印象、協定

合評会2020年11月応募作品

古戯都十全

小説

3,963文字

2020年11月合評会応募作。

あの日彼の提案により私は彼と入れ替わった。私は彼になろうとはせず私自身を生きてきたが、周囲との軋轢はなかった。彼はなぜ入れ替わろうとしたのか、私の人生とは何なのか。ある記憶が私を苛む。

彼が生まれたのはドイツ軍がポーランド侵攻を開始した日で、私はその翌日にあたる大日本帝国による降伏文書調印の日に生まれた。ただ彼も私も生まれた年はそれらが実際に起きた日からはるか後のことである。私と彼は家が近く親同士も交流があったので兄弟のように育った。ただ各々の家庭の経済状態には差があり、彼の家の方が私の家よりも裕福であり、それは色々な部分で目に見えて表れていた。しかし彼は私と常に対等に接しようとし、私もそうしようと努めていた。これはあくまで私の主観である。今考えると彼はごく早い段階から後々の人生のことを考えていたのかもしれない。

私と彼は成長過程で数多くの事物を共有したが、彼の妹に指摘されるまで私も彼も気づくことのなかった事実があった。私と彼の顔つきや体格が非常によく似ているというその事実は、互いに意図して共有したものではなかったし、またその事実がゆえに二人の関係に何か影響を与えるようなことはその時までも、またそれ以後もなかったはずである。ただこれもあくまで私の主観に過ぎない。

私たちが十四歳になる一か月前のことである。新五百円硬貨が発行されたその日、彼は部活動からの帰宅途中に突如、私との入れ替わりを提案した。鬼気迫るというほどではないが些か真剣味を帯びた彼の表情に、困惑とまではいかないが突拍子の無い提案を受けてしばし思考停止した私に、彼は約三か月間の熟慮期間を設けることを勝手に宣言して先に帰ってしまった。私はその時は、彼の冗談か何か新しい遊びの類であろうと読んでそのことについて深く考えず、すぐに忘れてしまった。だが加藤紘一が時の森喜朗内閣に対する不信任決議案に賛成の構えを見せて政局がざわつき出した頃、彼は学校の廊下で私を呼び止め、準備ができたかと言って、今度は些かも妥協の隙を見せない表情で迫ってきた。三か月の間に熟慮期間が準備期間に変わっていたことを知った私は、内心の戸惑いを表に出さずに、途中で適宜入れ替わりを解いて各自の家に戻ることができる権利の付与を条件に交渉に乗った。彼は間髪入れずに、その権利が一度だけなら問題ないと言って、彼にとってはおそらく若干であろう譲歩の姿勢を見せた。確かに私は彼と入れ替わることで自分の存在がどのように揺らぐのかに興味はあった。しかし一度しか入れ替われないリスクをどうとるか解しかねていた。今となってはそれが杞憂であったとわかる。

彼の両親は不在であることが多く、私はよく彼の両親の留守宅へ遊びに行った。マイケル・ジョーダンが二度目のスリーピートを達成した時も私は彼の家のテレビに彼と一緒に齧りついていた。そして彼の感情が最も表出し、おそらく最も興奮していたと見受けられるのは、この時ではないかと私は推測している。彼と時間を共有するとき、私は彼のことをよく観察した。それは、あまり表には出さないが、私は考え方や意見が内心で彼と対立することが多かったからである。私は自分の抱いた内心を常に彼が抱いているであろうものと比較する必要があった。この年のNBAファイナル第六戦、私は世界がマイケル・ジョーダンのスリーピート再達成を心待ちにする中、ユタ・ジャズに肩入れしていた。ジャズはその前年もジョーダン擁するシカゴ・ブルズにファイナルで敗れており、私はあまりにも強さの際立ち過ぎるブルズに嫌悪感を持っていた。ただその時は彼のあまりの熱狂ぶりに、私は彼と同じ心情ではないことを言い出せなかったのである。

入れ替わった後の私が彼の両親や彼の妹との距離に腐心することはなかった。私は入れ替わってから特に彼の人生を生きようと意識したわけではないが、それでも双方の両親をはじめ私と彼が入れ替わったことに周囲で気づく者はいなかった。だが今に至るまで私は決して彼を演じてきたわけではなく、いつも私は私であろうとしてきたし、私自身であったはずだ。ただあくまで私を私と認識するか、彼と認識するかは見る側の問題である。ともかく、私は自己の存在証明をする必要が無かった。誰もが私であろうとする私を彼として認識したのである。

