2020年 4月5日 日曜日 特集 (12)

応募作品

古戯都十全

小説

4,181文字

2020年7月合評会応募作。
働きながら一人息子を育てるシングルマザーの香鈴は、男運が悪い。ひょんなことから同棲し始めた男との関係にも潮時を感じるようになる。だがその関係は始まりからいい加減なものであり、次第に歯車が軋み出す。

もう潮時だという判断はどんな指標をもって為されるのだろうか。これまで香鈴かりんの体を通り過ぎた数人の男の例を挙げれば、土建の仕事を辞めてパチプロになると言い出す、スープラに買い替えたいから四五〇万貸してくれと言う、尻の右側に俺の名前の刺青を入れろと言う、毎日寝る前に頭をなでてくれないと自殺すると言う。香鈴は自分なりに慎重に丁寧に関係を続けていたつもりでも、自分ではどうしようもない男たちの発言が飛び出してしまう。店のママが言うには、それは単純に男運が悪いということでもないらしかった。
「見る目が無いわけじゃないと思うんだけど。ある意味男を安心させる人柄ってことかもね」

それは自分が男を駄目にしているということの裏返しなのか、と香鈴はその時複雑な気分になった。だが客観的に見れば、それは否定できない事実である。要は男がパチプロになりたいだとか、金もないのにスープラが欲しいだとか頭なでなでしてほしいだとか――刺青はいまいち解せないが――言い出せるほど相手の男に安心感を与えすぎているということなのかもしれない。
「毎日新聞買ってきてくれよ」

ダイニングのフロアに何も敷かず上半身裸の体を横にして別の新聞を読んでいる男が顔を上げて、夜の仕事に出かける間際の香鈴に言った。香鈴は、もしやこれは前兆かと思い一瞬びくっとした。常日頃と変わった言葉が飛び出すと、普段は鳴りを潜めている警戒心に否応なく袖を通してしまう。
「自分で買ってくればいいじゃない」香鈴は試しに拒んでみた。前兆に対しては反応を引き出す必要がある。
「いや、もう遅いしわざわざ出ることもないかと思って」真顔でそう返された香鈴の警戒心が勢いよく萎んでいく。
「わかった」

ついでに警戒心をさらに緩めようとする別の魔物が男の無防備な脇腹の上に全体重をかけて飛び乗る。
「ねー、これ読んで」魔物のこじんまりとした手にはお気に入りの絵本の『アンガスとあひる』。
「うはっ。重い、重いぞ、おぬし」

息子の鼓次郎こじろうと男がじゃれ合う姿は週末、香鈴が夜の仕事へ出かける前の習慣となっている。しかし出会ったばかりの頃の二人は、構ってほしいけど対面ではつれない態度を見せる子猫と人見知りの中学生が綾なすジュブナイルみたいな関係だった。それが今では。
「きじゅう~、そうしゃ~。どどどどど」

いつの間にか絵本のことを忘れた魔物の容赦ない鉄拳を下腹部に受けている男の渋面を見て香鈴は安堵して外へ出た。

 

男は元々店の客だった。駅前の寂れた繁華街に並ぶビルの中にある香鈴の勤めるスナックから三ブロック程離れた道路沿いに建つ、この界隈では名の通ったホテルで料理人をしている男で、仕事終わりにちょくちょく表情のわかりづらい少し目の引っ込んだ顔と火傷し放題の両手を見せに来ることがあった。緩やかなZ字のカウンターの角にいつも陣取る彼の相手をするのはだいたい里音か朝菜だったが、たまに香鈴が目の前に立つときは大概深酔いした時間帯で、互いに昼間の仕事の愚痴を競い合うことがあった。
「正直どうでもいいんだよ料理なんて。禄を食むためにやってるだけやし。それでもさ、手際をくそみそに言われたら、いったい自分は何してんだって気分になるよな」
「手際ならまだいいわよ。私なんかお客さんから、電話対応の声にやる気と誠意が感じられないって言われたことある。まあ確かに誠意なんて見せたことないけど」
「でも客からだろ、それは。始終一緒にいる奴に言われて見ろよ。てめえは監視カメラかよって言いそうになるし」

香鈴は、仕事はどうでもいいと言う男と違って、昼間の中古車販売店で任されている車の買い付けの仕事自体は好きだった。自分で市場調査して売り主と交渉して現物を見に言って中古車を買い付ける仕事は、周囲から何かの制限を受けることが嫌いな自分の性分に合っていると思っていた。そして男を見る目が無くても車を見る目があればいいとも思っていた。半年前までは。
「あのね、ついてきた」

