非存在者の手記

応募作品

古戯都十全

小説

5,194文字

2021年9月合評会応募作。

とある収容所跡から発見された一人のゾンダーコマンドの手記をもとに、ジャーナリストのイザークはある事実を明らかにするため、手記に登場する人物を探し当てて取材を試みる。

1943年12月21日。

肉の焼けるにおいにはもう慣れた。当初は私の嗅覚もこの臭いを異常なものと感じ取り、嘔吐を正常に機能させた。今や嗅覚を司る神経からの連絡機能は破壊されたに等しい。だがここでは、嗅覚の麻痺は作業の能率の向上をもたらす。私は指示通りに粛々と、黙然と死体を焼いている。ただひたすらガス室から運び出されてくる死体を焼くことで、私は余計な思考や迷いを頭の中から追い払っている。自分の行いを無理矢理正当化しようとするかのように、私は恐怖の叫びの途中で息絶えたであろう歪んだ顔や、口を縦に大きく開き喉の奥の深淵を見るものに開陳し、そこから魂を吸い取られでもしたようにうつろな表情を浮かべる顔をできるだけ火から避け、それらの死体の脇腹に火がつくように焼却炉へ放り投げる。この棟の監視員の親衛隊大尉がこう言っていた。

「食肉と同じで人間の体も脂肪が最も燃えやすい」

暗にそうしろと言わんばかりのこの言葉に対し、すでに考えることを放棄しかかっている私は抵抗せず、偽りの正当化によってほとんど脂肪などついてない瘦せこけた無数の死体の脇腹を燃やす。

おお、神よ! 私は同胞を焼いているのだ!

 

1944年1月13日。

この収容所内で死体処理をさせられている囚人たちによる脱走計画の噂を耳にしてから、私はその首謀者たちに接触しようと試みていた。しかし、主にポーランド系の囚人がその計画の中心であるため、私はなかなか相手にされなかったが、ある男との出会いで状況は変わった。

その男、ヤヌシュは主に死体の運搬を担っている。この男が計画に加担していることを聞いた私が計画への参加と引き換えに、もし彼が死んで私が生き残った場合、彼の息子を探し出して面倒を見ることを約束したのは、年の瀬も押し迫ったころだった。先に話しかけてきたのはヤヌシュのほうであった。なぜ死体処理をやらされるのかという疑問に彼も困惑していたのだろうか。死体を運搬しに来た焼却炉でほぼ毎日顔を合わせる私と不安を共有し、困惑の度合いを薄めたかったのかもしれない。それ以後、私はヤヌシュと目立たないように短時間、言葉を交わすようになった。互いに来し方を話し終えて私を信頼したのか彼は、自分はユダヤ人ではなくユダヤ人を匿った罪でここに連れてこられたということを打ち明けた。私は気の毒に思ったが、彼にかける言葉を見つけられなかった。押し黙っている私の心情を見抜いてか、彼はそこで例の取引を持ち出した。約束したはいいが、私自身も離れ離れになった自らの妻子、エリーゼとイザークについて思いをいたし、胸を締め付けられた。

まだ幼いイザークの無垢な顔を目の裏に浮かべながら私は自分に言い聞かせた。もう妻子が生きていると考えるのはやめろ、ここに来た時点でその覚悟はできていただろう。現状私はただ死体処理をするためだけに生かされている。家族のことは忘れて、生き延びてこの惨状を外の世界に伝えることだけを考えろ。

だが二人がもしこの収容所に連れてこられてきており、まだ生きていてこれから死んでいくのであれば、せめて私の手で二人を焼きたい。そう思う自分もいる。そして私にとってこの収容所で絶望以外の何かはかない望みのようなものがあるとしたら、もはやそれぐらいしかないのだ。

 

1944年1月21日。

監視員の数が急に増えた。おそらく収容者の数が増えてそれに伴い死体処理をする人間も増やす必要があったからだろうが、以前の隠し場所である第三棟の南側のごみ置き場の下の土の中は、近くに監視員が常時うろうろし出したため、以後はここに埋めることにする。

私の名前はパウル・ライザーマン。ドイツ系のユダヤ人だ。1943年12月10日に職場で連行され、この収容所へ連れてこられた。同時期にここへ収容された私を含めて五十人ほどが選抜され、収容所での特殊任務を強要された。その主な仕事は死体の運搬、ガス室の清掃、死体の焼却、囚人の誘導・監視などである。つまりナチスがやろうとしない、やりたいとは思わない汚れ仕事をやらされているわけである。私は家に残してきた妻と子どもを探しているが、二人はどこの収容所に収容されたのかわからない。もう死んでいるかもしれない。悲嘆は過ぎ去りつつある。今はこの収容所からの脱走計画に加担している。噂によれば、我々特殊任務を担う者は約四か月ごとにほぼ全数が抹殺され入れ替えられるという。つまりこのままであれば私の命もあと三か月ほどということだ。脱走に失敗して死ぬ場合と大差はない。

