わたしが縄文時代に妙に詳しいのは、仕事で関わったからだ。日本史の成績はいまいちだったし、そもそも縄文時代のことなんて中学でも高校でもたいして教えてはくれない。大学にだってわたしの学部にはそんな講座はなかった。縄文文化研究会(任意団体)から仕事の依頼が来たときは、事前に結構な量の文献を買い込んで読み込んだ。一週間ぐらいはたっぷり脳を漬け込んで打ち合わせに挑んだのだ。
縄文時代とは。約一万五〇〇〇年前から、二五〇〇年前までと言われている。誰に? 歴史学者とかそういう人々にだ。一般の人は「大昔」ぐらいしか知らないし、石器時代とか弥生時代とはっきり区別がついている人はあまりいない。縄模様の土器を使っているってぐらいかな。あとは毛皮の服を着ているとか、石器の槍を持ってるとか。なんか藁を積んで作った家に住んでるとか。そんなイメージだと思うし、わたしもそうだった。客先で困らないように、その拙い知識を補強しようと思ってのだけど、いろいろ文献を読み漁った結果、拙いまま細部に詳しくなっただけだった。なんというか、いろいろな研究がされているけれど、実のところ「よくわかってない」というのが大きな壁として立ちはだかってしまうから、みんな研究者の予測だったり憶測だったり、推察だったりして、あんまりはっきりしていない。一番の原因は文字が残ってないから。なんらかの言葉は喋っていたと思うけど、縄文時代は文字がなかったから、当たり前だけど当時の文献がない。つまり、その頃生きていた人々の生の声がわからない。わたしたちに示されるのは、土器や集落の跡地から出土する資料を分析した上での推理しかない。だからあの有名は「遮光器土偶」が、本当はどんな名前だったかなんて、誰にもわからない。記録も残ってないわけ。その遮光器だって、作った人が本当にエスキモーが使うサングラス的なアイテムを見て作ったのかどうかもわかんないわけで。今の人がそうかもって思ってるだけ。ちょっと目がはれぼったくて、糸目の人の顔なのかもしれない。ぜんぶかもしれない。わたしたちは、縄文について「かもしれない」で埋め尽くすしかなかった。彼らと出会うまでは。
「起きろ」
「……んは!」
「着くぞナカヨシ」
目を覚ますと新幹線は見知らぬ田園を走っていた。踏切音が聞こえる。在来線を走るちょっと特殊な新幹線ならではの瞬間だけれど、終着駅まではわずかだった。あわてて網棚から荷物を下ろして身支度を整える。仕事でスーツを着るのなんて久しぶりだから妙な感じがする。先輩も珍しくスーツ姿だ。わたしたちはちょっと新鮮な気分でホームに降り立った。
改札には見知った顔が待っていた。旧・縄文文化研究所広報課長だった根羽子沢課長だ。当時より少しふっくらしたかな。笑顔は相変わらずだ。根羽子沢さんはわたしたちのことを先生と呼ぶ。照れくさいのでやめて欲しいのだけど、あの人の中ではデザイナーや物書きは全部先生らしい。
「イサカイ先生! ナカヨシ先生!」
「ごぶさたしております、根羽子沢さん」
主にセンパイが応対をする。現場の仕切りはだいたいいつも先輩にまかせている。わたしはアシスタント的について回るか、インタビューだけ前に出る感じのポジションになっている。それでわたしたちは上手くいっている。
「こちらこそです。このたびはとんだことでご足労いただいてしまって申し訳ない」
「いえ、こちらとしては特には何も」
わたしもおじぎをして二人についていく。コンコース内なのに街灯がある不思議な空間を抜けていく。提灯を見ると、またここに戻ってきたのだなと感じる。わたしたちはまだ案件の内容を聞いていない。雑誌の掲載を受けてのことだとは思うけれど、ウェブサイトのリニューアルなのか、なんなのか。追加ページぐらいでわざわざ出張もないから、もう少しヘビーな案件だとは思うけれど。ロータリーに迎えのSUVが来ていた。前のときよりちょっと高級になったっぽい。団体の羽振りはいいようだ。根羽子沢さんが助手席に、わたしたちが後部座席に並んで座る。
センパイと根羽子沢さんが当たり障りのない世間話をはじめた。気候の話とかまつりの話とか。雑誌の件はあえて避けているようではあるが、本部に着いてから改めて話すべきだと思っているのだろう。
〈縄文スタイル〉。あれからもう何年だろう。大元は根羽子沢さんが所属する縄文文化研究所が、活動内容を報告するウェブサイトを作りたいという依頼から始まった縁だ。最初に職員が作ったウェブサイトをリニューアルしたいという話だったが、あんまりにあんまりなものだったので、一旦全部捨て置いて、ゼロからの構築で作った。縄文人の文化から学ぼう。縄文人のしぐさを真似て、生活を豊かにしよう。そういう内容の啓蒙を行う団体のいわゆる公式ホームページというもの。三ヶ月ほどで突貫作業を行い、どうにか公開にこぎつけた。そのサイトのトップページにつけたキャッチコピーが〈縄文スタイル〉だった。最後の最後まで全然タイトルが決まらなかったのを、センパイと徹夜してひねり出した〈縄文スタイル〉だったから、わたしとしては多少なりともこだわりがある。再利用や流用するなら、分け前とは言わないまでもひと言欲しい。なんの権利もないけれど。だから、雑誌の表紙に出たときはびっくりしたし、がっかりした。わたしのセンパイの血と汗の結晶を無造作に、雑誌なんかにひょいとかっさらわれて。いや決してわたしが出版社に内定をもらえず全部お祈りされて、そのあとフリーライターになってから東コンに拾われたのを恨んでいるわけではない。そういうルサンチマンなことを言っているのではなく、ただなんかムカつくのだ。ああ、もう。イヤだイヤだ。そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、センパイはしれっとしたまま、和やかに団体職員らと談笑している。わたしは寝たふりをしながら、郊外の路肩をぼんやり眺めていた。クルマの前方になにかが見えてきた。竪穴式住居? いや、違う。なんか大きい。え? 大きすぎる。
「センパイ、なんかあります」
「ん? お、思ったより大きいですね」
「は、あれが我らが日本縄文開発機構=JAJAの誇る本部施設〈Jモンスター〉です。完成とお披露目は秋になります」
センパイは、ほほうと関心したようにうなずいて、謎の建築物を眺めていた。大型の体育館か、アリーナぐらいのサイズのようだが、形状はまんま縄文時代の竪穴式住居である。建築費はいくらなのか。JAJAと言ったっけ。道路はそのまま〈Jモンスター〉の口に飲み込まれるように敷地の中へと続いていた。
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