二重の海

応募作品

古戯都十全

小説

4,333文字

2021年7月合評会応募作。

代役で参加した映画の撮影で、突然脚本が変更となったことに不安を覚えるひとみであったが、次第に役に入り込んでいき現実と虚構の境界をさまよう。

彼女は乱暴に車を走らせた。目的地はここからそう遠くない海岸の予定だったが、気が進まなかった。彼女は頭の中にいくつか別の行き先を思い浮かべた。が、それらはどれも魅力的ではなく、彼女の新たな意思を誘発することはなかった。代わりに彼女は部屋にそのままにしてきた死体を思い浮かべた。息があるかどうか確認はしなかったが、体に動きはなく、何より頭部から流れるおびただしい量の血が死を決定づけていた。死体の胸には割れた花瓶から落ちた黄色いバラが数本、行儀よくのっている。頭部から流れ出た血は床を伝って大きい窓のある壁の方へ。その窓の外には澄んだ青い空、空の下には海岸まで続くうねった道路と点在する樹林、そして遠くには樹林と空に挟まって見える涼しげな海。

左手にその海が見えてくると彼女は車のスピードを落として窓を開けた。風に乗って漂うほのかな潮の香りが彼女の鼻腔をくすぐる。車と並走するかのようにどこまでも続く海を、彼女は体を助手席の方へ乗り出すようにして見つめる。太陽の光が反射して彼女の視線を穿つ。まぶしさに目を閉じると、視界を遮られた彼女の脳裏に再びよぎる、部屋にうつぶせになっている死体。その実在。自分がそこにいたというその確かな感触は、一瞬視界を奪われた彼女の体全体を襲う。目を開ける。目の前に対向車が迫っている。慌てて左側の車線に戻る。しかし道路が右へカーブし始めていたため、彼女は車を制御しきれず、勢いあまってガードレールにサイドミラーをぶつける。曲がったミラーに映るのはすれ違った車から頭を出して何か叫んでいるサングラスをかけた男の顔とその口元に凝集された怒りの表情。

浜辺につながる段々になったコンクリートの頂上部に車を止めて、彼女は浜辺へ降りていく。海を見ながら履いているサンダルを脱ぐ。サンダルを手の指にひっかけて、寄せてくる波を足に受けながら砂の上を歩く。足の裏に砂が張り付くその微細な感触。前方からグレーのジャケット姿の男が歩いてくる。男は親しげな表情で手を挙げて合図したかと思うと、急に険しい表情になり、一人か、と彼女に問う。彼女はうやむやな返事をしながら背中に手を伸ばし潜ませた拳銃のグリップを握る。瞬時に神経に伝わるその硬さに比して、遅れて体内に伝わる一筋の焦燥。

 

監督が撮影を止めた。ひとみは一つ息をついて海を見やり、波が足を洗う感触に浸った。新たな監督は一昨日までの監督と違って事細かな演技の指示をした。歩行の速度、運転中に顔を向ける方向と角度、感情の表出の仕方まで。一昨日、いま監督として現場に指示を出している男とそれまで監督をしていた男との間でささやかな口論があった。口論とはいっても一方的に現監督が前監督に、その撮影の仕方に不満を告げたり注文をつけたりし、ときには怒気を含んだ声でしきりに「俺に撮らせろ」と突っかかるのに対して、前監督は冷静に逐一反対意見を述べて相手をなだめるだけであった。

昨日は撮影がなかった。口論の様子から、ひとみはこのまま撮影が流れるのではないかということも考えたりはしたが、無事に今日再開された。だがなぜ監督が変わったのかということは説明されないままだった。

昨日、ひとみは久しく会っていなかった友人と会う機会があった。食事をしながら撮影の話をすると、興味がある、見に行っていいかと問われたので、撮影スタッフの許可を得て今日連れてきた。いま友人は先ほどまでカメラを回していた男と親密な雰囲気で話し込んでいる。ひとみはカメラが回っている最中も友人がその男のそばにいるところを演技しながら目にしていた。まるで元からよく知った仲ででもあったかのような、急な接近。

