかと一瞬でも考えることがなかったのは、うろ覚えだがKと尽きぬバカ話を延々繰り返していたからだったように覚えている。それでも釣り竿が入ったバッグを背負っていた左肩が異様にしびれてきてた頃だった。

 

漸く最後の坂を越えると、正面に瀬戸内海、そして左手に瀬戸大橋が見えた。正直いってこの時点で何かを達成した気持ちだった覚えがある。橋の下までは下り坂になっていて、特に労せず進んでいった。なんて鄙びた漁師町だろうと思いつつ。

俺たちは昼下がりまで橋の下で投げ釣りをしていた。釣果はさっぱりだったが、別にこれはいつものことだ。Kは公園の堤防沿いに落ちている吸い殻を咥えて100円ライターで火をつけていた。
「バッチイからやめろよ」と忠告したが止めはしない。そもそも湿気て火がつかないので断念していたが。

夕方になる前に引き返した。来たときと同じく二時間かけて戻り、帰った後は左肩が曲がらないほどに凝りに凝っていた。

 

そんなことをとりとめも無く思い出した。なお、K達とは進学を境に一度も会っていない。

そういえば、波が間近まで押し寄せるのを見ている間、俺は病院のことをすっかり忘れていた。

 

やがて母は死んだ。夏に入りかけた頃の、俺がそろそろ実家を出ようかと思っていた矢先だった。そう決めたのは母の死の予兆を明示的に告げられた頃からだ。別に母の死が直接のきっかけではない。もうそろそろ地元に未練がなくなりかけていた頃とたまたま重なっただけだ。母は俺が家を再び出る事を知らずに死んだが、後ろめたさは少なかった。

葬儀を済ませ、引っ越しの準備をしている時、押し入れの中から釣り道具一式を見つけた。持っていこうかどうしようか考えたが、まだ不要だと思ってそのままにした。

荷物を運び出した後、ふと気になって釣り道具一式を持って車に乗った。途中で釣具屋で餌を買い、そのまま一路南に向かい、先日来たところと同じ瀬戸大橋の下に来て投釣りを始めた。相変わらず釣果は芳しくないし、何より話し相手のない釣りはこんなに虚しいのかと、初めて気がついた。一人で釣りに来たことはなかったからだ。

中学生が買える金で買ったそれほど高くもない釣り竿を、実に十数年ぶりに思い切り振りかぶり仕掛けを飛ばした。重りはあの頃より遥かに遠くに飛んでゆき、途中で買った最も安い餌のゴカイが、勢いに負けて引きちぎれた。また引き戻そうとしたが、根がかりを起こしていた。ここは根がかりしやすいところだった。

 

そういえば昔、母にこんな絡み方をしたことがある。多分高校時代だ。不登校を繰り返し、ついに引きこもり始めた頃のことだったと思う。始めは徹底的に俺をなじった母も根負けした頃だった。
「俺のこと橋の下で拾ったんやろが」と、俺は言った。どんな温度感で言ったのか覚えていない。
「そうだよ、拾わなきゃよかったよ」

そう返してきた。きっと軽口だった。というより本気で返す気力は、その頃には既になかっただろう。

ところで、もし仮に拾ってくるならどんな橋からだろうか。まさかこんな大きい橋ではあるまい。

 

思い出したタイミングで急行列車が真上を通過していく轟音が響いた。今日の釣果はやはりゼロだった。

2020年11月21日公開

© 2020 諏訪真

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"橋の下で"へのコメント 4

  • ゲスト | 2020-11-22 11:59

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  • 投稿者 | 2020-11-23 09:02

    仰っていた通り、すごくノスタルジアでした。
    橋の下で拾ってきた、とかよく言われるもの(でした。私は)でタイトルにつながるのが良かったのですが、せっかくなのでもっとそこの情景が浮かぶほどの具体的なエピソードがしっかりあっても良かったと思いました。

    • 投稿者 | 2020-11-23 21:10

      橋の下で拾ってきた的な話、具体的に差し込むとしたらいつ頃だろうかなと思うくらいに反抗期的な時期よりもうちょっとズレてるかなと(反抗期だとここまでテンプレ的にならずに本当に決裂するので

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