逆に彼が、私が本来辿るはずであった人生において彼自身であろうとしたのか、あるいは私を演じたのかは定かではなく、その人生を堪能したのかどうかもわからない。彼は現在も健在ではあるが、このような言い方をするのには訳がある。それは、私と彼の記憶の共有が高校進学の際に進路が分かれたことで断絶したことによる。もっともそれはあの映画館での出来事が原因というわけではない。その彼が私の妹――正確には彼の妹なのだが――と結婚するつもりだと言ってきたのは、私と彼が入れ替わって十二年後の冬、第四十六回衆議院議員総選挙で自民党が与党に返り咲いて間もない頃だった。彼と妹が交際していることは妹から聞いて知っていた。ほぼ十年以上の付き合いの中で、互いに血のつながりを意識したのかどうかは定かではない。既に妹は妊娠しているということだった。彼は市役所に務めていて、将来は政治の道に進むつもりであることをその時私に吐露した。私がその日見た彼は、私が今まで見てきた彼その人であり、彼によって演じられた私ではなかった。もちろんそれは私の主観でしかないが、もしそれが正しければ彼も私も入れ替わったことと関係なく、自分自身を生きていたということになる。そうなると問題になってくるのは彼がなぜ私と入れ替わることにこだわったのかということだ。

伝家の宝刀ともいうべき入れ替わり解除の権限を私が行使したのは、アメリカ軍を中心とした有志連合がイラクに侵攻した日であった。高校への通学時の電車内で女子高生が手にしているイラク戦争開戦の号外の一面に、爆撃で煌々と光る夜のバグダッドの写真が掲載されており、それを見て私は突然戻ることを決断した。何が私にそう思い至らせたのか、おそらくそのおよそ一年前に映画館の闇の奥で体験したことが尾を引いていることは疑いようもなかった。以前いた家に戻っても私は特に違和感を覚えなかった。ただ既に彼の名前に浸りきっていた私は、両親に元の名前で声をかけられてもすぐに反応できなかったことは否めない。その日は休日であった。私は平日に入れ替わって彼の高校に行って、彼は今どのような考えのもとに生きているのか、今後どのような人生を歩もうとしているのかを探ることもできたが、そうはしなかった。そして最も重要な目的である私の妹――正確には彼の妹――と、私が本来あるべき私の立場で会うこともしなかった。彼の人生に配慮したと言えばそれまでだが、つまるところ私は恐れたのだ。知ることを恐れたのだ。

ロベルト・バッジョがPKを外した時もそうだった。その時は珍しく私の家で、彼と私と私の父も含めてワールドカップの決勝を観戦していたが、バッジョの蹴ったボールがゴールポストの上を通過するのを見て父が、ああ……やっぱりバッジョだったか最後に外すのは、と漏らすと彼はこう言ったのだ。僕もそう思ってたよ、お父さん

彼が私と入れ替わることで何を目論んでいたのか。たとえ何かを目論んでいたにしてもそうでなかったにしても、私は彼について知ろうとしなかった。ただ対象としての彼に私の頭に思い浮かぶイメージを投影していただけだった。彼と共有した時間において起きたことについて深く考えることをしなかった。それは彼が入れ替わりを提案したことについて疑義を呈さなかった態度にもつながる。そしてさらにそれは、自分自身に対しても言えることだった。入れ替わり後もあくまで彼ではなく自分自身を生きていたつもりでも、私はただ私自身に、おそらくこうであろうという私のイメージを投影していただけなのだ。

彼と私の妹――本来は彼の妹――は去年離婚した。子どもは妹が育てることとなった。彼が市長選に出馬することに対して意見が合わなかったようだが、私はもはやそこへ何かを投影することはしない。彼の腹を探ることもしない。彼は私と入れ替わることでしか彼自身の人生を生きられないと悟った。今はそう理解することにしている。また同時に私の今ここまでの人生とは一体何だったのかということも考えている。それは私が入れ替わってからの人生に不満を持っているということではない。入れ替わらずとも不満の無い人生を送ることができたかもしれないし、たとえそうならなかったとしても、どこかでこの疑問は水の底から浮かび上がってきていたであろう。そしてどのような人生を送ろうとも、その疑問は幾度となく繰り返すことになるのだ。

ともあれ入れ替わったあの日以来、私の生誕した日がドイツ軍がポーランド侵攻を開始した日となり、彼の生誕した日が大日本帝国による降伏文書調印の日となってから、それに今も変わりはない。

 

二月初旬のその日、彼は私を映画に誘った。事前にチケットを渡されていた私は彼を待たずに映画館に入り最奥の列に座った。客はまばらで空席が目立った。映画が始まると同時に彼が入ってきて私の左隣に二つ席を空けて座った。途中で彼が席を外した。戻ってきたとき彼は女と一緒だった。女は徐に下半身を晒して彼の膝の上に乗った。彼もジーンズを脱いで逆立った性器を持ち上げた。スクリーンでは数機の米軍のヘリ部隊が画面の奥から現れ、大音響のワルキューレをともなって膝下の村々へ照準を定めた。彼の性器が女の性器に侵入した。ヘリが爆撃を開始した。爆撃の光により性器の結合部が明滅した。女が顔を私の方へ向けた。私の妹だった。あるいは彼の妹だった。私と妹はしばし見つめ合った。彼が低い喘ぎ声を漏らした。妹が彼の声をその唇で封じた。結合部から白濁したものが溢れてきた。ワルキューレと二人が放つ恍惚が私の視聴覚を満たした。

