岩と凪

応募作品

古戯都十全

小説

4,222文字

2022年7月合評会応募作。

夫を亡くした美千代は彼の残した写真を手に世界遺産のハロン湾へと赴く。

カヌーの上から見る湾の景色は陸から見るものとはまた異なる印象を美千代に与えた。周囲に屹立する無数の岩と周遊する数多の船が視界を覆い、陸からは見えていた水の色や岩の頂上付近に繁茂する木々の濃い緑、また何よりも一枚の風景画のような湾景の全体像を視界から遠ざける。とくにカヌーが岩に近づくたびに美千代はこのことを思いしらされた。ごつごつした岩肌は視野を狭くし光を遮るだけでなく、眼前にはもうこの岩しかなく、後ろへ下がるか、ただその前でうなだれることしかできないような気にさせる、暴力的な存在感を見るものに植え付ける。そして船が岩を逸れてゆっくり離れると、ようやくそれが湾の中の、あるいは世界の中の小さな一点であったことに見る者は気づき、胸をなでおろすことになる。それでも穏やかな水面の上にまるで水中から這い出てきたかのようにそびえる岩は、視界を遮ったことで批判されるいわれはないとでもいうように、いくぶん離れたところでもその存在感を執拗に誇示していた。

美千代は岩に近づくたびに漕ぎ手に離れるように言おうとしたが、観光客相手のために付け焼刃程度に学んだようなたどたどしい英語を口にする漕ぎ手は、日焼けか地肌か判別しがたい色をした額の大きい顔を始終ほころばせながら聞き取りづらい言葉を並べ立てて自らの人生を披歴し続けるため、言えずじまいになっていた。ファム・ハイと名乗ったこの若い小柄な男は、チェックインのときにホテルのフロントで持ってきたハロン湾の写真を見せながら美千代が、ここへ行きたいという旨を告げたときに紹介され、今朝、観光船がひしめく船着き場で落ち合った。観光船に乗る選択肢もあった。美千代にとっては、猥雑な観光客の中に紛れ、列を成した雑踏に歩幅を無理やり合わせつつ、遅滞なきスケジュールに支配された方が、その心の内に生え出た岩に囚われずにいられたかもしれない。しかし手の内の写真が彼女の行動を湾の中の一点になることを促す。群れからはぐれた雁のように行方も知れず漂うカヌーに揺られながら、眼前に迫ったり離れたりする岩と対峙することで、美千代は自らの内なる囚われと程良く距離を保つ感覚をつかんでいった。

カヌーを漕ぐハイの言葉が止んで、静かになった。いつの間にか船着き場は見えなくなり、周囲の観光船もまばらになっていた。カヌーは湾の奥まった別室のようなところへと進んでいく。湾に風はない。ハイの額に溜まった汗を見て美千代は猛烈な湿気に今さらながら気づいた。美千代がハンカチを取り出して首筋を拭いていると、不意にハイが大声で、あそこです、と言って指をさした。それは岩というよりも小柄な島だった。ゆるやかに円を描くようにそびえる岩の群れの内の一つとして堂々と君臨している。美千代は写真と見比べた。写真に島は映っていないが、岩が形なす曲線が見られ、それが眼前の円を描くような岩の群れの一部とも見受けられる。美千代が顔を上げると、たぶんあそこの頂上付近から撮った写真ですよ、とハイが顔をほころばせて言った。大事な写真なんですか、と続けて飛んできた問いに美千代は答えられず、カヌーの行方に身を任せるしかなかった。

病院で美千代の心が辿った軌跡は、今まで目の前にはいたがほとんどその実像を認識できていなかった人物について、分析の必要に迫られて改めてその実体を塑像していくような作業であった。損傷が激しいと聞いていた遺体の本人確認は造作のないことだった。顔や体にある無数の裂傷や血痕にさらされず右の脇腹に残っていた黒い円形の蒙古斑が、夫の雄造であることを美千代に認識させた。しかし警察から聞かされた事故当時の状況は美千代の理解可能な範囲を越えていた。ビジネスホテルの立体駐車場から出てきたところをトラックに追突された雄造の車には、彼と同じ会社に勤めるベトナム出身の技能実習生の女性が同乗していて、その女性も亡くなったという。美千代はこの事実に混乱したが、事実は誰もがどういう状況であったかを理解させうるものであり、美千代もまたそのように理解しようと努めるしかなかった。病院に駆けつけていた雄造の会社の人間に尋ねても、二人の関係を知る者はいなかった。ただ雄造は人事を司る立場である以上、仕事に関して実習生と何らかの接触があっても不思議ではないという意見もあったが、当然それはホテルから出てきた事実に対する説明になるわけではなかった。しかし事実の曖昧さは美千代を混乱させこそすれ、その感情を湧き立たせることはなかった。美千代は行方の知らぬ感情を探ると同時に、自分の知らない夫と向き合うことを余儀なくされた。

