彼の意識が戻ったのは病院でのMRI検査から出てきてからであった。浜辺で救助されたときは意識があったが、病院へ運ばれる途中の救急車の中で意識を失ったようだった。何らかの原因で心臓から出る血流量の減少が起きたからだと医師は見ている。目立った外傷はないが、左の膝に擦り傷、後頭部に軽い打撲があった。病院には連絡を受けて彼の姉と勤め先の社長が駆けつけた。姉は安堵して涙を流しながらも、今日は私が母を市民病院に連れて行ったから心配しないようにと言った。社長も安堵したのかはたまた興奮したのか、仕事のことはいいからしばらく休むようにと早口でまくし立てた。医師は、患者は意識が戻ったばかりだから暫時ゆっくりさせてあげてくださいと二人を制したが、彼は意識がはっきりしているらしく救出されるまでのこと、救出された後のことを詳しく知りたがった。彼の記憶と救出されたときの状況を照らし合わせると、彼は川で流されている最中、しかもかなり海に近づいた場所で一度意識が飛び、海に出た後に波に押し戻されて浜辺にたどり着いたようである。そして彼は浜辺で見たというのである。砂の中を泳ぎまわり、時々顔を出しては空気を食むように口と鰓を開け閉めしてまた砂中に戻っていく魚を。
刘潔士は農業法人に務めて既に十年以上たつ熟練した社員である。会社に勤める前から兼業農家である家の農作業も手伝っていたため、農業に携わっている期間で言えばさらに長くなる。前職は建設会社の現場作業員で、小柄な体ながらも持ち前の身のこなしの軽さを生かして県内の方々の現場を飛び回っていた。その彼がさほど急ではない畔の斜面の草刈りの最中に川に転落した。本人は石に躓いたと説明しているが彼を知る者は転落した事実に驚き、別の要因があるのではと訝る者もいた。それほど彼の仕事の熟練ぶりは誰もが認めるところであった。医師は寄る年波もあるだろうことを指摘した。五十四歳となった潔士は、同居する母親が数年前から足を悪くしているため月に一回市民病院へ連れて行く孝行息子でもある。二十年以上前に結婚して家を離れた姉に代わり、母親の面倒を見ている。潔士自身は独身で子供もいない。そんな彼の現状が転落の遠因ではないか、自ら川へ落ちたのではないか。転落を訝る者の中にはそんな風に憂える者もいた。しかし見舞い人が帰ると、お袋にはこんな姿を見られなくてよかった、市民病院に運ばれなくてよかった、というような言葉を看護師に呟いていたことを医師は記憶している。
退院すると潔士はすぐに仕事に復帰した。心配する社長や後輩の社員の言葉をろくに聞かず、水田の畔の草刈りに、大豆畑の除草にと、稲刈り前の暑気に汗を飛ばしながら、川への転落を忘れたかのように仕事に精を出した。彼が復帰したことを聞いて警察が話を聞きに来た。潔士は医師や姉たちに話したことと変わらない内容を話したが、彼が見た魚の話は伏せた。彼の入院中に警察は現場検証を済ませていた。畔は丈の長短様々な雑草に覆われてはいたが、躓くほど目立つ石は見られなかった。社長にも話を聞いた警察は、当該の畔はここ数年、除草剤を使うことは年一回か二回で、あとは草刈りで対応しているので土が剥げて極端な砂利状態になることはあまり考えられないという証言を得ていた。警察の調べによる状況証拠と潔士の言質は矛盾したが、警察はさほどそのことを重要視しなかった。事実、農業従事者による用水への転落事故は県内でも後を絶たない。例年、二十~三十件で推移する県内の用水転落事故が今年は既に四十二件、死者も八人となり昨年を上回っている。一方、潔士が落ちた用水は水田から排水された水が初めに落ちる幅の狭い用水ではなく、それらの複数の狭い用水が流れ落ちる排水の拠点となる用水であり、川幅が約三メートル、畔から川の水までの高さが二メートル近くあり、転落地点から海までは約一キロメートル弱である。よって、いくら身のこなしの軽い潔士でも咄嗟の反応で這い上がることは難しかった。警察は現場検証と本人への聞き取りの結果、以下のように結論付けた。潔士は草刈り中に石に躓き川に転落し、流されている最中に後頭部を打ち意識を失い、海まで流されて意識を取り戻した際に救助隊に救出された。そして膝に傷跡は残るが体調は回復し、仕事にも今のところ支障はない。