どうしても人手が足りないとママに言われて平日の夜にヘルプで店に行ったその日の仕事上がり、ビルの階段の下で座っていた鼓次郎にそう言われてパニックになった。まだ秋口ではあったが、午前二時ともなればいやでも冷え込む。自分の顔を見てすぐに意識を失った冷たい鼓次郎を抱えて人通りのない小汚いビル街の歩道をおろおろしていると、斜め向かいの既に閉まった案内所の陰から男が出てきて、どうしたんよ、と声をかけてきた。男は火傷でむくんだ手で鼓次郎の体に触れて状況を察すると、同じく火傷で紅斑が目立つもう一方の手で救急に電話をかけた。

 

朝、香鈴が起きると男はまだ家にいた。今日、仕事は。
「休み。大口のパーティーがキャンセルになったらしい。それよりもさ、ショックや。書評が載ってないし」

上半身裸でフロアに胡坐をかいている男の前には昨晩出勤する前に律儀に香鈴が買ってきた昨日の毎日新聞と今朝の別の新聞が並べられている。毎日新聞の方には眼鏡をかけた男が鞄を担いで自転車に乗っている写真が大きく載っている。
「分岐点ニッポン。資本主義社会が大きな曲がり角を迎えている云々……。気鋭の経済思想家がこの先の社会のヒントを求めて現場を歩く新連載。初回はウーバーイーツらしいぞ。やってくれるね。俺の大事な書評は土曜日に移動らしいぜ。せっかく買ってきてもらったんにな」

今朝の新聞の方は、見開き右側の下の角の方にべっとりとジャムがのっている。鼓次郎の仕業か。そういえば鼓次郎は。
「今朝は機嫌よかったぞ。この記事見て、自転車買って、って言うとったし」

鼓次郎が寝る前と朝の幼稚園に行く前の、言わば別離の時間帯にぐずったり不安定な気分になることは以前からあった。けどそれを言葉にしたり態度であからさまに表すことはなかった。ただ突然動作停止したり、俯いて押し黙った後に泣きだしたりといった一種の反射として現れた。
「あんたの真似してんのよ。子どもは大人の真似をして物を覚えるの。あんた人と話す時、感情抑えるでしょ?あたしと話す時だけは別としてさ。そこちゃんと見てんのよ。本来はしのぶれども色に出てくるもんなんだけどね、感情ってものは」

母親にそう言われたとき、香鈴は人の気を知りもせずにと思ったが、男と暮らすようになるまでは、夜の出勤前は母親に鼓次郎の面倒を見てもらうこともあったのでなかなか無下にもできず、それからたびたび自分の言動を見直すことがあった。もちろん一番気を遣っていることは手をあげないことである。一人で育てると決めてからは巷で幼児虐待のニュースが飛び交うたびにプレッシャーの荷物が一つずつ増えていくような気分を味わっていた。それが自身の感情を抑えることに繋がって、さらにそれが鼓次郎に伝染して。という感じか。

 

「機銃~、掃射~」

ボックス席で二人組の客の相手をしていた香鈴は、店内に響く下手くそなカラオケの隙間から聞き覚えのある声を耳にしてびくっとなり、思わず尻の左側が持ち上がった。
「やだー、しもだっち、久しぶりじゃない」ママのさらに大きい声を聞いて、香鈴は我慢できずに飲み物を取りに行くふりをしてカウンターに行き、朝菜と交代してもらう。
「何しに来たのよ?」男はだいぶ酔っているようで、目が据わっていない。へらへらした表情でグラスを突き出してくる。
「酒飲みに来たんだろうが。おぬしとな。それともなんだ、俺たちは一緒に飲めない関係なのかな?」

もちろん一緒に住んでいるからと言って店に飲みに来てはいけないとは一言も言っていなかったが、同棲するようになってから男が店に来ることは一度もなかった。そろそろ潮時か、と香鈴は思ったが、そもそも潮時の前提となる関係自体が成立してはいなかったことに気づいた。心配だからと言って男が鼓次郎の様子を見に来るようになり、心配だからと言って鼓次郎と一緒に遊ぶようになり、心配だからと言って香鈴のアパートに泊まり、そして心配だからと言ってアパートに荷物を入れる頃には、香鈴はそれらが告白の類なのだと勝手に理解していた。そこで冬のある日、母親が、「寂しさに家を出たらいずこも同じ夕暮れじゃなくて鼓次郎の顔が見えたのよ」と訳のわからないことを言って息子を拉致していったので二人きりになった時、ベッドで横になっている男の背後からおもむろにシャツの中に手を入れてその胸に触れてみたことがある。反応はいたって簡単。やめてくれ、と言って手を邪険に払われた。それ以来行動に移しておらず、男から誘われることもない。つまりセックスもしていない関係に潮時も何もないではないか。
「今日こそ頭に来たから、うざい上司の中華鍋ひっくり返してそこにションベンひっかけてきてやったし。はっは」いつになく表情豊かな男の顔を見ながら、香鈴は酒を注いでやった。
「これ飲んだら帰ってよ。誰にも言ってないのよ、あなたとのこと」
「ひでえな。愛してるって言いに来たんに」
「重いわよ、今さら」