お見合いを経て結婚した夫の雄造は美千代にとって、ものの道理に忠実で不器用そうな見た目がその期待を裏切ることのない、型と枠にはまった生活スタイルを好む人間だった。朝食と夕食はほぼ毎日同じ時間にとり、衣服や小物も固定したブランドを好んで使い続け、自らに変化が起きることを疎んじていた。仕事に関係する事柄に家では一切触れず話もしなかったので、情熱を持っているかどうかもわからなかった。二人の間の肉体交渉についても、結婚して間もなく途絶えた。美千代はそれについて深追いせず、また激しい衝動を感じることもなかったが、夜半、時折自身の抑揚のない線の細い体となだらかな乳房を憂えてため息をつくことは幾度かあった。だが、たった数度の交渉ではあったが、美千代は妊娠した。生まれた息子の昇平に対して雄造は驚きとともに、まだ言葉を理解しない幼い生命の不可思議さに興味を示した。夫を気遣い、子どもとともに一時的に帰省していた美千代のもとへも頻繁に訪ねてきた。しかし子どもが成長し、泣き声以外の多様な意思を示し出すと、雄造は自らの責任を負うことに対して急速に興味を失っていった。そして食事の席を子供と共にすることも拒んだ。まるで子どもは泣いていればいいとでもいうように。

島には他に観光船が一隻だけで人はほとんどいなかった。島の中腹まで登ったところでハイが立ち止まった。風が吹き始めた。美千代は湿った肌を冷やす風に心地よさを感じた。湾を眺めていたハイが、写真、と言って目の前の湾景を指さした。美千代は慌てて写真を取り出して視線の先と見比べた。確かにこの景色に間違いはなかった。写真はここで撮られたものだった。しかし同じなのは岩や湾の姿かたちだけで、水の色や光の具合は違っていた。当然のことながら写真の中に今現在は存在しなかった。写真には過去だけが内封されている。写真と眼前の景色の間には時の隔絶とともに数多の相違があり、撮影者の記憶、写真を見た者が抱いた憧憬はその間隙を漂いこそすれ、互いに混じりあうことはなかった。その写真を撮った人はここが穴場だと知っていたみたいですね、とハイが言った。肌に風を受けながらも美千代は、眼下の水面が風を受けず波立っていないことに気づいた。美千代は無言で来た道を降り始めた。頭上から、もういいんですか、というハイの声が降ってきた。

大学に進み一人暮らしを始めてから昇平は家に寄りつかなくなった。雄造が亡くなったときも仕事を理由に姿を見せず、通夜が始まるぎりぎりの時間になってようやく現れた。昇平は喪主を務めることを拒否した。通夜が終わってアルコールが入ると昇平は、なぜあの人と離婚しなかったのか、と美千代に詰問した。あれだけ家族に無関心でいられる人間も珍しい、俺はあの人のことを何も知らない、俺には父親はいなかった、と興奮して吐き捨てる昇平の憎しみに満ちた言葉を、美千代はただ黙って拾い続けた。そして死者を仇なす言葉の目方を減らすため、夫婦の間で交わした会話を思い出そうとしたが、記憶の中の夫の口からは一片の言葉も漏れてこなかった。美千代は雄造と過ごした時間が流れのない流れのようなものであったように思った。生活に不安のないことはよいことであった。父親に憎しみを抱くことになったとはいえ、息子は無事に独り立ちした。急な流れのない安定した人生に対する信仰のようなものに浸ってきた。美千代は流れのない流れに乗って、ただ人生の時間だけを経過させてきたように感じた。