映画の主役にひとみを推薦したのは、グレーのジャケットの男を演じる俳優の妻であった。もともとはその妻自身が演じる予定であったが、撮影に参加できなくなって急遽代役が必要となり、ひとみが所属していた劇団をやめてフリーになったことを噂で聞き知ったその妻がひとみに連絡をよこしてきた。ひとみは何も考えずに承諾した。演じること、代役であること、映画、主役。出演を決めたあとでそれらについて考えることで、ひとみはまだ内容も知らないその映画に入り込んでいく。ある種の助走。

浜辺の風景は撮影の合間の情景に溶け込んでいる。たどり着いた波が引くまでの間に戯れる陽に焼かれた浜の砂、やるせない鳴き声を吐くカモメのつがい。それらは浜辺で撮影を行う人間たちとの間で漏れなく共有されている。一種の共犯関係。

ひとみは監督から、自身が演じる女は不可抗力で男を殺してきたばかりであることを説明された。そしてこの浜辺で、部屋で死体となっている男と本来は二人で殺す予定だった別の男とこれから会う。そして女は男と話しながら、一人で男を殺害する機会をうかがう。

撮影は一日休みを挟んで、監督だけでなく脚本も少し変わったようだった。元々の脚本を読んでひとみはわかりにくい話だと感じていたが、数枚のコピー紙に印刷された脚本の改稿を読んだあとはさらに複雑になったと感じる。当初、部屋にいる男は死なずに彼女とともに浜辺まで行き、浜辺にいるジャケットの男が二人に謀殺され、そして浜辺に用意された車で二人が逃亡するはずであった。また、ト書には女についての説明文が饒舌に書き加えられている。一昨日までは知ることのなかった、自身が演じる女の人物像。本来は演じる役柄を知れば知るほどそれに近づいていくはずであろうが、一昨日までの脚本と今日示された改稿との間の断絶がそれを妨げる。

加えて突然の方針転換はひとみがただこの撮影の場にいること、またこの場に存在して演技することに対して著しく不安定性をもたらす。波が浜辺に寄せて砂浜を洗い、沖ではテトラポッドを襲って高く飛沫をあげる。その飛沫にも似たひとみの内心の動揺。それは口から言葉としては出てこない。

その不安定性が逆に演技にもたらす効果を撮る意図でもあるのだろうか、撮影の合間に一人たたずみ波を足にまとわせているひとみに近づき声をかける者はいない。不安定性を慎重に回避するかのように忙しなさを装い、あるいはこの撮影に不安など元々存在しないとでも言わんばかりに浜辺で戯れるように動き回るスタッフらを見ながら、ひとみは自身の演技を反芻する。まだ見ぬ自分が殺した人間とその死体のある部屋の場景を思い浮かべながら演じる自分の体の動き、顔の表情。それらが死体を部屋に残してきた人間のものであるか、思い返してみて甚だ疑問に感じる。

ひとみは今一度役を知悉するためにスタッフの戯れに近づき、折りたたみ椅子の上に置かれた脚本に目を通す。撮影がなかなか再開されない中、監督とジャケットの男を演じる役者が話し合う声が耳に入ってくる。

「俺はやっぱり脚本を変更することには反対だな」

「それは昨日話し合ったはずだ。多数決で決めたろ? そもそも、元々あってないようなストーリーだったしな」

「それはストーリーを撮ることが目的じゃなかったからさ。お前はある意味で今作の意図するところを捻じ曲げたわけだ」

「でもほとんどの人間は賛成した。だいたいあいつだって変えることに反対しなかったぞ」と言って監督は前監督の方を指さす。

「多数決か……。それが、お前がこの映画を作り変える正当性の根拠か?」

「そういうことだ。もっといい方法があったら教えてくれ」

役者の男は諦めてコンクリートの段々の方へ行き座り込む。傾き始めた太陽が水平線との間に無数の光の帯を作る。監督はテントの下に集積された道具類の中からメガホンを取り出すと、撮影隊に注意を促す。

「おい、準備できたか? 太陽がもう我慢できねえって言ってるぞ。太陽と海がヤッちまう前にさっさとッちまおうぜ!」

 