それに今となってはもう死ぬこと自体は怖くない。一方で、自分の存在を忘れられた状態で消滅させられることには耐えられない。その苦痛が私に文字を書きつけさせる。私はまだ正気だ。私はまだパウル・ライザーマンだ。狂うにはまだ早い。狂うのはここを出てからでいい。どうせ外も狂った世界だろう。

 

1944年1月26日。

すでに収容能力を超えているにもかかわらず、収容所に連れてこられる人間がどんどん増えている。死体焼却も追い付かず、焦ったナチスは囚人をガス室に入れる前に銃殺してそのまま外で焼却し始めている。恐怖とも狂気ともとれる空気を裂くような悲鳴がそこかしこに飛んでいる。

私はここへ来るまで死について何も知らなかったに等しい。目の前に大量の死体が積み重なると生と死の概念があやふやになる。存在の誤謬。存在とは生ではなく死であった。これまで私が考えていた生という言葉が意味する概念はここにはない。それはすべて死へと置き換わった。

抑圧された環境は人間からその身体的な不自由さのみならず精神の自由、思考の自由をも奪っていく。死体を焼き続けることが私の存在理由であるとは思わないが、反復はそれを日常へと変え、それについて考えることを放棄させる。この状況に耐えるには強い意志が必要だ。しかし私は死が支配するこの日常にすでに浸ってしまっている。たとえこの状況に耐えてここを出ることができたとしても、もう以前と同じようには生きられないだろう

 

1944年1月29日。

脱走は明日決行されるはずである。ヤヌシュは私に脱走の日時と集合場所を告げてから、姿を見せなくなった。昨日の夜に焼却炉に入れた無数の死体。あの中にヤヌシュと似たような顔の男がいたが、はっきりと見たわけではない。死んだのかもしれない。本当に脱走が決行されるのか。不安だ。

私にはどの人間が脱走計画に関わっていてどの人間がそうでないのか見極めがつかないので、確かめようにもうかつには話しかけられない。あとは神頼みしかない。しかしその神ですら、この数年ですでに何百万人ものユダヤ人を失ったという。この無慈悲な試練は神が計画したものなのか? そして明日の脱走計画もその神が立てたものであるとしたら、私が縋っているものに希望などひとかけらもありはしないのかもしれない。

 

 

古びた木造の集合住宅の内階段を上り目的の部屋の前につくと、イザークは一呼吸おいてから呼び鈴を鳴らした。中から、「開いている、入りなさい」というかすれた声が聞こえてきた。部屋の中は物が少なくがらんとしている。窓にカーテンはかかっていないが曇天の外から入ってくる光は乏しく、部屋全体は薄暗い。奥のガスコンロで湯を沸かしていた部屋の主はコーヒーを入れて窓際のテーブルに置いて座ると、イザークにも座るよう促した。

「取材を受けてくださってありがとうございます。まずお聞きしたいのですが、あなたはヤヌシュ・マリノフスキさんで間違いありませんか?」と言って、イザークはようやく相対した部屋の主である老人の姿を凝視した。髪の毛はほとんどなく、頬のこけた顔には白いひげがまとわりつくように生えている。うなずくだけで興味のなさそうな老人にイザークは持ってきた文書を提示した。

「それはあなたがかつて収容されていた収容所で発見された手書きの文書の写しです。読んでいただけませんか?」

老人が文書を読む間、イザークはまた細かに彼を観察した。老人は顔のどこのパーツも動かさずに文書を目から吸い込むように見つめた。そしておもむろに立ち上がり、室内を歩きながら繰り返し読む。板張りの床を歩く老人の靴の音が、がらんどうの部屋に寂しく響く。

「で、何を聞きたいのかな?」と言って、老人は文書を返して座り直した。

「単刀直入に聞きます、あなたはその文書を書いたパウル・ライザーマンさんではありませんか?」とイザークは声に力を入れて答える。

「なぜそう思うのかね?」

「思っているわけではありません。パウル・ライザーマンのことを調べました。生い立ちから収容されるまで」

老人は昔年の疲労で重そうな瞼の下の目をイザークへ鋭く向けた。かすれた声に比してその視線には張りがある。「パウルはあそこから脱走を企てて死んだ。わしは見たよ」

「収容所に残されていた記録によれば死んではいません。そもそもあなたがヤヌシュ・マリノフスキであれば脱走した後のパウル・ライザーマンのその後を知りうるはずがありません。なぜ死んだとわかるんですか?」