その潔士の奇行が始まったのは復帰初日の仕事のあと、すぐであった。自分が流れ着いた浜辺へやってきて何をするでもなく浜を行ったり来たりして歩き回る姿が彼の知り合いの釣り人によって目撃された。七月も終わりのことであったが、長引く梅雨は町の釣り人たちの意気を減衰させ、海岸では釣り客もまばらであった。そんな状況もあり彼の奇行はすぐには噂にならなかった。しかし八月の半ばに浜辺の砂を掘り返している潔士の姿が目撃されるに及んで事態は方向転換する。広まった噂を聞いた社長が潔士に問いただすと、彼は流されたときに見た砂魚を探しているのだと答えた。社長は潔士が釣りを趣味にしていて魚に詳しいことを知っており、そのような突拍子もない言説をまた彼が披露したことを心配し、潔士の姉に一度精神科を受診するよう説得してもらえないかと頼み込んだ。潔士は、自分は何も問題はない、ただ砂魚を見たことは確かだ、と言ってきかなかった。社長は砂魚について、もし存在するならばそれに近い魚がいるのかどうかも含め調べてみたが、ベラ科の一種に砂の中に潜航する類のものがいることしかわからなかった。ただ潔士の話によると、彼が見た魚はベラ科のような丸みを帯びた体型ではなく、サケ科のような横長の体躯であったという。しかし、そもそも潔士が浜辺で砂魚を見たということ自体が夢や幻であるはずだということを彼にはっきりと言うものはいなかった。彼が流され頭部を打ち一度意識を失っていたという事実はそのことを客観的に示していたが、退院後の彼がいたって健康で仕事も毎日問題なくこなし、日常生活も支障なく送っているという別の事実が、彼の言説を頭ごなしに否定しようとする目論見を妨げていた。
九月に入ると釣り仲間の中には潔士を嘲笑する風潮が生まれ出した。趣味の釣りもしなくなり、夕方の仕事終わりと朝の仕事前の日に二度、砂浜に座り砂魚を待つ潔士に対し、旧知の人々は抱いていた不審さを放り出して見下すような視線を獲得し、笑い話の種にした。事態を重くみた社長は次なる手段として、潔士と同じ町内に越して来たばかりの男に白羽の矢を立てた。
淡野至灯は昨年の夏、潔士の家の近所に連なる田圃の中ほどにある空き家を隣の耕作放棄地含みで購入し、今年の三月に引っ越してきた。そしてしばらく家の中の改装をした後、シェアハウスの運営を始めた。四十前のまだ若い独身の青年が田圃の真ん中で面白いことを始めた、また近所づきあいも欠かさない好青年であると潔士が話していたことを社長は覚えていた。稲刈りも終盤に入った九月末、社長は仕事の合間を縫ってシェアハウスを尋ね、淡野に有償で潔士のお目付け役を頼み込んだ。淡野は無償でなら引き受けると答え、条件を一つ付けた。淡野は慢性的な腰痛を抱えており、朝起きてからすぐはうまく体を動かすことができないので、潔士のお供は夕方に限らせてほしいということだった。
淡野は散歩のふりをしてその日の夕方、さっそく浜辺へ出向いた。それからほどなくして夕方の浜辺では潔士と杖を突いた淡野が話しながら浜辺を歩き、時折しゃがんでは砂を掘る姿が見られた。淡野は潔士との会話の内容を定期的に社長に報告したが、その内容に何ら新たな要素はなかった。ただ淡野は警察にだけは早い段階で、潔士が再び川を下る可能性を否定できないということを話した。その理由として彼には静かな執着がある、と淡野は言った。人は誰だって目に映ったであろうものを信じたいし、目に映るものしか信じようとしないでしょう。けれども自分の目に映ったものが本当に存在するのかどうか判断を揺さぶられたとき、人はどうするでしょうか。自分の目で見たものを信じきれなくなったときどうするでしょうか。
冬が来ても二人の姿は浜辺にあった。釣り仲間は潔士の執心に呆れて近づくこともなくなった。潔士の姉は強制的に足の悪い母親を引き取り自分で病院へ連れていくことにした。潔士はそれに対してとくに抵抗しなかった。相変わらず仕事は真面目に続けたので社長や後輩との関係は今まで通りであった。潔士の朝の行動を把握できない社長は釣り仲間の目撃談に頼っていたが、雪が降って釣り人が海岸から消えると時々朝に浜辺へ様子を見に行った。しかし彼はいつも防寒具を重ね着してただ浜辺に座っているだけであった。その内に社長も心配することをやめてしまった。
一月と二月の農閑期を経て三月の仕事始めに潔士が現れず、彼の車が家から少し離れた田圃に挟まれた農道で見つかったのは、淡野の腰痛が悪化し夕方に浜辺へ出向けなかった日の翌日であった。農道から五十メートルほど歩いた先には以前彼が落下した用水があった。警察は事故と他殺と自殺の三方向から調べを進めた。重要参考人としてまず淡野が取り調べを受けたが、彼は杖が無いと立ち上がれないほど腰痛がひどく、それをもって警察はアリバイと認めた。以降捜査は進まず一か月たっても潔士は見つからなかったが、人々は既に彼がどうなったかを推察していた。冬の間に潔士を目撃した複数の証人の証言から、彼の行動が夏から一貫して変わらなかったことがわかった。警察はその後も熱心に捜査を進めたがあらゆる状況証拠が一つの事実を指し示していた。
五月、田植えが終わり草刈りの時期になると川に異変が起きた。サクラマスが川を上ってきたのである。それだけでは以前も見られた光景であったが、その数が異常であった。次から次へと川を埋めんとばかりに遡上してきたのである。この異様な噂を聞きつけて見物人や釣り客が遠方から大挙してやってきたが、この町の釣り人たちが追い返した。彼らは口々に、これは潔士の仕業だと言った。警察から久しぶりに調べを受けた淡野はこんなことを話した。自分は信心深くなく何も信じない人間だが、この川の光景にだけは何かを投影したくなる。