彼女は滑らかに車を走らせる。バックミラーに映るのはルーフトップを開けた車を運転するグレーのジャケットの男。彼女はミラーに映る男の顔めがけて、手で拳銃を撃つ真似をしてみる。部屋に戻ってジャケットの男を招き入れる。そしてすでに死んで死体となっている男の名前を呼ぶ。床に倒れる死体に近づきしゃがんでその顔を覗き込んだひとみは、死体と海は似ていると感じる。その言葉が意味するところの存在自体は動かないという一点において。しかし海は死体とは異なりその内部に有する波として絶えず動いている。ジャケットの男が死体を見て誰に殺されたか、疑い深い人物の名前を数人挙げ、それぞれの可能性について饒舌に語り出す。その不毛性に思わず彼女は口角を上げてにやける。ジャケットの男は、ここにはふさわしくないな、と言って黄色いバラを死体の胸の上から取り上げ、彼女の背後に回ってその頭頂部の盛り上がった髪の毛に刺す。不意を突かれた彼女は前のめりになり、腰に差した拳銃があらわになる。ジャケットの男が咄嗟に拳銃を奪う。事態を察したのか、ジャケットの男は拳銃を彼女に向けて、金はどこだ、と問いただす。彼女は後ずさりを始める。滑りそうになって少しバランスを崩した彼女が下を向くと、床には乾いた血糊。ひとみは窓のある壁までたどり着くと、後ろを振り返る。遠景には樹林と空に挟まって見える荒々しい海。言葉の意味において動かずただそこにあるものとしての海と、ただそこにありながらもダイナミックに動く波を有する存在としての海。その二重性。ひとみは演技力で海には勝てないと感じる。ただそこにあること、存在することだけでになる海。監督の指示が飛び、ひとみは視線を移す。監督とその近くでカメラを回す男、そしてその男のすぐそばでこちらを見つめる友人の姿。二人の親密性。ひとみは一息ついて窓の桟に手をかけると、右手が瓶に当たり中身がこぼれて手にかかる。何かがはじけるような乾いた音が聞こえ、続けて右手に違和感を覚えた彼女はその手を目の前にかざす。真っ赤に染まった右手の向こうにはジャケットの男が拳銃を構え、金はどこだ、次は手では済まんぞ、と叫ぶ。彼女は手の痛みで顔をゆがませながら対応策を考え、周囲を見渡す。ふと視界に見知らぬ女が入ってくる。ジャケットの男の仲間だろうか? 女は笑いながらいつの間にか床に落ちていた黄色いバラを彼女の髪の毛に刺して、部屋の奥へ。訳がわからず彼女は女を目で追うと、そこにもう二人見知らぬ男と、カメラらしき機械。ひとみは頭部を刺激する棘が気にかかり、友人が刺したバラを真っ赤な手で刺し直す。再び乾いた音。腹部の重い鈍痛に耐えきれず彼女は膝からくずおれる。視線の先には死体の顔。その顔が表情を取り戻し瞬きしたかと思うと、死体が立ち上がる。

「まだ終わらないのか? いつまで俺を死なせておく気だ?」

2021年7月19日公開

© 2021 古戯都十全

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"二重の海"へのコメント 13

  • 投稿者 | 2021-07-21 22:11

    動と静の二重の海というイメージを通して役柄と実際のひとみの二重性、もともとの脚本と書き換えられた脚本の二重性といった主題がうまく盛り込まれている。硬質な文体はハードボイルドな冒頭部分において特に効果的。バックステージものとして興味深いが、ドラマの盛り上がりには今一つ欠けるかも。

    • 投稿者 | 2021-07-24 21:58

      私はいつか、木村拓哉(クラスのイケメンとされる俳優)の代役として、とある事情から名もないおっさんが出演することになってしまうという話を書きたいと思っていたのですが、脚本が変わるという内容では、こちらの方がずっと小説らしい深みがあります。私の他愛のないアイデアは、ちょっとしたコメディとしてならありかもしれませんが、小説にはならないかなと考えさせられました。