「彼の死体を処理したからだ。ナチスは脱走した者は全員死んだと言っていた」

「記録はそうは言っていない!」イザークは声を張り上げて立ち上がった。そして部屋の中を、円を描くように歩く。

「なぜわしをパウル・ライザーマンにしたいのか、どうもわからないが?」

イザークはテーブルに近づくと両手で勢いよく叩いた。

「それは私がパウル・ライザーマンの息子だからです。私はあなたの息子です!」。

「わしの息子は二十年前に死んだ。交通事故だった」

「事故で死んだのはヤヌシュ・マリノフスキの息子です。あなたの息子は今あなたの目の前にいる」

「君は何か大変な思い込みをしているようだ」

そう言って毛のない頭をかく老人を見て、イザークはうなだれた。

「長年あなたを探し続けてきて正直言って疲れました。あなたと会えたことでもう十分だという気持ちも多少あります。なぜならたとえあなたに否定されようとも、私にはあなたがパウルであるという確信があるからです」イザークは老人を見据えたが、彼は表情を変えずに視線を合わせている。「あなたは犠牲者です。にもかかわらずあなたはまるで犯罪者のように身を隠し続けてきた。しかも別人に成りすまして。あなたはあまりの現実の過酷さに耐えかねず自分自身を捨てたんだ。もちろん収容所での体験とその後の人生におけるあなたの辛苦を無視するつもりはない。けど自らを捨てる前に、勝手に生死を判断せずに家族を探すことぐらいはしてほしかった……」

イザークは反応のない老人の前に文書を投げ捨てた。「その文書が収容所の地面の下から発見されなければあなたに会うことはできなかったでしょう。それはあなたがかつて捨て去ったあなた自身だ。そしてその文書は私たちをつなぐ鎖でもあります。持っていてください。どんな人間も過去からは逃れられない」

部屋を出ようとドアの近くまで行ったイザークを老人が呼び止めた。

「わしへの取材はよかったのかな?」

「ヤヌシュ・マリノフスキへの取材は口実でした。私はパウル・ライザーマンに私の出自を証明してもらいたかったんです。私も時々自分の存在があやふやになることがあります。それはユダヤ人だから、親がいなかったからということだけではありません。それは、ある存在が常に別の存在を必要とすると感じているからです。人間は特にそうです。母が死んでから私には家族もおらず、長らく一人で生きてきました。でもその文書が発見されたとき、それまでどんな人間かも知らなかったあなたの存在を確かに自らの内に感じたんです。そして生きているかどうかもわからないあなたを探すことを決めたんです」

 

軋むドアの音を残してイザークは部屋を出て階段を下りはじめた。これでよかったのだろうかと胸に問うが答えは返ってこない。外まで下りたときその答えの代わりに異臭が彼の鼻を突いた。そして喉を刺す煙。煙が来る方角に気づいたイザークは咳込みながら急いで階段を駆け上がった。煙が周囲を侵食し始めている。老人の部屋のドアを開ける。窓の傍のテーブルとその付近の床が火に包まれている。そして同じく火に包まれながら動いている何か……。

「パウル・ライザーマン! パウル・ライザーマン!」イザークが叫ぶと、火だるまになった老人が振り向く。イザークが近づこうとすると老人は燃える腕で制した。その手の中にはイザークが渡した文書があり、みるみる灰になっていく。

「思い出したぞ! この臭いだ、この臭いだよ!」

老人が叫ぶと同時に火が勢いを増した。火がその存在を消し去ろうとするかのごとく燃えるさまを茫然と見つめるイザークの視界が瞬く間に煙で覆われた。

2021年9月17日公開

© 2021 古戯都十全

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"非存在者の手記"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2021-09-18 11:13

    ホロコーストの悲惨さを、力強い筆致で描き切った秀作だと思いました。ハードボイルドですね。こういう二世代にわたるような物語性の強い作品は、私はなかなか書けません。軽くなっちゃうんですよね。厚みのある文章。参考にしたいです。今のところ四作読みましたが、ホロコーストをズバリ書いたものはこれだけです。やった、という感じです。