男は急に立ち上がるとトイレに入った。すぐに出て来たと思ったら財布からお札を数枚出してカウンターに叩きつけると店から出ていった。

 

朝、香鈴が起きると部屋の中がいつもよりすっきりしていた。フロアでは上半身裸の男が新聞を広げている。その周りを鼓次郎が自転車に乗ってたどたどしく回っている。

「ぼくね、うーばーいーつ」

「ちょっと、何これ?」状況に反応しつつ声を発するも、香鈴は広くなった空間に注ぎ足す言葉を産めなかった。

「ねえ見て、あれ」息子に促されて香鈴が窓の下を覗くと、男の荷物らしきものがアパートの玄関の前に並んでいた。
「ちょっと、何あれ?」
「これで軽くなったやろ?」

香鈴は部屋の中央で佇んだ。部屋の隅には昨日までの新聞が丁寧に畳んで置いてある。気鋭の経済思想家はこの状況をどう評するだろうか。
「性欲はある。抑えてるわけじゃない。けどこれが俺なりの愛し方やし。気持ちが乗るまで時間かかるし。他にどうしろって言うんよ?」

やはり潮時だと香鈴は思った。一人で魔物に相対するのは潮時だ。これからは歪な形をした愛の弾丸を込めた機銃を携えて魔物に挑むのもありかもしれない。また新たな潮時が来たらその時はその時だし。
「ちょっと考えさせて」

香鈴は下田紀十しもだきじゅうに軽めの返答を撃った。

2020年7月17日公開

© 2020 古戯都十全

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"2020年 4月5日 日曜日 特集 (12)"へのコメント 9

  • 投稿者 | 2020-07-21 01:04

    キャラクターが独得でした。
    香鈴からの見え方の変化描写が好きです。自分の好みの話になりますが。最後に名前が出てくるのなんてすごく良いと思いました。

  • 投稿者 | 2020-07-24 15:19

    「安堵して外へ出」てから「重いわよ、今さら」と男に言うに至るまでの香鈴の心情を読み取れないまま終盤を迎えたので、この物語のポイントとされるところの、以前までの「重さ」が軽くなるという展開があまりピンときませんでした。あと、「重いわよ、今さら」という言葉が「遅いわよ、今さら」なら理解できるのですが、「重い」と「今さら」とでは相反する言葉のように思えて、どういう意味なのかがうまく読み取れませんでした。

  • 投稿者 | 2020-07-25 05:44

    一見ちゃらんぽらんな「男」がこれまでのちゃらんぽらんなだけの男たちと少し違う、という描写が小出しに出てきてラストにつながるという構成はとても上手く出来ていると思います。「書評」がどんなものか判らないのでいまいち正体がつかめないのですが、最後に明かされる名前に意味がある? 理解できなくてすみません。

  • 投稿者 | 2020-07-25 20:44

    下田紀十の最後の言葉は数か月前に転がり込んできたのに肉体関係がないことに対して、香鈴が訝しんでいることを感じ取っていたからの発言なのでしょうね。作品タイトルはウーバーイーツの記事が載っていた日付なのかしら。

  • 投稿者 | 2020-07-25 22:51

    和歌を口ずさみながら登場するお母様の方につい心惹かれてしまいました。お母様に倣って、
    逢はでこの世を過ぐしてよとや
    (これからずっとヤらずに生きてけってのかい)

    それはともかく、この作品は連作の一部なのでしょうか。タイトルに(12)とあるので、前後があるのかと検索しても見当たらないし。お題の「初めてのUber Eats」もあまり関連がないような。

    母子家庭に転がり込む料理人で評論家目指す男、でも肉体関係はない、それなのにいつの間にか離れ難くなっている、話自体は面白く続きが気になります。

  • 投稿者 | 2020-07-26 15:31

    下田が不能なのか詳しくは分かりませんが、それも作者の世界観の独自性を担保している気がします。すでにコメントされていますがUberEats感は皆無なのも個性として読みました。

  • 投稿者 | 2020-07-26 18:40

    料理の仕事をしつつ、新聞に書評を書いて小銭を稼ぐ文学青年崩れでインポのヒモ。男を受け入れてしまったシングルマザーの女。情熱があるのか倦怠しているのかも曖昧なまま続いてきた二人の関係がよく描けている。男のフルネームを一番最後になって明かす理由はなぜだろうと思った。機銃掃射のダジャレを強調しようとしたため? あと、酔っている時こそ目が据わるんじゃないかなとも思った。タイトルはよくわからなかった。

  • 投稿者 | 2020-07-26 22:30

    新しい作品から順に読んでいる俺にとって、ドロヘドロ系が続いたあとに急に爽やか系が飛び込んできたんで脳がこむら返りを起こしている。中年になってくると最初の性交渉ってわりといろいろハードルありますよねーと共感多し

  • 編集者 | 2020-07-27 16:42

    残念ながら人間関係はUberEatsでは解決できない。申し訳ない。

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