葬儀から数日後、雄造の会社から彼の所持品が届いた。書類や文房具などに混じってハロン湾の写真が一枚、ひっそりと身を横たえていた。美千代が会社に問い合わせると、雄造がデスクに飾っていたものであるとわかった。どのような経緯で彼の手に入ったのか、美千代は聞くまでもないように思った。もし夫と実習生が深い関係にあったとしたら、二人はこの写真を通してどんな景色を見ていたのか。美千代の内に興味とも不安とも表現できない感情が湧き立ち、彼女を写真に写る場所へと向かわせた。

カヌーは島を出ると、来たときのようにたびたび岩に近づいた。相変わらず微笑みながらオールを漕ぐハイは、切り立った岩の傍を通ることを楽しんでいるようだった。風がなく穏やかな湾の上でハイは汗を飛ばした。湾の別室を出てしばらくしてカヌーは縦にも横にも大きく鬱蒼とした緑に覆われた岩に近づいた。ハイは得意げに岩の横を通過しようとすると、岩の陰から突然、観光船が出てきた。水面が大きく揺れる。美千代は衝突に備えて身構えた。閉じた目の裏に雄造の遺体が浮かんだ。下腹がやや膨らみ、両足両腕が毛むくじゃらで脇腹に蒙古斑のあるその遺体の顔は、美千代自身の顔だった。流れていった時間の重みで皮膚を爛れさせ、顔の隅々まで皺を刻んで老け込んだ醜い顔……。

ベトナム語らしき言葉で観光船に向かって顔に青筋を立てて吠えるハイの大声で美千代は我に返った。観光船はカヌーのぎりぎり手前を通り過ぎていった。美千代は水面に自分の顔を映した。皮膚は爛れておらず皺もまだあるべきところにしかなかった。これだから人生はやめられない、とハイが相好を崩して言った。観光船が離れてしまうと水面はまた穏やかになった。カヌーの流れに合わせて水面に静かに波紋が広がっていく。しかし美千代はそれに飽き足らず、自ら水に手を入れて波を立てた。そして写真を取り出して、その静かな波の上に浮かべる。徐々にカヌーが離れて波を失った写真は湾の中の一点と化した。

写真が視界から消えると美千代はハイからオールを借りて漕いでみた。カヌーは穏やかな水面に控えめな波を立て、まだ遠く離れた船着き場へ向けてゆっくりと流れていった。

2022年7月18日公開

© 2022 古戯都十全

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"岩と凪"へのコメント 14

  • 投稿者 | 2022-07-21 09:12

    『あなたへ』っていう高倉健さんの最後の映画みたい!素敵!
    海を臨む高台の所から、はがき(確か)を投げるシーンが最高に素敵なんですけど、それを思い出しました。いいベトナム人、に会って、これだから人生はやめられない。ってあって、写真が見えなくなったら、オールを借りて舟をこいで。素敵すぎる。涙出ちゃう。

  • 投稿者 | 2022-07-22 13:27

     事故死した夫に裏切りがあったらしいことに気づき、夫が職場に飾っていたベトナムの世界自然遺産であるハロン湾を訪ね、夫とのこれまでを回想し、気持ちの整理をする。最後に自らの手でカヌーを漕ぐ場面が、主人公の心情を象徴している。短時間の出来事の中で回想シーンをはさむ構成も、作者の実力が窺える。欲を言えば、ハロン湾の訪問によって意外な事実を知ることに、みたいな驚きがあれば、さらに完成度が上がったように思う。
    もったいつけた回りくどい表現が目立ち、読む作業の妨げに感じた。「ミス・メルセデス」では、平易で読みやすい文章が書ける人だと認識していたので、ちょっと残念。

    • 投稿者 | 2022-07-24 14:02

       アマチュアさんの中には、終盤にひねりを加えることを堕落だと思い込んでる人もいるらしいが、そう言う連中に限ってクソつまらないものを書き続けているもの。新人賞の選考過程で「終盤にもう一ひねりがあれば残したのに」との声と共にどれだけ多くの原稿が無駄玉となって消えたかを見てきただけに、おバカな意見には耳を貸さないでほしいと伝えないではいられない。もちろん自分で考えて決めるべきことなんだけどね。

  • 投稿者 | 2022-07-23 20:19

    ハロン湾と切ない心情の描写がきれいでした。心に残る良い作品だと思います。

  • 投稿者 | 2022-07-23 21:29

    蒙古斑はお尻の上にあるものだとばかり思ってましたが、調べて置見ると腰のあたりや、他の場所にある方もいるようですね。淡々と描写されるやるせなさ、読み手が受ける印象を考えて書かれているのだろうなあ。上手く表現されていました。