  • 投稿者 | 2021-09-20 03:48

    あーよかった。こういう話があると思ったから、ホロコーストの事真面目に考えたり、書いたりしたら絶対に勝ち目がないだろうなって思ってたんですよ。千本松さんと一緒の意見。いや一緒じゃないかな。ごめんなさい。でもこの話はガチのやつ。ガチ。ガチ来たと思いました。あーよかった私。こんなの書けっこねーもん私。私なんて雑味しかないんだから。無駄しかねえんだから私なんて。あーよかった。

  • 投稿者 | 2021-09-22 23:12

    ホロコーストの凄惨さを真正面から扱った力作ですね。
    若干台詞が説明的な感じがしますが、臨場感は損なわれていないと思います。

  • 投稿者 | 2021-09-22 23:43

    一番最後のシーンに、おそらくこの「非存在者」が長年に渡って押し殺してきたのであろう激情が一気に噴出したような迫力を感じました。作中で「どんな人間も過去からは逃げられない」と作品自体のテーマが言表されているようですが、実際には同じような事をしながら後悔も罪悪感もなく、罰されることもなく幸福に人生を終えた人々も多いのではないかと思います。罪の意識に苛まれ続けてこういう最期を迎えるというのはある意味彼にとっても救いのようにも思いました。

  • 投稿者 | 2021-09-24 11:56

    なかなか濃厚な文体のサスペンスで迫力がありました。最近古戯都さんの作風がだんだんわかってきた気がします。

  • 投稿者 | 2021-09-24 22:56

    手記とラストが圧巻でした。一応今回のお題のために調べましたが、収容所では死体を燃やすのに、段々数が足りなくなって焼却炉を増設したそうですね。そういうことを鑑みると、老人の奇行もリアルでした。

  • 投稿者 | 2021-09-24 23:18

    労作。
    古戯都さんの力量が存分に発揮されたと思いました。
    絶滅収容所を描写するのは辛すぎて私には無理でした。よくぞ正面から取り組んで下さいました。

    孤独なイザークは自分の出自を確かめようとして父の行方を突き止めたのに、その父は他人として自らの記憶をすり替えていた。そうしなければ正気で生きられなかったのだろう、息子は息子で人生を賭けて己の存在の意味を確認したかった。父にとっては存在とは死であった。
    我が身を焼いた肉の臭いで絶望的なすれ違いを取り戻すラストシーンが見事です。こんなにグロテスクでこんなに心を打たれるラストはなかなかありません。

  • 投稿者 | 2021-09-26 00:37

    すごくよかった。リード文を読み飛ばしてしまっていたので、鈍重だな、なんでこんなん読まされてんのと思いながら日記パートに耐えていたが、戦後パートに来てミステリーとしての冴えが見えてきたとたんに日記パートが断然活きてきた。唐突なラストは『マリア・ブラウンの結婚』を思い出した。そういえば、プリモ・レーヴィも自殺だったっけ? 星五つ!

  • 投稿者 | 2021-09-26 09:39

    他の方も仰ってますが、しっかり「ホロコースト」そのものを描かれている作品だと思いました。
    自分はホロコーストを直接書いたら陳腐になりそう、且つ、不勉強のボロが出そうで向き合えなかった人間なのですが、すごいですね。
    そして主人公は最終的に、向き合うことで壊れてしまうことを避けていたのに、現実を突きつけられ、向き合った結果、燃やした死体を思いながら焼身自殺する。ここは作者の発想の力がすごいなーと思いました。すごいしか言ってないですが。

  • 投稿者 | 2021-09-26 12:49

    今回の合評会は「ホロコースト」というお題に真っ向から取り組む作品と、別の話に転化させてる作品に分かれると思っていましたが、前者の中では一二を争う優れた作品だと思います。アウシュビッツビルケナウに行った事があるにも関わらず私にホロコーストは重すぎて直接書くのを避けてしまいました。
    作品の構成も良かったです。

  • 投稿者 | 2021-09-27 12:52

    構成と文体がとても丁寧に作られていると感じました。ホロコーストを小説という形で語る時、何が可能であり、どうあるべきかについて、私も悩みながら今回書いたつもりでしたが、本作はそのひとつの答えを提示しているように思いました。短い字数にも関わらず、大きな、濃い、お話を読んだ感覚です。

  • 編集者 | 2021-09-27 16:41

    良いことは他の人がもう書いてしまった。描写力が凄まじい、良い作品だった。お題に真正面から取り組むことが中々難しそうだった(と思う)今回のお題の中で、特に正面から描写している。見習いたい。

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