川では夏になった今でもサクラマスが流れに逆らって鈍い銀色の体を振りながら次々と遡上してくる。
波野發作 投稿者 | 2020-09-23 15:23
幻想的な、どこか安部公房のようなシュールな作品に思える。ただ、なぜ三人称にしたのかは気になるところ。最終的にいろいろ明かさないで終えるのであれば、例えば淡野視点で前半は伝聞という形にしておいてもよかったのではないか。
松下能太郎 投稿者 | 2020-09-24 19:20
作中に出てきた「静かな執着」という言葉がこの物語にぴたりと当てはまるなあと思いました。周囲の人々が最終的に関心を持たなくなった時に潔士が姿を消したことから、そこに彼の誰とも分かち合えない不穏な静けさを感じました。
退会したユーザー ゲスト | 2020-09-25 21:21
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わに 投稿者 | 2020-09-25 22:52
新聞記者が書いた調査記録のように読めました。そこにあったドラマを一旦「検分」して、時系列に並べ、語りなおしたようなぎこちなさがありますが、それは警察が出てくるからでしょうか。なんだろうな…。誰も潔士と仲良くなかったのかな。考えてたら悲しくなってきました。
諏訪靖彦 投稿者 | 2020-09-25 22:53
端正な文章でするりと物語に入ることが出来ました。砂魚とは何だったのか、潔士の失踪とサクラマスとの結末をどう読めばいいのか、そもそも解決を求めた読み方をしていいのか、ぐるぐるしています。ベラが釣れると仕掛けが底過ぎるのでタナを上げます。
大猫 投稿者 | 2020-09-26 14:01
自分の見たはずのものが本当に存在するのか、人生を棒に振っても確かめずにはいられない、ということが主題なのかと思いました。かたくなに砂浜でじっと動かない主人公の印象が強く残りました。
主人公の氏名がなぜ刘潔士なのか、刘とあるから中国人かと思ったらそうでもなく、腰痛持ちの青年が淡野至灯というこれまた難しい氏名なのはなぜか、砂魚って何なのか、サクラマスとどう関連するのか。細部が難解なのでついそっちに気を取られがちになるので、舞台設定はシンプルな方がいいのではと思いましたが、たぶん、作者にはこうでなければならない世界観があるのでしょうね。
Fujiki 投稿者 | 2020-09-26 18:47
難解な内容だが語りは簡潔。読ませる文章力を持っていると思う。私は砂魚を探す主人公を放っておかない農村共同体に空恐ろしさを感じた。いいじゃないか、砂魚を探していたって。本人が探したがっているんだから。
鈴木 沢雉 投稿者 | 2020-09-26 23:24
淡々とした語り口調に引き込まれます。なにも引っかからなければ完全に筆者の世界に引きずり込まれるところでしたが、そうはならなかった点がいくつか。
ひとつは潔士の奇行(そもそも奇行といえるレベルか?)が始まってからの周囲の過剰反応。仕事をちゃんとやっていさえすれば、彼のプライベートの動静にわざわざ周囲が首を突っ込まないのでは、と思います。社長が乗り出すんだったら、そのせいで仕事に支障をきたしているといった明確な理由が必要でしょう。
もうひとつは、彼の車が乗り捨てられて行方不明になっただけの段階で、まだ死体も見つかっていないうちから他殺だの自殺だの警察が予断していることです。少なくともこの時点ではあくまで行方不明でしかないと思います。
Juan.B 編集者 | 2020-09-27 15:17
守株、待ちぼうけの様な物語かと読んだが、確かに幻影の様な、とても不思議な余韻がある作品だった。
もし自分の近くでこの様な物語が展開されたら、と想像してしまう。
諏訪真 投稿者 | 2020-09-27 22:41
不思議に思うんですが、文体もあるかもしれないんですが、砂魚の話を(第三者視点を加味しても)見て普通に自分なら納得して「ああ、そういう生き物もいるのか」と自然に受け入れてしまいそうなので、それを受け入れない住民との間には別の人間関係があるのではと思ってしまいました。
小林TKG 投稿者 | 2020-09-28 12:28
体の中の柔らかい触ってはいけない場所に触るようなお話だった。最後町の釣り人がよそ者を追い返したところがなんか感動しました。
曾根崎十三 投稿者 | 2020-09-28 19:11
淡野のセリフが際立っており、好きです。際立たせるための三人称視点だったのかしらと思いました。
静かにしかしはっきりと映画のように情景が浮かんでくる作品でした。