松田の返事はなかった。
いや、ぼくが「松田」と言った瞬間、その声は、世界と外界とを隔てる膜にぶつかって小さな波になり、時空のはざまへと消えていったのであった。
むろん、松田はいない。
つまり、もとからいないのである。
ぼくは、何食わぬ顔をつくって、山田を呼んだ。これには返事があった。これで全員の出席をとった。どうやらきょうは、木下と立川と松田がいない世界線にきてしまったらしい。
「きょうはこのあと単語テストやるからな。みんなちゃんと覚えてるな」
とぼくはさぐりを入れた。「えー」と飯塚が悲痛な声を上げた。悲痛な声を上げたのは飯塚だけであった。どうやらこの世界線における昨日のぼくは、ちゃんとこのクラスに宿題を課していたらしい。しかしだからと言って油断がならないのは、出題範囲がぼくのつくってきたテストと一致しているかどうかまでは、いまの反応だけで判断が出来ないからだ。
朝礼を終えて、テストをくばる。ぼくは、一番まえの席にすわる林の顔色をうかがった。きわめて平均的な成績の生徒である。出題範囲はきちんと勉強してくるが、それ以外のところを出題すると、まったく破滅的な正答率を叩き出すこの生徒が目のまえにいてくれてほんとうに助かった。
が、そう言って加えて油断がならないのは、この世界線の林がはたしてぼくの知る林と同じ性質を有しているかが判然としないからである。この林が成績優秀で、速読英単語のどこから単語を出題されても平然と満点を叩き出す生徒ではないとの保証はどこにもない。
「せんせー」
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