  • 投稿者 | 2022-07-24 00:17

    冒頭の風景描写や言葉の通じなさからして美千代が近づこうとするのを拒否する雄造を象徴しているようで良かったです。彼/彼女/その他が何を考えていたのか、知りたかったけど多分もう一生わからないだろうという事結構ありますよね。意外な事実とかそれ系の陳腐な物語に回収せず、わからないまま、拒まれたままを受け入れるしかない諦念のこもったかのようなラストが心に沁みました。

  • 投稿者 | 2022-07-24 06:23

    美しい作品だ。中山美穂あたりを主演に迎えて映画になってほしい。「徐々にカヌーが離れて波を失った写真は湾の中の一点と化した」というくだりで、「船が岩を逸れてゆっくり離れると、ようやくそれが湾の中の、あるいは世界の中の小さな一点であったことに見る者は気づき、胸をなでおろすことになる」という冒頭の描写で示された離見の見を美千代が得られたことが示唆されており、安心した。それにしても今回は作品数が多く、ここまでたどり着いてヘトヘトになった。

  • 投稿者 | 2022-07-24 11:19

    オールが作る控えめで静かな波と観光船が突進してくる大波と、何事も思わず淡々と時を過ごす穏やかな人生とトラックの追突でぐしゃぐしゃに潰れた車、湾全体は鏡のように静かだけど一つ一つの岩は暴力的に屹立している。作者がいくつも提示して見せてくれた静と動(暴と言った方がいい?)は、人生の大きな流れの中でのその時々の事件の数々のようにも思えるし、大海の中の無数の小波のようにも思えます。俯瞰する目と一点のみを見つめる目と、それを美千代という平凡な女性の一身に籠めた良作と思いました。
    いつかは自分自身にも暴力的な破滅が来ることを知りつつ、穏やかに流れに身を任せて淡々と生きて行けたらいいなと、つい我が身に引き寄せて読まされてしまったことでした。

  • 投稿者 | 2022-07-24 13:16

    人生のどうにもならなさと、カヌーを被せて表現したのがとてもいいチョイスだと思いました。カヌーだけでなく船って、漕ぐ力とか動力よりも、いかに水の流れにうまくのるかの方が大事なんですよね。

    自分ではどうにもならない流れをいかに受け入れて進んでいくか、人生のテーマそのものだと思いました。

    一点だけ。自分の読み方の問題かもしれませんが、もう少し改行など、文章のメリハリがあると、展開含め内容がすっと入ってくる気がしました。

  • 投稿者 | 2022-07-24 17:12

    小説を読んでいながら、絵画を眺めるような気持ちにさせてくれる小説でした。文字の織りなす物語に息を呑みました。
    人が名勝を旅するということ、特に壮麗にさしかかったような人物が……その心模様に想いを馳せずにはいられませんでした。

  • 投稿者 | 2022-07-25 00:40

    毎回ながら丁寧な語り口がいいですね。ただ、分量と文章の密度が少しアンバランスな気がしました。この字数だともう少し風景の描写に注力してよかったのかと感じました。実習生と不倫して事故死する夫、父の死に無頓着な息子、死んだ夫のデスクに残された写真……要素一つ一つにセンスを感じるので、すべてを膨らませて長い作品にするといいのかなと思います。

  • 投稿者 | 2022-07-25 17:12

    雰囲気はいいし人物造形もしっかりしているんだけど、冗長な描写が多くてちょっと読みずらかったです。たぶん時間がなかったんでしょうけど、推敲して二割くらい削ったらもっとシャープでさらに印象的になったんじゃないかと思います。

  • 投稿者 | 2022-07-25 19:38

    謎は謎のままに。全ては美千代の想像の枠を超えないが、それでいいのかもしれない。昨今は安っぽく全てを明かす几帳面な書き手が多いが(それは読者の要請でもあるが)、わからないことはわからないままで構わないのだと、改めて考えさせられた。

  • 編集者 | 2022-07-25 21:12

    お題に対し正面から取り組みつつ、人生の不可解さをそのままさらりと受け流している。大自然の度量が思い浮かぶ。

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