2020年11月16日公開

© 2020 古戯都十全

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"印象、協定"へのコメント 12

  • 編集者 | 2020-11-17 04:08

    > 彼が生まれたのはドイツ軍がポーランド侵攻を開始した日で、私はその翌日にあたる大日本帝国によるポツダム宣言受諾の日に生まれた。

    ドイツのポーランド侵攻は9月1日
    日本のポツダム宣言受諾は8月14日
    年は別として、翌日…?(多分9月2日の降伏文書調印のことか) でもIF世界と言う事で解決出来るので全く問題ではない。
    時折複雑さに何度も読み戻った。意識の混乱が世相と共に進んでいくのが確かに記憶らしい。ぜひ公式解釈を聞きたい。

    • 投稿者 | 2020-11-17 07:09

      ご指摘ありがとうございます。降伏文書調印の勘違いでした。修正しておきます。

      著者
  • 投稿者 | 2020-11-19 08:58

    読み進めるうちに、あばばあばばばってなる内容でした。最後なんてもう、あれでしたね。グロテスクですらありましたね。ただ、あれを最後にするから、離婚もした後に話すからグロテスクに感じるのかしらと。順番の妙というか。とにかくあばばってなりました。あばばあばばばってなりました。

  • 投稿者 | 2020-11-19 15:47

    途中で妹が本当はどっちの妹なのかわからなくなってしまいましたが、それを狙ってわざとわからなくしているのだと解釈しました。

  • 投稿者 | 2020-11-20 15:51

    シャア(テキサス人)とキャスバル(いわゆるシャア)とセイラ(キャスバル妹)の映像で読んだのでエモかったです

  • 編集者 | 2020-11-20 23:29

    加藤紘一の乱やマイケル・ジョーダンなど時折挟まれる時事がとても懐かしく、自分にとってもノスタルジアな読後感でした。妹との近親相姦という内容も昨今のBLブームの中でノスタルジックでもあり、あくなきテーマへの追及を感じました。

  • 投稿者 | 2020-11-20 23:44

    じらしのテクが激しい。「あの映画館での出来事」への思わせぶりな言及は、思わず先を読みたくさせる。『地獄の黙示録・特別完全版』を観ながらの情事はきっとナパーム弾の臭いのように格別だろう。

    全編に散りばめられた政治への言及は「私」の関心を反映していると見られるが、実際に市長選に出るのは「彼」のほう。ということは「彼」は彼自身として妹を愛しながらも、「私」の人生を生きていたということか? 下世話な三面記事脳の私は「彼と妹が交際している」というくだりで「ハハーン、そういうことね」と納得してしまい、それ以降の「私」の思弁にはあまり深い関心を抱けなかった。

  • 投稿者 | 2020-11-21 02:37

    彼の人となりは妹を愛していたというより、関係性をハックする手段の方に快感を覚える人だったのかなと。
    政治家を目指したことから割り切ったマキャベリスト的な像が見えました。

  • 投稿者 | 2020-11-21 13:12

    面白く読みました。解釈するのは少し難解でした。侵略する側としての彼と、降伏を受け入れる私、己の知略で他を侵すことが自分を保つことである彼と、すべてを「そういうものだ」といった感じに受け入れつつ、受け入れたものについて考え続けることで自分を保つ私、という風に読みました。ゲームを楽しむように生きる彼は危険ですね。

  • 投稿者 | 2020-11-21 16:49

    面白かったです。
    その時々の時事ネタと個人に起こった出来事をリンクさせる語り口がまた面白いです。時事ネタがなくても十分面白いと思いますが、政治的事件を並べることでラストシーンをとても効果的にしています。自分もやってみようと思いました。

  • 投稿者 | 2020-11-22 00:21

    知ることを恐れる「私」のスタンスのために、どうして彼が自分の妹と結婚したいと思ったのかが判明せずにモヤッとしました。「伝家の宝刀ともいうべき入れ替わり解除」の行使が不発のように何事も起こらなく終わったので、読み手としては「イラク戦争開戦」の「爆撃」に匹敵するような何かが起こるのかと期待してしまいました。

  • 投稿者 | 2020-11-22 11:19

    入れ替わり解除の後またどうやってスムーズに戻ったのかしらと思いました。
    その時にもいろいろ感じそうだなぁと気になりました。
    彼のことは何となくわかったような気になれたのですが、妹は何考えて生きてたんだろうなぁと気になりました。
    映画の光で情事が照らされるのがめちゃくちゃ官能的ですね。

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