  • 投稿者 | 2021-07-23 14:01

    私もハードボイルド書くの好きなんですけど、二ページくらいしかもたなくて、またいつものおちゃらけた調子に戻ってしまうんですよね。一回だけ全編ハードボイルドで上手くいった作品があって、それはやたらに褒められた。ストーリーは東京駅に潜む警官達が、盗撮犯を捕まえるというやつでした。「太陽がもう我慢できねえって言ってるぞ。太陽と海がヤッちまう前にさっさと撮ッちまおうぜ!」「まだ終わらないのか? いつまで俺を死なせておく気だ?」こういうレトリックが上手い作家さんだと思うのですが、それみたいなカッコいいセリフが、あと十個くらいあったらもっとよかったです。

  • 投稿者 | 2021-07-23 14:23

    役柄と現実の境目がなくなっていく描写は狙い通りにいっていると思います。
    描写が細かい分、スピード感はないのでその部分をどうやって補うかがポイントでしょうか。本作では文字通り「ドライブ」を利用することで動きを演出しているように思います。

  • 投稿者 | 2021-07-23 21:55

    わー、最後がいいなあ。これも脚本のうちなのか撮影後のことなのか分からないですし、分からなくてよいですね。「ひとみ」よりも「ジュリア」とか「マギー」が出て来そうな雰囲気なのは、翻訳調のハードボイルド文体のせいですね。

    拳銃、死体、黄色いバラ、流れる血、森、海、ドライブ、代役、脚本の変更、新監督、友達、映画を構成するかっこいいキーワードが次々に現れて不安定な心をかき乱されたのはひとみたけではなく、読む者もまた現実と映画との境目が分からなくなって行きました。
    「太陽と海がヤッちまう前にさっさとヤッちまおうぜ!」ってセリフが特に素敵ですが、ハードボイルドの世界だけの現実ですよね。

  • 投稿者 | 2021-07-24 21:59

    すみません、スマホの操作が下手でコメントの位置がおかしくなりました。
    失礼しました。

  • 投稿者 | 2021-07-25 16:47

    こういう不安定な人に、いやわからないんですけど経験もないし。でも、こういう不安定な人って演者として大丈夫なんですかね?あるいはどっか違う所で発散しているのかなあ。それとも誰しもこれくらい不安なのかな。その不安定な感じが役に反映されて、よくなるんですかね。どうなんだろう。

  • 投稿者 | 2021-07-25 20:14

    ウォン・カーワイ監督はその場その場で脚本を変えて俳優を試すようなことをして、それによって俳優の能力を引き出して素晴らしい作品を作ったことを思い出しました。筋となる物語の娯楽性もう少し強いともっと面白くなったのかなと思いました。

  • 編集者 | 2021-07-26 00:07

    映画と言う物が厳密にどうやって撮られているのか知らないが、「太陽と海がヤッちまう前にさっさとヤッちま」うと言う事に表現の美学を感じた。自然が豊かそうなだけに、登場人物の細かい描写ももう少しあれば良かったかと思う。

  • 投稿者 | 2021-07-26 01:51

    まさにこの女優さんのように、最後は一体どういう状況なのかがわからず混乱してしまいました。脚本の書き換え、監督の交代という事が作中のシーンの内容に、またこの作品自体の内容にどう作用してるのかもよくわかりませんでした。単に自分がちゃんと読めていないのかもしれません。昔の日活アクション映画のような雰囲気が全編に漂っているような気がしました。

  • 投稿者 | 2021-07-26 09:06

    ドライに劇中劇について繰り広げられる会話に「コギトブルー」を感じました。ドライでダークで、没頭してしまいました。

  • 投稿者 | 2021-07-26 14:30

    終盤のどこまでが撮影でどこまでが現実か分からない感じが気持ち悪くて好きです。

    重箱の隅をつつきますが、男の死体はうつぶせと仰向けどっちなのでしょうか? 最初の方にうつぶせとありますが、胸に黄色いバラがあるようなので気になりました。

  • 投稿者 | 2021-07-26 21:06

    セリフで締める話は、基本的に好きなんですよね。落語的な。

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